北野唯我さんが書かれた『天才を殺す凡人』という本があります。

この本では、「天才」と「秀才」と「凡人」の特徴に触れ、その理解し合えない三角関係がうまく表現されています。




天才は秀才に興味がなく、

秀才は天才に嫉妬し、


凡人は秀才を天才だと勘違いし、

秀才は凡人を見下し、


凡人は天才を理解できず(排除しようとする)、

天才は凡人に理解されたい…

…という、いじらしい三角関係。
 
それぞれを分解して見ていくと、なんとも情景や表情までもが浮かんできそうな気がしませんか。

◆天才と秀才
 
「天才」と「秀才」は、「天才」と「努力」のように置き換えることもできます。辿り着いている場所はどちらも高みなのですが、そこまでの過程が大きく異なるように感じます。
 
努力で力を付けた秀才の目の前を、発想や能力で天才が素通りするのだから、秀才が嫉妬するのも理解できます。
 
◆秀才と凡人
秀才と凡人は努力の方向性が一緒です。努力をするorしないによってその差は生まれます。
元々の能力値にも少し差があるかもしれませんが、それでも「努力の差」によって「秀才」なのか「凡人」なのかに分かれます。
 
なので、努力をした秀才は、努力をしない凡人を見下しますし、凡人は努力できることが「天才」だと思い秀才を評価します。
秀才は努力した上でたどり着けない「天才という世界」があることを知りますが、凡人は努力ではたどり着けない世界があることを知りません。
なので、凡人の中では「秀才」が最上級になるのです。
 
◆凡人と天才
凡人は天才という世界があることを知るに至らないので、天才のことを知ること(理解すること)が出来ません。
その行動が何のための行動なのか?
その言動が何に役立って誰のためになるのか?
この辺りが理解できないので、「天才」を「奇人」と捉えます。なんか、変なことをしている人という風に見えちゃうんですね。
 
なので、凡人は変な行動をしている天才を止めようとしますし、「しっかりした人間になれよ!」と言って、『天才』から『凡人』に引きずりおろそうとします。
これが、凡人が天才を理解できていない状況です。
そうなると、天才は凡人に理解してもらう必要が出てきます。この行動はこの目的の為であって、みんなのことを思ってやっているんだ!というように説明の義務が生まれます。
 
これが、この本のタイトルである「天才を殺す凡人」の意味になるのだと思うのですが、この状況が無くならない限り革新的な発明は生まれなさそうです。
生むだけなら出来るかもしれませんが、そこから持続・展開することはなかなか難し相です。
これを読んで僕も凡人なりに天才に気付けるようになりたいな~と思いました(笑)

 
それでは、良い天才保護活動ライフを!
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