少し心理的な問題を書いているので
今現在不調の方はお読みに、ならない方がいいと思います。
昔から多動が当たり前に私にはありました。ただ、自分の場合は学校等の授業では椅子に座れていたり過集中などがあった為に誤解されながら生きてきました。
こだわりも強いですがしょうがいと呼ぶ程には強く無く本当に周りから誤解ばかりされる遠回りな人生でした。発達と当時用語を知らず落ち着き方すら分からず言語化も出来ませんでした。ただ暴れ暴言が瞬間的に出て不安と焦りのダブルコンボで自分自信すら攻撃の対象で本当に辛い日々で、今でも、この文を少ない言語理解・処理の脳で見ても、目が少し潤む。
幼い頃より自分は人と何か違うそれは分かる。
周りの視線が私に刺さる。痛い程に感じる。
それでも、正しい対処法・言葉が答えとして頭から出てこない。直ぐに人に聞いては疎まれる。
本当にいつもどうしていいのか分からず肉体だけがその場に存在していました。そして、いつも脳と神経が疲労困憊状態にあり。今、現在の私が過去の自分を大まかに振り返り見ても、発達と家庭環境・寄り添いや理解の無い狭い環境下で生きて来た事を感じます。
勿論、自分だけではなく、親族一同何らかしらの発達の偏りが合った可能性は否めない。
ただ、私が健常で生まれ来ていたら結果は少し違っていたのでは?という思いは捨て切れない。
ただ、発達しょうがいの悪い所だけを私は今書きたいのではありません。自分の発達から来る多動が私の過去を何とか生き残る為の武器になった事もあると考えています。
理由は、考えが健常者のように色んな物事が全て順を追って統合され過ぎていたら、今の自分は生きて居ただろうか?
発達しょうがい多動の特有の忘れっぽさに自分自身気付かず救われてきたのではないか?と今は思う。
勿論、色んな方法や考えがあるのでいい切れないが。私は、過去は変えられないから良くやったと自分の長所・短所含めて褒めてあげたいです。