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誰がために笛は鳴る

僕はサッカーを教えた。
息子は僕に、人生を教えてくれた・・

4月19日は朔太郎の11回目の誕生日だった。

普段ならこーゆーイベントごとは張り切って準備をする我が家だが、
何となく抜け殻チックになった僕たち夫婦はケーキを買うことすら怠け、
近所の焼肉屋でその夜をやり過ごす作戦に出た。

ほろ酔い気分で家に戻り子供たちが寝たのを確認すると、
僕は居間の壁に所狭しと飾られた賞状やそのときのスナップ写真などの片付け作業に取りかかった。

一枚、そしてまた一枚とホコリを払って箱にしまう度、僕の心は一年また一年と過去へタイムスリップしていく気がした。



「オトン、おれサッカーがやりたい!」

朔太郎が僕にそう言ってきたのは彼が一年生になった2002年、日韓ワールドカップのアルゼンチン対イングランド戦を観ている最中だった。
(お?ついにきたか?)なんて心の中でほくそ笑みながら、それでも僕は平静を装い彼にこう聞いた。

「そうかぁ、サッカーかぁ?でも練習とか結構きびしいんじゃないのか?、だいじょぶか?」
「うん、平気だよ。」
「一生懸命できるか?」
「うん、だいじょぶ。おれ結構強い(上手いということらしい)し、できるよ。」

男の子が生まれたとき「コイツがいつかサッカーをやってくれたらいいなぁー」とは思ったが、だからといって強制的にやらせることはしなかった。その代わりというわけではないが、大中小と様々な大きさのボールを家中に転がしておいて、自然にそのボールで遊んで行く中で、自分の意志で「サッカーをやる」と言ってくれるのを僕はひたすら待っていたのだ。

たった七歳の子供を相手に「彼も一人の人間なのだから、彼の意思を尊重すべきだ。」「道を選ぶのは彼自身だ。」なんていう、おそらくその昔どこかで聞いてきたか、何かの本で読んだだけの何の根拠もない屁理屈を信じ、ましてやそのことが、後に子供自身を苦しめることになるなんて、その時の僕には想像もできなかった。

それが証拠に、応援していたアルゼンチンが負けたにも関わらず、この日のビール(※1)は格段にウマかったのを今でも憶えている。



っということで、翌日僕は昔お世話になった恩師が監督をしているチームの門を叩き、入部の手続きをしてもらうのだった。

そしてこれが僕と朔太郎の微笑ましい、そして短いサッカー人生のスタートとなった。

(※1)書き終えてから思い出したのだが、この当時僕に酒を呑む習慣は無かったので、おそらくはビールではなくダイエットペプシかなにかだったのだろう。人の記憶なんていい加減なものだ。

http://soccer.ring.hatena.ne.jp/
http://scrapbook.ameba.jp/fantasista_book/
平成18年4月13日

この春5年生になったばかりの息子はチームをやめた。

トップチーム(6年生)の人数が少ないとはいえ彼は5年生で10番、
トップ下というポジションをこなし将来をそこそこ期待されていた選手だ。

しかも地区トレセンの選抜メンバーという名誉をほぼ手中に収めていた
この時期の退団に、よそのチーム関係者はもちろんのこと、所属チームの
指導者までもがまずは「移籍」を疑ったに違いない。

彼の名誉のために言っておくが、彼の頭の中に「移籍」という考えは微塵もなかった。
正直、何度か勧めたことはあったがついぞ彼は首を縦に振ることはなかった。

最後の最後まで、今の仲間と戦うことを選んだのだ。

その彼がチームをやめた・・・
正しくは「サッカーをやめた」
いや、もっと正確に言うと僕がやめさせたのだ。

僕は彼の人生からサッカーを奪ってしまった。

以来、僕はTVのサッカー中継を観ることができなくなった。
街でジャージを着ている少年の姿を見るたびに、目頭が熱くなった。

「自分のしたことは正しかったのだろうか?」

僕はこの答えなど出るはずのない質問を、おそらくは死ぬ間際まで自分自身に問い続けることだろう。

これはそんな頑固で未熟なオトンと、素直で優しいサッカー少年の4年間にわたる記録である。

明るく、そしてやさしい物語なのだ。
ウチのメンバー

息子→朔太郎→サク
おとん→朔太郎の父親→パパ
おかん→朔太郎の母親→ママ
亜紀→朔太郎と5歳差の妹→アキ


チームの人々

和泉監督*朔太郎のチームの総監督
長瀬コーチ*僕のひとつ上の先輩
三谷コーチ*朔太郎が2年生の時に来た若いコーチ


※もちろんすべて仮名