今考えるに、このような顛末になったのは、私が果たして本当に上達しているのか、という父側の疑問もあったかもしれないと思う。そして、これは親だけでなく、先生方も同様に思っていた疑問だったのではなかろうか。
何故なら、ホラーク先生は徹底的な基礎のやり直しをしてくださっていたからだ。つまり、私は3-4歳の全くの初心者の子達がやるようなホラーク先生直筆の手書きの基礎教材で、ドレドレドレドレ、レミレミレミレミ、とか、ドレミファソ、ソファミレドとか、そんな練習に、毎日のレッスンや練習のかなりの時間が費やされていたのである。
家で、ドレミファソ、ソファミレド、と片手ずつで弾いて練習していると、「遊んでるんじゃない、ちゃんと練習しなさい。ホラーク先生に申し訳ないだろ。」と父がピアノの部屋に入ってくる。
「だってこの練習をしなさいって、ホラーク先生が言ったんだよ。」ホラーク先生直筆の手書きの楽譜を見せる。それは、3-4歳の子が使うような、B5横書き1枚に五線が4段しかない大きな間隔の五線紙。それに手書きで、ド、レ、ミ、ファ、ソの全音符が1個ずつ書かれている。それを見て父は無言で唇を引き結んでいた。
5年生のコンクールで私が弾いたのはモーツァルト・ピアノソナタK330.
音楽の専門教育を受けている子達なら、技術的には、もっと小さい子でも充分演奏可能な曲である。(もちろん音楽的には難しいが。)
「○○ちゃんはもうショパンの○○を始めたんだって」とか、「○○ちゃんはもうリストの○○を弾き始めたらしい」「え?まだモーツァルトのソナタなんか弾いてるの?」などという声が聞こえてくる。コンクールで同級生の皆が演奏効果の高い華やかな曲を弾いていた。しかし、先生は今思えば、コンクールで華のある、よい成績を取りやすい曲ではなく、将来役に立つような、本当の基礎固めに大事な曲を選んでくださっていたのだった。
ランナーは走るフォームを変えると、一旦走れなくなるそうだ。ピアノも同じことで、基本のフォームや力の使い方を根本的に変えていた私も、一旦ピアノが弾けなくなっていた。
傍目には、私はだんだん遅れていっているように見えていたと思う。
とにかく、義務であったコンクール対策を最低限する以外は、ひたすらドレミファソ、ソファミレドの訓練。これは絶対毎日やりなさい、と言われていて、どんな曲のどんな練習より最優先だった。
加えて、レッスンでは当時、何だかよくわらからない腕を高く上げて振り下ろしたりする体操のような運動もしていた。
又、初見もいつもさせられた。咄嗟に渡された知らない曲の楽譜をその場ですぐ弾くという訓練を毎回のレッスンで2曲ぐらいずつ行っていた。
ホラーク先生は、優しくて温厚で、声を荒げることは決してないが、技術的なことに対して、1ミリも妥協しない。これでいい、とは言われない。技術的なことに関してはいつも100%を求められる厳しさがあった。「この辺でまあいいや」ということがなく本当に真剣そのものなのである。
当初、子供のうちに音楽で海外留学したのと同じ経験をさせる、という試みで、音大と附属音楽教室のご厚意で、ホラーク先生のレッスンを受けさせていただいた私だが、父の無礼な行動により、「失敗例」となってしまった。そのため、私の知る限り、その後の他の子供達にそういう機会は与えられなかったようである。
「失敗例」の張本人で、大学側のせっかくの素晴らしい試みについて、後続の道を絶ってしまった私が他人になんと言われても構わない。自業自得なのだから。
実際、当時いろいろ言われた。
「言葉が通じなかったのだ」「あの子は先生に見捨てられたのだ」などと。そうれ見たことか、と
思っていた人もいたかもしれない。
しかし、ホラーク先生の名誉のためにも、レッスン費用を負担してくださっていた音楽教室(あるいは音大か?)の恩に報いるためにも、当時誰も理解できなかった、ホラーク先生のレッスン内容、ホラーク先生が短い2年間の間に教えて下さった驚くべき内容の濃さについて、記録を残す必要があるだろう。