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山口 芳明 の奮闘記

31歳 京都市出身・在住
技術系派遣社員



「目に見えるモノ」に対する好奇心。2つの職場で見つけた自分らしい働き方。



中学時代の成績はどの科目も最高点に近かった。高校時代から、「目に見えて何の役に立つのかわからない」勉強に興味がなくなり成績は急降下した。物理と政経だけは勉強をしなくても5段階評価の5がついていた。高校卒業のとき、バイクが欲しくてもう働こうと思った。大学を出ていない両親は進学を勧めた。
1浪ののちパソコンに興味を持ち、2年間だけ親に甘えて専門学校に行かせてもらった。自分が打ち込んだプログラムが指示したとおりに動く。久しぶりに勉強したいと思った。
新卒で入社したソフトハウスでは、発注元のメーカーからシステム開発を受託した親請け会社からの下請け仕事をした。発注元と親請け会社が話し合い不足のままに仕事が下りてきた。
方針の変更が相次いで毎晩終電近くまで働かされた。そして不完全なまま納品。当たり前のようにシステム不良が起き、九州の発注元の工場で1ヵ月間、昼夜なく修復作業をさせられた。
発注元の工場の人々はとても協力的だった。何度同じような質問をしても嫌な顔ひとつせず答えてくれる。働くのが楽しそうに見える。「一人ひとりが自分の役割をしっかりわかって協力し合えているから元気なんだろうか?」。そう思った。 
話し合い不足のまま進めた未完成品をまた顧客に納めようとした会社に見切りをつけた。徹底的に鍛えてくれた上司に感謝しながらも退社した。
モノ創りがしたくて転職したアルミ加工商社では、職人たちが何かことあるたびに話し合っていた。何度も話し合うことで隅々まで会話が行き渡っていく。大人数でモノを作るときの進め方。一人でやるとできないことがみんなでやるとできていく。面倒見の良い人たちに囲まれて2年間を過ごした。



派遣社員に誇りはいらない? 派遣会社の担当者に不満をぶつける日々が続く。



26歳のとき、開発設計がしたいという思いで、内定をもらっていたソフト会社を断り、派遣技術者の道を選んだ。経験はなかったが設計職に応募すると採用された。
大手メーカーに機械設計要員として派遣される。部分設計やマイナーチェンジ設計が中心で決して希望通りではなかったが、やりたかったハード設計には変わりなかった。
仕事内容よりも、派遣社員に対する正社員たちの対応が気にかかった。「派遣さんは、指示した仕事内容を確実にこなしてくれればいい」。大きな仕事の進め方や重要な問題解決は正社員たちだけで決める。
「こうすればいいのに」と思うことが多くある。2つの会社を経験し、組織で仕事を進めるときの別の方法を知っている。しかしそんな相談は全く来ない。
「派遣社員も話し合いに参加させたほうがいいんじゃないですか?」。いつもそう話を持ちかけた。正面から提案をぶつけるだけでなく、仕事の合間に休憩室や食堂で、たわいもない話を投げかける。同じ目的に向けて力を合わせる人間どうし、気ごころを分かり合っていたほうが絶対いい。
他の派遣会社から来ている人たちは、同じ派遣会社の仲間内にしか心を開かない。「やっても無駄やで」。そんな冷ややかな視線が向けられた。
孤独。自分の派遣会社の担当者に、ことあるたびに不満と文句をぶつけた。派遣会社にとって派遣社員は「商品」。派遣社員の将来など考えもしなければ、まして「誇り」など持たなくていいと思っていた。まだそんな時代だった。
担当者はじっと話を聞き続けてくれた。契約している業務以上のことに口は出さないでほしいという派遣先の会社からのクレームに対して、その担当者が壁になってかばってくれていた。



誇りを保つためにプライドを捨てた。少しずつ心を開いてくれる「仲間」ができた。



「ちょっと、話し相手になってくださいよー」「少し教えていただきたいことがあるのですが」。近くを通り過ぎる正社員に満面の笑顔で駆け寄っていく。手が空いたような人がいればすぐに話しかけ続けた。
「それぞれの会社には、仕事の進め方にも文化ややり方がある。それは根本的には変わらない。しかし私たちはいろんな会社のさまざまなやり方を知っている。それを応用したほうが、うまくいったりすることも多いはずなんです」。
そんな誇りがある。どちらかといえば黙々とひとつのことに熱中していたい。しかしその「誇り」を大切にするために「プライド」を捨てて話しかけていった。
1年が過ぎようとしていたあるとき、派遣先の課長から声をかけられた。「森田さんは、どう思う?」。それまで森田さんをけむたい顔で見て、派遣社員には「指示」しかしなかった人だった。自分という技術者を認めてくれ、仕事の進め方の行き詰まりを、腹を割って相談してくれた。それ以来、多く正社員が声をかけてくれるようになった。 
母親が病に臥せり、最後の3ヵ月はそばにいてやりたくて、派遣期間を契約より早めに終了させてもらった。派遣先をなくしてしまったと勘違いした職場の人々が、「私の知り合いの会社を紹介しようか?」と話を持ちかけてくれた。今でもお付き合いが続く「友人」の皆さん。



自分らしい働き方への確信。不満を聞き続けてくれた、元担当者からの誘い。



小さな喫茶店を営んでいた父親から「店、やってみるか? 不景気やけど教えたるで」と声をかけられた。それまでは「継ぐな」と言い続けていた父。転職を重ね、派遣という不安定な働き方をしている息子のことを心配してくれた。
しかし迷わず派遣技術者の道を選んだ。「コミュニケーションによって、組織がうまくまわることが、手ごたえとして分かってきた頃だったんです。それをもっと体験したかった」。
これまで愚痴や不満を聞き続けてくれた派遣会社の担当者が、みずから会社を起こして誘ってくれた。終身雇用が崩れる中で、技術者たちの将来をしっかり考え、技術だけでなく人間力の向上までをバックアップしていく派遣会社を作るという。それがジェイ・エス・エルの斎藤社長だった。
小さなときからとにかく大勢の友達と遊ぶのが好きだった。今また別の大手メーカーで新しい領域の職務について、派遣先の職場の人々に話しかけている。同じことに夢中になって力を合わせる、まるでそんな「遊び仲間」を募るように。



「京都の30歳」より