スナップス
アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集 (表紙の人物はブレッソン本人ではありません)

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの肖像 (作家) ブレッソン撮影

キュリー夫妻の肖像 (科学者) ブレッソン撮影

最近は写真ブームであるらしい。
様々な雑誌でカメラや写真の特集が組まれている。
アーウィット、ドアノー、ブレッソン、キャパ、ハース、etc.
雑誌によると、往年の名カメラマンのスナップが「日常をアートに変えた」と言う事らしい。
気になるのは、当時世界を席巻していたライカ使いがどのような撮影方法を取っていたのかである。
スナップ写真が一世を風靡していた事とライカとの関係性とはいかなるものか、気になる。
銀塩写真を経験している方だと必ず通るのがライカ神話である。
ライカ、或はツァイスなどのドイツ製レンズには、なにか日本人が知らない未踏の領域があるのではないかしら、などなど。
夜な夜な写真雑誌を読みふけって作例写真や記事を睨んでいると熱病に感染して重篤な症状を呈してしまう。
僕の既往症でもある。
ライカのRシステムを揃えようかどうしようか、カタログと預金通帳を交互に見つめながら脂汗が止まらなかった時期がある。
MじゃなくてRと言うところは本気のライカ通の方からすると王道ではないのだけれどもね。
幸か不幸か熱病の症状は影を潜め、カメラは一眼レフ、自動露出、オートフォーカス、デジタルが覇権を握る事となったものだから話はややこしい…。
閑話休題。そうそう、撮影方法でした。最近の記事でも取り上げた田中長徳さんの著書『ライカを買う理由』の中にその答えがあったので紹介させて下さい。長患いの重い病気に特効的に効くのではと思われます。
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以下、『ライカを買う理由』著:田中長徳 からの抜粋です。
本物の理想のライカ使いなどこの地上にはひとりも存在しない!
この真実にどれだけ早く気がつくかは、ライカの道をどれだけ早く「覚悟」できるかにかかっている。 百人には百通りの、一万人には一万通りのライカの使い方あるのが真実であって、
東儀秀樹のライカの使い方はその数ある人数分の一の「固有のライカ的震動」でしかないのに、
世の中はなかなかそうは見ない。
これがライカ悲劇のスタートであるわけだ。
ライカの神様、カルチエ・ブレッソンと五〇年代半ばにパリで行動をともにした、
日本のライカの名人木村伊兵衛は、当時の「アサヒカメラ」にブレッソンがパンテオンの前で登場したばかりのライカM3を手にしている姿を撮影し、それをマッチ箱大の写真で、木村自身のコメントとともに掲載している。
それによると、本村が写真家として観察したブレッソンのライカの使い方がわかって面白い。
その意味はブレッソンはなにも″ビロードの手と鷹の眼“(これはブレッソンに対してあたえられた有名な賛辞であった)の高度テクニックを持っていたのではなかった。
「歩きながら、むこうから歩いて来る人を撮影するのは難しいから、立ち止まっている人を撮影する」
「カメラを構えたら相手がこっちを見ないうちに撮影する」
「被写体がカメラに気がついたら、ちょっと帽子をとって会釈する」
華麗なスナップに国宝級の技があると想像していた私は、いささかはぐらかされた感があった。
撮影の基本的な動作の繰り返しがそこに存在するだけなのだ。
なにもブレッソンは自分を見えなくする外套をまとっているわけでもなんでもない。
ブレッソン神話とはまったく反対側に存在する、ごくごく普通の撮影術。
その短い木村のレポートを読んで瞬時に「これは本物であろう!」と思ったのである。
たとえば、マチスが脇に鳩の入った籠をおいて、膝掛けかなにかで画集を見ているというようなブレッソンの所謂「名作」は、
仕事として撮影したのであるから、″自然なポートレート″は撮影可能であろうが、
我々ライカ人類が興味があるのは、巨匠ブレッソソが町中の人間をどのように活写していくかにあった。
なんの秘密も工夫もそこにはありはしない。
これが教えられたライカ使いの真実である。
--------------------------------------------------------------------------------
と言う結論でした。これを読んじゃったら田中氏のライカ本が売れなくなっちゃいますかしらね…。

僕の文章は田中氏の影響が色濃いですね、しかし。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの肖像 (作家) ブレッソン撮影

キュリー夫妻の肖像 (科学者) ブレッソン撮影

最近は写真ブームであるらしい。
様々な雑誌でカメラや写真の特集が組まれている。
アーウィット、ドアノー、ブレッソン、キャパ、ハース、etc.
雑誌によると、往年の名カメラマンのスナップが「日常をアートに変えた」と言う事らしい。
気になるのは、当時世界を席巻していたライカ使いがどのような撮影方法を取っていたのかである。
スナップ写真が一世を風靡していた事とライカとの関係性とはいかなるものか、気になる。
銀塩写真を経験している方だと必ず通るのがライカ神話である。
ライカ、或はツァイスなどのドイツ製レンズには、なにか日本人が知らない未踏の領域があるのではないかしら、などなど。
夜な夜な写真雑誌を読みふけって作例写真や記事を睨んでいると熱病に感染して重篤な症状を呈してしまう。
僕の既往症でもある。
ライカのRシステムを揃えようかどうしようか、カタログと預金通帳を交互に見つめながら脂汗が止まらなかった時期がある。
MじゃなくてRと言うところは本気のライカ通の方からすると王道ではないのだけれどもね。
幸か不幸か熱病の症状は影を潜め、カメラは一眼レフ、自動露出、オートフォーカス、デジタルが覇権を握る事となったものだから話はややこしい…。
閑話休題。そうそう、撮影方法でした。最近の記事でも取り上げた田中長徳さんの著書『ライカを買う理由』の中にその答えがあったので紹介させて下さい。長患いの重い病気に特効的に効くのではと思われます。
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以下、『ライカを買う理由』著:田中長徳 からの抜粋です。
本物の理想のライカ使いなどこの地上にはひとりも存在しない!
この真実にどれだけ早く気がつくかは、ライカの道をどれだけ早く「覚悟」できるかにかかっている。 百人には百通りの、一万人には一万通りのライカの使い方あるのが真実であって、
東儀秀樹のライカの使い方はその数ある人数分の一の「固有のライカ的震動」でしかないのに、
世の中はなかなかそうは見ない。
これがライカ悲劇のスタートであるわけだ。
ライカの神様、カルチエ・ブレッソンと五〇年代半ばにパリで行動をともにした、
日本のライカの名人木村伊兵衛は、当時の「アサヒカメラ」にブレッソンがパンテオンの前で登場したばかりのライカM3を手にしている姿を撮影し、それをマッチ箱大の写真で、木村自身のコメントとともに掲載している。
それによると、本村が写真家として観察したブレッソンのライカの使い方がわかって面白い。
その意味はブレッソンはなにも″ビロードの手と鷹の眼“(これはブレッソンに対してあたえられた有名な賛辞であった)の高度テクニックを持っていたのではなかった。
「歩きながら、むこうから歩いて来る人を撮影するのは難しいから、立ち止まっている人を撮影する」
「カメラを構えたら相手がこっちを見ないうちに撮影する」
「被写体がカメラに気がついたら、ちょっと帽子をとって会釈する」
華麗なスナップに国宝級の技があると想像していた私は、いささかはぐらかされた感があった。
撮影の基本的な動作の繰り返しがそこに存在するだけなのだ。
なにもブレッソンは自分を見えなくする外套をまとっているわけでもなんでもない。
ブレッソン神話とはまったく反対側に存在する、ごくごく普通の撮影術。
その短い木村のレポートを読んで瞬時に「これは本物であろう!」と思ったのである。
たとえば、マチスが脇に鳩の入った籠をおいて、膝掛けかなにかで画集を見ているというようなブレッソンの所謂「名作」は、
仕事として撮影したのであるから、″自然なポートレート″は撮影可能であろうが、
我々ライカ人類が興味があるのは、巨匠ブレッソソが町中の人間をどのように活写していくかにあった。
なんの秘密も工夫もそこにはありはしない。
これが教えられたライカ使いの真実である。
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と言う結論でした。これを読んじゃったら田中氏のライカ本が売れなくなっちゃいますかしらね…。

僕の文章は田中氏の影響が色濃いですね、しかし。
勝手にミシュランしないで
ブログネタ:どこからが自炊? 参加中ウチご飯なら自炊でしょ。
勿論、ピザやうな重の出前はナシよ。
それから、自炊がえらくて外食はポイント低いとか言う人、
自分は自炊してるの?
論点は栄養のバランスであって、
ウチとか外とか、金額の多寡とかで論じるのはナンセンスです。
自炊=節約 というステレオタイプにも違和感を感じます。
ライフスタイルの選択の問題です。
絶版

懐かしい本を買った。
だいぶ以前に青山ブックセンターで買ったような記憶が。
東京を離れる時に殆どの書籍を廃棄したのですが、
これも廃棄した中に含まれていたはず。
現在国内で見つけるのは困難なもので、
USのAmazonで見つけました。
おそらく絶版ですからマーケットプレイスで古書を手に入れました。
国際郵便で送られて来たのだったかな?
コンディションはあまり良く無いのですが、
久しぶりにページをめくると当時の感動がよみがえってきます。
書店では、よく洋書コーナーを物色して、
何時間も夢中になって良書を探していたものでした。
著者はVOGUE誌のカバーなどを担当していた方で、
魅力的な作品ばかり掲載されています。
それにしても便利な時代になったものだ。
The Stranger (Live)
The Stranger
Billy Joel
Well we all have a face
That we hide away forever
And we take them out and show ourselves
When everyone has gone
Some are satin some are steel
Some are silk and some are leather
They're the faces of the stranger
But we love to try them on
*Well, we all fall in love
But we disregard the danger
Though we share so many secrets
There are some we never tell
Why were you so surprised
That you never saw the stranger
Did you ever let your lover see
The stranger in yourself?
**Don't be afraid to try again
Everone goes south
Every now and then
You've done it, why can't someone else?
You should know by now
You've been there yourself
Once I used to believe
I was such a great romancer
Then I came home to a woman
That I could not recognize
When I pressed her for a reason
She refused to even answer
It was then I felt the stranger
Kick me right between the eyes
*(repeat)
**(repeat)
You may never understand
How the stranger is inspired
But he isn't always evil
And he isn't always wrong
Though you drown in good intentions
You will never quench the fire
You'll give in to your desire
When the stranger comes along.
忙しさに追い越されない為に
旅支度をしようかな。
ここ数年生活を膨らましてきたので、
部屋が物で溢れかえっています。
インドア生活を捨てて荒野に出る時かもしれない。
借り暮らしの映画は観ていないけれど、
そんなような心持ちになりました。
生活をコンパクトにして身軽になりたいのである。
人生そのものが旅であるとするならば、携えるものは最小限にしたい。
何にでも興味が尽きないたちなのだけれども、
拡散している心のエネルギーを収斂させる時期の様にも感じてしまうのです。
時間がないから読めないと思っている本は、
おそらく一生読まないと思うのです。
自分の心のエッセンスとは、
どんなものであるのかを探ってみたい衝動を感じています。
内向きに、内向きにと、自分の心に目を向けようとする時の方法論は、
やはり写真であり、文章であり、旅であるような気がします。
良い事が有っても過度に舞い上がる事無く、
困難に直面した時でも気分的に過度に沈みすぎない。
そんな自分で居る為に行動を始めたい。
目の前の全ての状況を素直に受容した上で粛々と歩みを進めたいものです。
ここ数年生活を膨らましてきたので、
部屋が物で溢れかえっています。
インドア生活を捨てて荒野に出る時かもしれない。
借り暮らしの映画は観ていないけれど、
そんなような心持ちになりました。
生活をコンパクトにして身軽になりたいのである。
人生そのものが旅であるとするならば、携えるものは最小限にしたい。
何にでも興味が尽きないたちなのだけれども、
拡散している心のエネルギーを収斂させる時期の様にも感じてしまうのです。
時間がないから読めないと思っている本は、
おそらく一生読まないと思うのです。
自分の心のエッセンスとは、
どんなものであるのかを探ってみたい衝動を感じています。
内向きに、内向きにと、自分の心に目を向けようとする時の方法論は、
やはり写真であり、文章であり、旅であるような気がします。
良い事が有っても過度に舞い上がる事無く、
困難に直面した時でも気分的に過度に沈みすぎない。
そんな自分で居る為に行動を始めたい。
目の前の全ての状況を素直に受容した上で粛々と歩みを進めたいものです。
真骨頂

チョートクさん、面白過ぎますよホント。
僕は古いカメラには全く興味が無いのですが、チョートクさんの文章を読むたび熱病に罹ります。
「写真をする」と言う行為が、いかに精神性に係るものであるかが体感できるからです。
例えるなら、帯刀する武士の様でもあり、旅に出る前の芭蕉の気持ちの様でもある。
普段は、何故にそこまで機材に想いを巡らせるのかを無自覚に写真を撮りがちです。
ひとつの思想なのですね。
思う程にはなかなか写らないものだから、自省するのかもしれません。
ゴルフのクラブに凝るのに似ているのだろうか?
まあ、道具のせいにしてはいけませんがね…。
自分の心の中にある物しか目に入りませんから、
心象風景なのでしょうね、全ての写真は。
僕は Nikon党 なのですけれども…。