31歳 京都市在住
風流打楽「祭衆」座長
高校時代までは何でもできると思っていた。和太鼓だけはなかなか成長できない。
9歳のときに学童保育の中で株式会社太鼓センターのひがし社長と太鼓に出会った。太鼓の奥深さや大勢で力を合わせる楽しさを学んだ。最年長で小さな子どもたちの世話役。そんな役割を中学卒業まで続けた。
高校を卒業するまで、なんでもソツなくこなしてきた。運動会の個人競技はトップクラス、勉強もここぞというときだけに集中して結果を出した。何でもできるように見せていたし、何でもできると思っていた。そんな中、絶対に合格すると思っていた
有名大学の受験に2年連続で失敗した。
一浪中の19歳のとき、久しぶりにバチを握った。二浪めのときには、自分たちで新しいチームをつくり、夏祭りなどの演奏で資金を集めて運営していた。何でもすぐにトップクラスの実力を身につける自信があった。
「太鼓奏者として本気でやってみないか? まだ高いギャラを取れる分野ではないが、これだけで食えるように変えたいんだ」。2度目の受験に失敗したとき、ひがし社長から誘われた。
この世界なら自分が「情報発信者」になれる。和太鼓だけは成長を実感できていなかった。待遇は保険も含めて完全なサラリーマン。経営に余裕があったわけでもないのに、一般企業と比べても遜色のない給料を出してくれた。
要領だけで通用した。自分の世界は自分で作るしかない。そこから逃げていた。
朝まで飲み明かしてそのまま公演の舞台にあがってもソツなくこなせる。僕は太鼓でも認められた、そんなうぬぼれが未来永劫に続くと思っていた。
2年が過ぎた頃、音楽大学出身の女性がチームに加わった。ストイックに音楽の世界に立ち向かい、確固たる音楽観を築き上げていた。
「太鼓も音楽。もっともっと考えて取り組もう」と言って譲らない。ことあるごとにぶつかり、ときには泣かせてしまうほどまで彼女を論破した。それでもこだわりを引こうとしない。「いったい何なんだ!」。
「私が求めているのはそんな音じゃない」。「じゃあ、お前が見本をみせてみろ」。「違う! あなたしか打てないの! 何でもっと真剣にやらないの!?」。要領だけでこなしていて、本気になれない自分を挑発し続けてくれた。
「ちくしょう、今に見てろ」。太鼓に対する取り組み姿勢が変わっていった。祭衆も変わり始めた。
多くの人の表現力を参考にはしても、自分が追い求める技術は自分でつくるしかない。そう気づいていたが手をつけずにいた。他の楽器をさまざまな形で学び、練習方法も自分で開発していく。地道にコツコツと積み上げていった。
和太鼓を選んだから味わえる充実感。「今」を大切にするために、プロの道に進む。
27歳のときには、国の親善団として長期の海外公演に出向いた。アフリカの大使館を中心に演奏会を開くと現地職員の家に招かれ、いつか村のみんなが演奏を聴けるようにしたい、と喜ばれた。
和太鼓を選んでいなければ味わえない、日本の文化を代表している充実感。音を通じての国境を越えた心の交流。しかし空港では軍人にライフル銃を胸に突きつけられ命のはかなさを感じた。「今しかないんだ。いま自分ができることは何なんだ? 太鼓に対する取り組みはこのままでいいのか?」。
この世界に身を置くことに、なお一層の本腰がはいっていったそんなとき、会社からひとつの提案があった。このままサラリーマンとしての奏者を続けるか、完全ギャラ制による契約制に移行するか。
竹下内閣が実施した「ふるさと創生」事業が全国の伝統ある和太鼓保存会の運営を活発化させ、小中学校では和楽器の習得を必須にしていく方針が出されていた。和太鼓への関心が高まっている実感はあった。
本気で和太鼓に取り組むかどうかの決断を迫られた。生活を維持していくだけのマーケットが将来にあるのか? もし体を壊したら? 他の太鼓チームからの誘いもあった。
「僕はやる」。そう決めた。この9年間で自分に憧れて太鼓の道に入ってきた人たちに対する責任。「自分が 楽しんでいるだけではいけない」。
魅力的な演奏を続けることで顧客を教室に呼び込んで会社に寄与しているという、そんな間接的な評価ではなく、実力のみで評価されたかった。そのためにも「プロ」としての道を選ぶ。30歳を目前にしたときのことだった。
メンバーに、ひとつのことにこだわることで、「今」を大切にしてもらいたい。
結婚を真剣に考えたときに、妻や家族を幸せにするために、30年後の自分がどうなっているのかを思い巡らせた。いろいろな青写真は描ける。しかし収入が安定しないという小さな問題より前に、いくら将来を予測しても、明日何が起きるかわからないということを思い出した。
毎日を一生懸命に生きることしかできない」。「自分が幸せであることが、妻や家族を幸せにする第一条件だ」と思った。
機を同じくして2代目座長へ就任した。平均年齢20代の若い5人のメンバー。午前中の学校公演があるときは、朝4:30に起きて現地に向かい、みんなで会場設営をすることもある。取って返して教室での演奏指導。地方公演の連続で2ヵ月も家に帰れなかったり、自己管理を怠って40度の熱を出し点滴を打って舞台を務めたこともある。誰かひとりが欠けても大きな影響がでる。
「しっかりしなければ」。すべてを一人で抱え込んで、気負いだけを先行させて空回りする。しかしメンバーにも「今」を大切に生きてもらいたい。自分のときとは違って、見本になるような奏者が多くいる。どんなオファーにも応えられるだけの力をつけてほしい。40歳までには後継者を育てたい。
高校時代までは「何でもできる」と思っていた。いまは「一人の人間がいろいろなことをできるわけではない」と、ひとつのことを見つめ続ける。そして努力すればするだけ成長を感じとれるこの仕事。
働くことは生きることそのもの。自分を表現することでお客さまからは歓声・拍手とともにお金まで頂ける。働くことで自分の「今」を実感できるのだから。