聖書研究の覚書きなど・・・ブログ

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創世記の男性と女性の創造について思ったことを書くよ

 

創世記2章4節

"これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である主が、地と天を造られたときのこと。"

この2章4節以降はね、1章にざっくり書いてある創造を、

 

人間の創造にスポットを当てて、詳細に書いたもの。

 

「神のかたちとして」って言うトンデモ本があるんだけど、

 

それを書いた稲垣緋沙子さんは、1章26節とヘブル語の文法を根拠にして、

 

「必ずしも男性が女性に先立って創造されたとはならない」とか言っちゃってるんだわ

 

でもそれ、露骨な目的論的解釈だから。

 

彼女の採用している論拠は、超x3がつくほどの例外的な解釈じゃない?知らんけど。

 

暇があったら調べるわ。って言うか誰か調べて・・・

 

 

話戻すとね、

 

ここはフツーに読んだら、

 

男が作られたて、女が作られた。それ以外の解釈は無理。

 

まずね、女はどう言う風に作られたのさ?

 

アダムの肋骨からだよ?(創2:21ー22)

 

男がいないのに、どうやって肋骨とるんよ?

 

しかもね、神様は、女を作る前に、動物たちをアダムのところに連れてきたんだよね?

 

それで動物たちの中には、「アダムのためのふさわしい助け手がいなかった」といっているわけよ(創2:20)

 

だからエバを作ったんでしょ?

 

動物を男のところに連れてきて、助け手にならないから、ふさわしい助け手のエバを作ったんだよ?

 

男と女が一緒に作られたんなら、この前段が嘘ってことになりませんかね?

 

男が女に先立って作られたことは、パウロもはっきり明言してるよ。(1コリ11:8−9、1テモ2:13)

 

稲垣さん、残念。

 

ぼくらみたいな、真っ直ぐに、聖書を神のことばとして信じる者からしたら、

 

あなたのしていることは「絶対にしたらアカン」ことや。

 

ましてや彼女は、献身者※でしょ?

(※献身者:一般論で言うと、牧師さんとかのフルタイムで教会に奉仕する人ね)

 

献身者って、神と神のことばに身を捧げた人でしょ?

 

あなた様が身を捧げているのは、いったい何に身を捧げているのですか?

 

あたしゃ、自分の願望にしか見えんがね。

 

聖書が言っていないのに、自分の願望を、聖書を使って言わせているんだもん。

 

それは絶対にしたらアカンやつや!で

 

 

 20世紀の世界を二分した東西冷戦構造が終焉して間もない2001年9月11日午前8時46分、いつも通りの平穏な火曜日の朝を搔き消すが如く、突如それは起きた。1機の民間航空機がワールドトレードセンターの北側ビルに激突したのだ。すさまじい炎と黒煙、けたたましく鳴りやまない緊急車両のサイレンとともに衝撃的な映像が世界中を駆け巡った。
 十数分後の9時3分、2機目が南側ビルを直撃したとき、これが事故ではなく明確な人為的攻撃であることを世界は知った。
我々の時代を震撼させた米国同時多発テロ事件の発生である。なすすべなく眼前に崩壊していく双子のタワーを目の当たりにしながら、平穏な日常は、ある日突然、それまでの平和がまるで幻想であったかのようにいともたやすく崩れ去ってしまうことを、人類はまたしても牢記(ろうき)せねばならなかった。


 我々の生きる現代社会が冷戦後の新たな局面に突入したことを、否が応にも、誰もが予感したことだろう。現代世界が直面しているテロリズムとの戦いの大きな潮流は、この事件が撃鉄を打って幕を開けたことに間違いはない。それほどまでに歴史的な事件だった。

 当時の衝撃は今でも誰もが鮮明に記憶していることだろう。あの瞬間どこで何をしていたのか、おそらくは世界中の誰もが印象的に覚えている史上初めての事件ではなかったか。これは地球の裏側までもすっぽりと覆い尽くす網の目のようなネットワーク網によって、世界中の誰もが同じ出来事を瞬時に共有できる極めて現代的な事象として認識できる。
 私もまた出張先のビジネスホテルのテレビで第一報に触れ驚愕した。出張先から帰ってからも可能な限りテレビに張り付いて事件の推移を見守ったものだ。
 
 事件後の9月14日に、ワシントン DC にある国立大聖堂(ナショナルカテドラル)で追悼集会(プレイヤーサービス)が招集された。 当時の中継の日本語訳では追悼集会だが、言語ではPrayer Service とある通り、死者の死を悼むというよりは、生きている遺族への慰めと助け、そして知恵を神に求める祈りの集会だ。

 当時信者となってまだ10年に満たない私であったが、キリスト教形式に則って執り行われたこの追悼集会に非常な親近感を覚えた。
 参列された現職と歴代のアメリカの大統領たち、国の要職にある閣僚や軍人ら、よく知られた錚々(そうそう)たる面々が、私たちが普段歌うのと同じ讃美歌を歌い、普段私たちがするのと同じように礼拝を捧げていた。


 集会には多くの軍人らも参列しており。正装した軍人聖歌隊や軍旗を掲げる将校らが、私たちにもなじみの深い讃美歌や「グローリ・グローリ・ハレルヤ」の歌詞で知られるリパブリック賛歌を力強く歌っていた。この軍人らが直立不動で起立し、賛美を歌い、敬虔に頭(こうべ)を垂れて祈る姿に、奮い立つような印象を受けた。 



 
 テロリストが米国を攻撃した3日後、ナショナルカテドラルの国家追悼集会で、聖書のメッセージを取り次いだのが、“アメリカ国家の牧師”との異名を持つ、かのビリー・グラハム師であった。
 その日、師はいつものように”The Bible says”の枕詞が印象的な、シンプルかつ力強いメッセージで、苦難の中にある希望を説かれた。



 ライブ中継で届けられたその映像を通して、一国をさえ慰め励まし、さらに奮い立たせることのできる聖書のメッセージというものは一体何であろうかと、私は驚愕を覚えると同時に打ち震えるような感動に身じろぎもせず、集会の中継を凝視していた。
 攻撃を受けた直後、当時の大統領であったブッシュJr.氏は、詩篇23篇を引用して、大統領執務室から国民に祈りを呼びかけ、議員たちは手に手を取って、互いに肩を寄せ合いGod Bless Americaを歌い、どのチャンネルをひねっても同じ歌が聞こえ、どこの街角でもお互いのための祈りを呼び掛ける垂れ幕やボードが掲げられていた。
 彼らは――米国が今までもずっとそうであったように――この危急のときにはなお一層、神を必要としており、米国民の誰もがそれを理解しているかのように見えた。20年前の米国には、国家の求心力の真ん中にキリスト教信仰が厳然とあったのだ。
 国家が未曾有(みぞう)の危機に瀕した時にこそ、その希望はより一層明らかになる。
 


 キリスト教信仰が、国家的な試練に直面した米国で果たした役割を思うとき、私は一抹の寂しさを覚えずにはおれない。
 決して忘れることのできない2011年3月、我が国もまた国の存亡が危ぶまれる危機に瀕していたことは言うまでもない。光は闇の中においてこそ燦然(さんぜん)と輝くものだ。
 我々の信仰が核心的に有するこの希望の光は、我が国が国家存亡の霧中を彷徨っていたとき、一体どれほどの日本人に認知されたのであろうか。
 またこの希望の福音がもたらす驚異的な励ましを、それが最も必要だったあの時に、一体どれほどの日本人が享受したのだろうか。
 「アメリカはキリスト教国だから仕方ない、日本とは違う」と言って、我々は言い訳しながら、いつまでも不貞(ふて)たままでいいのだろうか。

 もう一度思い出してもらいたい、"The Bible says"とビリー・グラハム師が愚直に語り続けたあのことばを。
 それは“I say”でも“They say”でも“Everybody says”でもなく、

“The Bible says”なのだ。

 これは現代に生きる我々への火花の散るような遺言だ。それは時を超え、時代を超え、民族や国籍さえも超越して、猛火(もうか)を通り抜けてきた勇者たちのことばだ。

 いつの時代もそうだった。必要なのは物わかりの良い利口者の多数派(マジョリティ)ではなく、神のことばに捉えられ、神のことばだけを握り、寝ても覚めてもそれに魘(うな)されて止まない愚か者の少数者(マイノリティ)なのだ。
 これらの賢く立ち振る舞う事の出来ない愚か者の少数者らによって、現に米国がそうであるように、数多(あまた)の国々は征せられ、時代々々に風穴が空けられ、歴史は変えられ創られてきた。人類の営みはその事実の証言で満ちている。
 私たちは、その愚か者の創始者であり完成者である方を知っている。確かに我々もまた、その血脈、その系譜に属しているこの愚か者らの子孫なのだ。

 足りないものは一体何であるのか。哲学的社会学的な成長論や方法論か、あるいは学位か、耳障りが良く誰も傷つけない体(てい)の良いやさしい言葉か、スタイリッシュにモダナイズされたワーシップか、最新の音響や照明機器を備えた荘厳なメガチャーチか。もちろんそれらがあるに越したことはないし否定するつもりもない。

 しかしなくてはならないのは、あの伝道者が愚直にこだわり、叫び続けた"The Bible says"であり、それが指し示すところの希望の力なのだ。

 我々は、この希望のことばだけで、まだまだこの国で勝負ができるはずだ。
 それによってこの国を勝ち取るようにと、我々は早くから、王の王であり、万軍の主である司令官に招集されたのだ。
 
 それだから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにして、もう一度立ちあがろうではないか。

"しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、
無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、
さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。"
(ヘブル人への手紙 12章22~24節)

主と共に歩む皆さまに豊かな祝福がありますように。