これも厳しい言い方になるが、これを読んでもらえれば納得していただけるかもしれない。

 

 まず以前にも書いた通り、「自称プロ演劇集団」といってもその劇団員が自分たちの興行収入だけで生活して行くことはまず皆無であることを述べた。

 

 それに踏まえ、この現在様々なエンターテイメントがある時代に「演劇」という興行媒体がこれから生きてゆく手段は「社会人(アマチュア)劇団」でこの文化を伸ばしてゆくことだとも述べた。

 

 余談ではあるが、私の地元である神奈川県には「神奈川県演劇連盟」があり、多くのアマチュア劇団が所属し活動を行っている。でもそれが盛り上がっているかは別問題である。

 

 ここで、一般に劇団が行う現在の「演劇」がどのように発展してゆくかをあまり見つけられていない劇団やその団体があると思ったので改めて順序だてて書くことにする。

 

 まず、自分たちの劇団をどのように発展させてゆくのかを考えていない、または考えているけどそれが漠然として確固たる目標がないため、的外れな努力をしているのではないかと思う。

(もしそれが全く違うのであり自分の無知の与太話であれば、私は陳謝しこのブログを削除します。)

 

 改めて演劇というのはどういうものであろうかを順序だてて述べてみる。

 

 まず、演劇の魅力とは、生身の人間が観客の目の前で臨場感あふれるドラマを見せることのできる唯一の媒体である。その臨場感だけでなく役者の息遣いや緊張感が肌にしみこんでくるようなわくわく感が味わえるもので、古代からその魅力が伝えられ今も残っていることから、時代錯誤だなどと一方的に言われて消滅して行く文化ではないといえる。

 

 今の演劇集団は、まず芝居をしたい演劇がしたいという人たちが集まり劇団を立ち上げる。そのあとにどんな面白い台本を演じようかと考えみんなで決めて、稽古をして本番で芝居をする。というルーティーンで成り立っているところが多いのではないであろうか。

 

ここに大きな問題がいくつもあることに気づいてはいないであろうか?

わかっている方には理解ができるかもしれない。

 

それを知りたい方は後編へ

 暴論のように思えることだろうが、どんな芝居を観てもだれもが思い当たることがあるかもしれないということをここに文章にしてみようと思う。

 

 まず、最初から芝居の内容がわかっている台本の上映の場合は、直接各舞台役者らの力量と演出者の能力が完全にわかってしまうことだ。最初から主役が出るお話であれば、その演技力がそこそこないと最後まで観るのがつらくなると思ってしまうし、例え演技のうまい役者がメインに立つ芝居であっても、周りとの融合が取れているのかを知るうえで演出者の力量も見えてくる。

 

 また、知らないお話の台本や、完全オリジナルの台本では、最初に出てくる役者の演技力がそのお話を左右するといっても過言ではない。あとから主役が出てくる台本であれば、最初に登場する役者はかなり演技の力量が高くないと芝居の最初に観客に注意を向けてもらうかが決まってしまう。結構芝居というものは、「終わりよければすべてよし」ということにはならない。芝居の冒頭からどんより話が進んでゆくと、最後まであとを引きづってしまう。

 

と りわけ言いたいのは、芝居の冒頭の役者のセリフの出だしの音に結構その要素がこもっている。

 

 芝居の出だしというのは、どんな役者でも緊張はすると思う。緊張しないという役者の出だしはやはり上手に進行させてゆく傾向がある。それ以外として多くあるのは、出だしの声が叫び声になってしまうとか、普段発声練習でださないほどの大きな声で芝居をみせられたと思ったときは、自分はそこで興が覚めてしまう。セリフの掛け合いから始まるお話はその掛け合いのスピードが速くなってしまう傾向があるが、それに対応できない演技を観ても同様である。

 

また、役者に限ったことでないものとしては、音響と照明である。音がうるさすぎて耳を塞いでしまったときは最後までいい芝居と思わないだろうし、照明がうまく当たっていない状況で芝居が始まると観客がいの一番に情報として入ってくるのは視覚であることが多い。それにもかかわらず舞台が明るすぎてまぶしかったり、暗すぎてつまらなくみえたりすることは、総合的に演出と舞台監督の器量がその芝居に垣間見えてしまうため、話が頭に入ってこなくなる。そのため冒頭の聴き損じがあとまで響く時もある。

 

芝居をよく観ている方々にはそのような経験はあるのではないか?

舞台役者だけでなく俳優や声優にとって必要な最大の要素は「セリフを話す」こと。

ごく当たり前のことかと思われるが、自分自身の「標準(基準)の話し方」を知っている人は意外に少ない。

では、何が自分の標準(基準)的な話し方といえば、題名にも書いたが「ナレーション(アナウンス)の能力」である。

以外に役者志望や現役で役者をやっている人はナレーション能力について身に着けていない人が多い。

いざ台本が決まって配役が決定するといきなり、配役のセリフでしゃべろうとする人や、オーディション台本が渡されたときに、すぐその役になりきって練習しようとする人が多い。

 

それに慣れてしまっている人は、自分の「基準の話し方」がわからない人が多い。

 

その状態であると、稽古又はレッスンをしたときに、偏った演技しかできない可能性が高く、演出サイドからNGが出た場合の柔軟な変更ができず、演出サイドが求めているものにならないとその芝居が成り立たなくなる。

 

そのためかえって自分ができる役の範囲を狭めてしまっていることの連続となり、次回別の芝居を行うときに、演出サイドは起用に難色を示されるといったスパイラルに陥ってしまう。

 

演出サイドのセリフのNGによる変更要求としては、話し方の速度調整、高音と低音の調整、またはリズム調整があってようやく感情調整になる。また、別の本人の理解不足によってそのセリフの意味をはき違えている等がある。そのため役者はより柔軟な発想のもとセリフがいえなければならない。

 

つまり、日ごろ役者が行うレッスンのひとつとして「ナレーション練習」を加えていただきたいのである。

特に基礎の発声、発音練習の後に行ってほしい。

 

抑揚(よくよう)のない文章の読み方、何の感情も入れずにただ坦々とセリフを口に出して読む稽古を行う。発音の整理や鼻濁音、無性化する文字の箇所に気を付けながらゆっくり丁寧に読む。

 

最初は、感情を持たない文章を練習するとよい。例えばNHKのネット動画ニュース。動画にてアナウンサーがニュースを読んでいる姿とその下にはそのアナウンサーが読み上げたニュース原稿が同ページに書いてあるサイトがある。それをお手本として実際にアナウンサーが読んだ原稿の読み方を参考にしながら練習する。

 

その後、台本を改めて口でナレーションのように読み返しほんの少し感情を入れてゆくという練習だ。これを、どの作品の台本でもまずは自分の「基準の話し方」でセリフを話し始めてゆっくりとそのセリフに感情を入れてゆく。話す速度や、音域、リズム、各所に変化がつけられるようにオールフラットにセリフを憶えていく作業をまずはやったほうが良い。

 

そうすることで、言葉の意味を相手や観客に伝わりやすくなり、自分の役の幅も広げられる。こうして役者というのは進化して行くものなのである。

前にここで書いたように、私はまず「声優」「俳優」になりたかった。

人前に出て注目を浴びたいという、自己の「承認欲求」が強かった。

これは恥ずべき欲求であり、性格が変に歪んでしまっている証拠かもしれない。

 

でも、これが自分のモチベーションとなって自分の生きる道を定めた瞬間でもあった。

 

そのためにはまず立派な「役者」にならなくてはいけないと強く思った。そのためには、たくさんたくさん役者の勉強をして演技力をみがく必要があると思った。

 

自分は可能な限り演技の勉強をした。レッスンにも通い、発声発音の技術も勉強をした。所属した劇団だけでなく、別に役者のたまご仲間と集まって独立演技集団を結成して演技の研究や勉強を一緒にした。

 

所属した劇団から次回作のキャストに選ばれた。それから3公演連続でキャストを任され、かつ、別の老舗劇団からの客演のオファーもあり出演した。自分の生活はどっぷり役者の世界にはまっていった。

 

また、独立演技集団では、長編アニメ映画のセリフをすべて書き出して、自分たちでオリジナルのアフレコ作品も作った。それだけでなく、完全オリジナルで「ラジオドラマ」を作成したりして演技研究を極めていった。

 

でも、それらをこなして来たら、何か自分の中にちょっとした「違和感」を感じるようになった。

 

役者志望で勉強しても研究しても何か限界は感じてしまい、それ以上に自分を進化させるには、このままがむしゃらにやっても自分の願望には全く近づけないのではと思った。

 

「自分の欲求を満たすにはこのままじゃいけない。」

いや、「自分の欲求は、本当に立派な役者になることなのだろうか?」

 

そんな思いがだんだん芽生えてきてしまった。

それは、「やっぱりプロの役者になるのは不可能だ。」

とあきらめてしまったのではない。

 

もし役者になったとしてもその先に自分の欲求が満たせるものがあるのか?

そんな漠然としているが、自分が不快に思えてくるような感じがわいてきたのである。

自分が入った劇団での下積み活動が始まった。

 

まずは演出助手としての自分の役割。

 

それは劇団の稽古にふさわしいものなのか否かは自分にはわからない。

 

でも、演技については誰にも負けない自信がまだ存在した。

 

というのも、配役が決まった劇団員たちの振る舞いであった。

 

誰もが配役に近づけようともせず、彼らのやりたいほうだい。

 

ヘタクソもいるし欠席ばっかする人もいる。

 

それでも彼らの個性にあった演出の配役は見事といえるものだった。(最後には欠席者もなく役者一丸となって芝居を作り上げたのには感動した。)

 

それでも自分はそんな役者にも台本の構成をみて不思議なところがあったり納得できない人にはどんどん注文をだした。これにはさぞ自分が劇団内でも煙たがれる存在だったかもしれない。

 

それでも、自分を理解してくれる役者も多く、時間が過ぎるにつれて自分の存在を認められたかもしれない。実際には自分の出席率は当時100%であったから、演出の出したい雰囲気や情景などを一番理解していたところを自負するところである。その代わり敵も多く作ってしまう結果にもなったが。

 

それ以降自分を真っ先に認めてくれたのは演出だったし、そのため演出からはとても重宝していただいた。

 

とにかくその時の役者にはいろいろ注文をだし、煙たがれたり敵を作ったりはしたが、劇団員全員が目指すものが一致していたから最後には素晴らしい作品ができたと思った。もちろんk暗客席をいっぱいにしてもらった観客の皆さんからのアンケートも賞賛されるものばかりであったことを憶えている。

 

でもそれは役者だけでなく、裏方さんもものすごく頑張っていた印象があった。装置や音響、照明、衣装や小道具も素晴らしかった。

 

それを見て改めて演劇の魅力を感じ、今後の自分としての財産になった。

 

そのなかでも、自分の一番の収穫は自分の出す演技ではなく、稽古場で自分の目の前で稽古をする役者たちが演じるたくさんの表現をみたことで、自分としての演技の幅を広げることができたからだった。

前述の役者講座では、主に発声発音のお話をしたが、今回は台本の読み方になる。

 

といっても台本は、ただの物語の設計図というか終着点への地図にしかない。

 

いわば、台本なんてあってないものである。

 

こんなことを言ってもただ支離滅裂なことを言っているだけで何も進まないと思うが、簡単に行ってしまえば、「句読点を読むな」といことである。

 

文章には読みやすいように必ず句読点をうつ。でも会話には句読点は存在しないということだ。

 

その句読点を忠実にセリフに生かしてしまうと実際に人間がしゃべったこととならないことに気付いてほしい。

 

普通の会話においても句読点入れた会話があるか注意してみてほしい。そこには絶対といっていいほど句読点は存在しない。

 

日本語はそのようなあいまいな言い方をする言語であることに気がついてほしい。

つまり相手の話が終わるまでずっと黙っているということはあり得ないのである。

 

しかし、その反対で、相手に同情を求める時や疑問に答えてほしい時など、相手の言うことを待つというために話すことをとぎる場合もある。

 

その場合は、会話のボールを受け止める必要があり、その場合は日本語を使う人はそれを察し、その空気をとらえて話し出す。

 

そういったまどろっこしい会話をするのが日本語である。

 

例え相手の言葉を妨げようとしても相手の言葉を終わるまで待つ傾向がある。これは言葉の構成上最後まで聞かないとその人の意見がわからないようになっているからだ。

 

但し、相手の言い方や、態度、それによって言葉をかぶせていうこともあるが、それは相手の気持ちや相手の醸し出す空気を読み取っての言葉である。

 

そのように日本語はその構成や使い方によってアメーバのように操ってしまうことのできる不思議な言語である。

 

なので、前述の通り最低でも、会話の中に「句読点」は存在しないのである。

 

そういったことを役者はすべて頭に叩き込んでからセリフを言うべきである。そして、その台本稽古での役者同士の言い方で幾重の表現が出てきて、それを見た演出はその構成をくみ上げていくものであるから、そういった点を踏まえてけいこに励んでほしい。

先述の通り演劇をプロで続けることは一般人、ましてや芸能界で名だたる人間以外には演劇界に黒字をもたらすことはないことを書いた。

 

簡単に言えば現在劇団として有名な集団以外はすべて赤字覚悟なのは目にに見えている。

 

それこそ今や脂ののっている芸能人、つまり集客力のある女優やアイドルなど演技がヘタクソな人を舞台に立たせなければその演劇興行自体は金儲け(収益を得ることが)ができないのである。

 

では、この演劇界の中でどのように生き残りを図っていくことが、問われているのだが、実はこのアマチュアないし社会人劇団というところに生き残る手段があると自分は思う。

 

観点を変えてみれば、報酬を考えなく、かつ、演劇界を支えられてゆくのはこれこそ「社会人劇団」なのである。

 

劇団自体には経済的に大きな負担も少なく、かつ、演劇にしか得ることができない魅力を与えられる手段としては最適である方法といえよう。

 

なぜならば、まず、劇団人が互いにお金(月謝制)を集めることで、まずは初期投資及び経費を賄うことで赤字をなくすことができる。

 

また、劇団員が全員制作(営業)活動を続けることによって内輪の演劇グループの他に来場していただく努力を行う。

 

その努力は、劇団員にとって「自分たちの演劇は観劇料に見合う作品だから見に来てほしい」という気持ちにさせることができる。

 

つまり、自分たちの演劇は他人に見せても感動を与えることができるという自覚をもち、ますます自分たちの演劇をみせようとするモチベーションとなる。

 

ここをおろそかにしている劇団は、内派の観客しか集めないただの高校生以下の「学習発表会」にすぎないのである。

 

いわば、演劇活動とは、どのくらい演劇をみたいと思ってきてくださる観客の皆さんにどのように素晴らしい演劇をみせるかが焦点なのである。

 

 

 

 

前述に、プロ劇団とそうでない劇団の境界線について書いたが、

 

では、私が実際に加入していた「社会人劇団」とそうでない「アマチュア劇団」との違いを自分なりに比較して行く。

 

今現在、存在する社会人劇団とアマチュア劇団には、大きな違いがあるとすれば、以下の点である。

 

アマチュア劇団

・芝居をみせる対象が、内輪だけのもの(お遊戯会のような物)。

・実験公演とかアトリエ公演と称して粗末に行うもの。

・自分たちが勝手に好きなものを公演するもの。

・役者がやりたい人ばっかりで裏方の存在を考えないで芝居をうつもの。

・赤字は自分たちで補填することが当たり前だと思って公演を行うもの。

・上記に踏まえることだが観劇料を無料で招待するところ。

 

社会人劇団

・劇団にコンセプトを持ち、劇団員一体となって公演を行っているもの。

・経費を劇団員の各自が公平に分担し劇団自体を赤字にさせないこと。

・一回限りの集まりではなく継続して公演をうてるもの。

・自己で演劇パッケージを持っているもの(役者、裏方、制作の技術的な継続)

・いい意味での自己完結ができているもの。

 

こんなところであろうか。

 

何が言いたいかといえば、演劇で役者をやりたいがためだけに芝居をうつために裏方やひどい場合には観客まで置いて行ってしまうあつまりである。

 

あまりにも無責任であり、演劇界をおとしめる行為で、芝居好きな私からすれば絶対に許せない行為である。

 

同じ芝居好きであってっもこんなことが理解できないのが腹立たしい。

 

ただし、自分の所属していた「社会人劇団」であってもそれぞれの演劇に対する温度差があったので、これに関しては仕方がない部分でもあったが。

劇団といえどその構成、背景、経済がある。

 

簡単に言えば、

 

プロ劇団。

独立採算制ができており、劇団員に役者、給料がが払える劇団ないし劇団主催会社。

 

セミプロ劇団

自称プロ役者らが集まって舞台をうつ劇団。(通常黒字にはならない。)

 

社会人劇団

社会人や学生から構成されるプロの劇団員ではないが、団員内にそれぞれの役者や裏方のメンバーを持ち、プロ劇団と何ら変わりない演劇活動を行う劇団。

 

アマチュア劇団

(アマチュア)がただ演劇をやりたくて、裏方もおらず発表会的な劇を行う劇団。

 

に別けられると思う。(あくまで個人的感想)


簡単に、経済背景を考えよう。

まず、収益としては、ほとんど観劇料しかない。(一部グッズ販売もあるが)

500人席が満員状態になり、一人当たりの観劇料金が5,000円とすれば、

1回の公演で、2,500,000円の売り上げとなり、これを10回公演を行えば、25,000,000円となる。

 

これに対し、公演を行うための経費は、舞台製作料、小道具、衣装などの初期費用がかかり、場合によっては消耗品となるものもあるので、1回分の経費だけとはならない。また、舞台裏方スタッフとして、照明及び音響効果の物品量を含めた技術料がかかるほか、チケット販売に伴う宣伝や営業などの制作費のほか、公演当日スタッフの人件費等が必要となる。さらに、一番大きいのは、ハコ代(会場利用料)だ。

 

上記のほとんどが、公演を行えば行うほど比例曲線で伸びる。つまり、経費は一定量かかるが、観客は常に満員であるという仮定での売り上げの話となる。

 

よほどの人気劇団でもない限り、そういうことはまずありえない。そこで多少割安にしても大口で安くチケットを購入してもらえる顧客に売り渡す。結局は「営業費」となって売り上げは減ってゆく。

 

この段階のほかの経費があることを忘れがちではある(そうではないが)役者のギャラである。これらの売り上げから上記の経費を抜いた金額から捻出しなければならない。

 

はっきり言って、儲かる仕事ではない芸能活動である。有名な劇団でなければ赤字が当たり前の商売といってもいいだろう。

 

このためプロのプロデュース公演では、そんな演技のうまくなくても「売り出し中の脂ののった芸能人」を引っ張ってきて客を集めて儲ける公演がある。というか今はこれが主流かもしれない。

 

よは、芝居を興行して黒字になるか赤字になるのかというのが、「プロ劇団」とそうでない劇団とに分かれるだけだ。

 

私が人生初めて芝居を意識したのは

当時小学生時代に母校の体育館でみせてもらった

地方廻りの劇団による手作りプロ公演であった。

地方廻り劇団の公演は自分としては心動かされた。

あんな芝居を自分もやりたいと思いあこがれた。

 

芝居の魅力が自分を引き込んだ。

あの頃から演技に魅力を忘れることができなかった。

 

自分が最初にドラマとして意識してみたのは

当時教育テレビで放送されていた

「明るい仲間」と「中学生日記」である。

 

あの時出ていた子役といわれるヘボ役者だった。

一番に感じたのは「ヘタクソ」という気持であった。

どれだけ自分が演じたら良いドラマになれることかと

演者を批評したものだった。

 

台本通りに進むドラマ。適当な演出、稚拙な演技力。

「あー。いいこと言っているのにこの演技では伝わらんだろうなー」

と感じてしまう、偉そうな想いを持っている少年時代を過ごした。

 

でも、

一番に役者になりたいと思ったことは実際には

「自己否定」と「自己逃避」と「自己承認欲求」しかない。

私は残念な人間ではあるが、それが自分の生きて「幸福感」を

得られる道であると思う。

 

最近でも

自分が開設しているYouTubeチャンネルでオフ会を

開催した時、想像以上の来客者に囲まれて賞賛された時も

自己の全欲求の達成感を得たので気持ちが有頂天にになった感はある。

 

いまも実際には

今感じることとしてまた役者をやりたいと思う

やらしい欲望である。

一度やったら絶対に忘れられない経験となるし

過去に役者として立った時の多幸感が忘れられない。

 

今はこうして演劇評論的なことをやっているが、

また将来には復帰する可能性を模索しているのであった。

 

なんてね。

演劇活動をするには並大抵の力が必要だから

現役復帰なんて軽率には言えないと思う。