もう年度末なので来年度の支度など色々ありますね。

 

今日はちょっとした事ですが引っかかった事を書こうと思います。

 

今朝私の携帯に学校から電話があり

 

「来年度も息子さんが続けて適応指導教室に通室ご希望でしたら

 

また書類を提出してほしいんですが、今更で申し訳ないのですが毎年ちゃんと書類の

 

手続きを学校がしていなかったもので、もう一度適応教室の先生にどのように書類を提出

 

するのか手順を聞いて欲しいのです。以前教育委員会に提出した際に順番が違うと

 

指摘されてしまって、、、」という内容でした。

 

(もう不登校になって3年くらい経っているので今更ですよね)なんて思いましたが、

 

それよりも学校と教育委員会の関係性の方が気になりました。

 

小学校の先生が私の携帯にわざわざ電話をかけてきて

 

書類の提出手順を適応指導教室に聞いてほしいという事については、私の息子が

 

不登校なので私が聞かなければならないとは思いますが、、、

 

手順が違うと言ってきた教育委員会の人が学校の先生に指摘したその時、その瞬間に

 

しっかりとした手順を先生に伝えれば良かっただけなんじゃないのか?

 

と思ってしまいました。もしかすると教育委員会側は学校が率先して息子を適応指導教室に

 

通室させようとしている感じで捉えたのかも。。と学校の先生が言っていましたが。キョロキョロ

 

こういう順番で提出して欲しいとその時一言だけでも伝えていたら先生も

 

私の携帯にわざわざ電話してちゃんとした手順を聞いてくださいと言わなくても良かった

 

のではないか?と思うのです。どう考えても二度手間だし時間の無駄。

 

学校と教育委員会の関係性までは私が知ることはできませんが、少なくとも先生の

 

雑務が減ったであろう今回の件は、今まで思ってきたことをもう一度本当に考えるべきこと

 

なのでは無いかと思ってしまいました例えば。。。

 

先生が忙しいという現状。(何がそんなに先生を忙しくさせているのか?忙しくさせているその仕事は本当に子供達のためになっているのか?)

 

忙しすぎる状況で子供達の事が疎かになっているのではという疑惑。

(世の中のニュースを見ていても、食事の時間が短いとか、授業の準備時間が

足りないとか一番子供達にとって必要な時間が削られてしまっているのではないか?)

 

先生たちは激務の中でも一生懸命子供のことを考えようとしてくれているが実際は?

(考えたくても余計な仕事が多くて子供達1人1人のことを細かく考える余裕がないとか)

 

通常の学級の子供達には気を配れる余裕が少々あるにしてもうちの息子のように

学校を拒否している子供や特別な配慮が必要な子供達は少々置いてけぼりな感じになっているのではないか?

例えばうちの息子に関しては学校で勉強を完全に拒否しているので

勉強をさせたい場合は自分の家で学習のプリントをインターネットからプリントアウトして

息子に持たせているだけで新しい学習の知識は自分たちで何とか進めなければなりません。

 

不登校の親の会では勉強しなくても大きくなって興味が出てくれば自分から勉強に気持ちが

向いてくる話は何度も聞いているので特に息子に対して以前のような心配(このまま大きくなって何もできなかったらどうしよう的な)はしていないのですが、では学校の意味は何なのかと思うのです。現在うちの息子にとっての学校は同年代の子供達と関わる場所になっています。

 

それで良いと言えば良いんだと思いますが、じゃあ放課後クラブと何も変わらないんじゃないのかな?学校って勉強という楽しさを教えてくれる場所ではないのかな?本来は勉強ってこんなに楽しいんだよ!友達もいて一緒に協力して目的を達成した時の感動など自宅では味わえない経験をする場所であるはずだと私は思うのです。

 

うちの息子みたいに学校を拒否する子供達の拒否する理由は本当にそれぞれだと思いますが、少なくともうちの息子のように”先生が上、子供は下で上から下に命令をして躾ける”というような学校では子供がのびのびと成長する事なんでできないと思います。

時間がないという事で生徒全員右向け右、レールに乗っけて一斉に同じ電車に乗せて出発して、途中下車したら置いてけぼりでは多様性なんてありませんし、YESマンが美しい見本だなんて日本の行く末は闇でしかないですよね。

 

ある中学校の校長先生のお便りを読んでみて、こんな校長先生がいるんだなぁとガッカリしました。

その先生が昔担任になった時に何でも快く「YES」という生徒がいたそうです。

先生はクラスのグループ編成で悩んだ時にその「YESマン」である生徒に仲良しの友達が一人もいないグループでもいいか?というと「良いですよ」と。色んな頼み事を所々でしていたそうです。またある場面で一人になっていた生徒を誘って欲しいとその生徒に頼んだり色んなお願いをした際にその生徒は「良いですよ」と言ってくれたそうです。その生徒が一番良い見本であるというお便りをおそらく学校の全員に配っているんだと思いますが、「YESマン」であることを美化している感じがそのお便りからは伝わってきました。

 

その文章を書いた先生本人の意思は必ずしも「YESマン」を美化したものではないのかもしれませんが、読み手側からしたらそう捉える人だっていると思います。(少なくとも私は

そう捉えました)

 

そんな「YESマン」が良いという昭和の初期みたいな校長先生が学校の先生達に子供達のための柔軟な対応を指示できるはずないよな。。。と

 

悲しいかな。勉強ができても人間の本質というものは数値化できないので、本当に心から人の為に頑張ってくれるという人に巡りあうということの難しさ。要するに今風に言えば

人ガチャって感じですよね。心から信頼できる人に会える事って人生で何回あるのかな。

 

長々と愚痴を書いてしまいました。

 

お付き合いありがとうございましたお願い