祈りの手紙30
前回は、「祈りの手紙29」を記しました。私は引き続き、このブログを通して福音を述べ伝えていきたいと考えています。聖霊の時代を迎えた今、私たちはこれまで以上に聖霊を受けやすくなってきていると、RAPTさんの「御言葉」で知りました。そして、聖霊を豊かに受けるには「祈り」と「賛美」が不可欠だということを教わりました。「祈り」と「賛美」によって神様と一体となり、聖霊に喜ばれるような生き方を追求する必要があるのです。では具体的に、どのような形で「祈り」と「賛美」を捧げたら良いのか?まず、「賛美」についてはネット上の動画を視聴し、お気に入りの讃美歌を繰り返し口ずさむのが一番の方法でしょう。中でも、絶対に外せないのはRAPTさんが作詞作曲された音楽です。○RAPT『愛される人』MUSIC VIDEO○RAPT『神はすぐ傍にいる』MUSIC VIDEO○RAPT『蛹から蝶へ』MUSIC VIDEO○RAPT『いのりのちからで』Music Video初めてRAPTさんの音楽を視聴した時は、既成の讃美歌とはあまりにも違っていたので、驚きを隠せませんでした。と同時に、「これぞ聖霊の時代に相応しい、新しい讃美歌だ!」と思いました。音楽のことは詳しくない私でも、その歌声とリズムがいつまでも私の心に深く刻まれていくのを感じたのです。それらの音楽に共通するのは、RAPTさんの清々しさと温か味のある心音であり、神霊でありながらも親しみやすいものに仕立ててある点です。私自身まだまだ、しっかりと歌いこなすレベルには至っておりませんが、さまざまな場面で楽しみながら、心を込めて賛美して歌っていきたいと思います。一方、「祈り」については、できるだけ自分の言葉で、神様と会話するような気持ちで祈っておりますが、中々長時間祈るということができません。朝の1時から4時30分までの祈りの時間に合わせて祈ろうとしますが、同じ言葉を何回も繰り返すだけで、仕舞いには祈りのネタがつき、何を祈ったら良いのか思いつかなくなってしまい、挙げ句の果ては睡魔に襲われて眠りこけてしまうのです。やはりここは、「御言葉」の力を借りるしかありません。朝の祈り会で十二弟子の皆さんが祈っておられるように、私も「御言葉」を授かった直後に感謝の意を込めて祈るという取り組みを試みてみようと思いつきました。本来は言葉を発して祈るというのが一番良いとは思いますが、言葉をスムーズに発することが苦手な私は、言葉を文字に変換して祈るという方法を取りたいと思います。どの「御言葉」を受けての祈りなのかが分かるように、「御言葉」が発信された年月日と要約文を最初に掲げて、その後に祈りを捧げるという形で進めようと思います。題して「祈りの手紙」です。皆様も、どうぞ一緒にお祈りしてください。・・・・・・・・・・RAPT朝の祈り会(2025年12月26日)神様の御言葉は義を行うためのエネルギーのようなものだ。御言葉を豊かに学んでこそ、義が何で悪が何なのか、はっきりと精密に分かって、いついかなるときも悪の誘惑に負けることなく、義を行いつづけることができる。祈りの手紙30聖なる神様、いつも豊かな「御言葉」を与えてくださっていることを心から感謝します。ありがとうございます。中心者は「御言葉」の中で、下記のように仰いました。神様が「御言葉」を伝えているのは、義を行う力を与えるためです。この「御言葉」を聞くことによって、私たちの霊魂が力を受けて、義なる考えを正しく持つことができるようになります。そうすると、私たちの霊魂が義を行うようになって、それによって私たちの肉までもが義なる考えを持ち、義なる行いができるようになります。「御言葉」は、私たちを義へと導くエネルギーのようなものです。「御言葉」無しでは、私たちは、とても義を行い続けることはできません。「御言葉」をきちんと学ばなければ、私たちの霊魂は力を受けられず、霊魂が力を受けられなければ、義を行い続けることは難しいです。私たちの肉は、どうしても本能的な欲求や感情に従って物事を考え、行動してしまう癖があります。その肉性に打ち勝って義を行い続けるためには、霊に力を与えなければいけないわけです。霊に力を与えて、霊が義を行うことができるようにしなければならないのです。そのために神様は、こうして私たちに「御言葉」を伝えてくださってるわけです。「御言葉」無しで、どうして義を行うことができるでしょうか?「御言葉」をろくに学ばずして、どうして義を行うことができるでしょうか?「御言葉」を学んで、霊魂が力を受けるからこそ、この世でどんなことがあろうとも、状況や環境に左右されることなく義を行い続けることができるわけです。この「御言葉」を受けて私は、改めて『ヨハネの福音書』の冒頭(1章1〜5節)を思い出しました。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。「言」は神であり、命であり、光です。これによって万物は創られたと書かれてあります。つまり、この世界の源は「言」であるということです。「言」は、神から放たれた命の源だということです。逆に、「言」がなければ、この世界は生み出されなかったということです。だから、「言」には力があるということです。「言」には、この世界を創り出すことができる程の、ものすごいパワーがあるということです。そして人間も、「言」から生み出された存在です。「言」なくして人間は存在し得ないということです。「言」のエネルギーをもらってこそ、人間は命を輝かせることができるということです。つまり、「言」の塊である「御言葉」は、人間にとって欠かせない命の源だということです。人間がこの世で命の火を燃やし続けるためには、「御言葉」というエネルギーが欠かせないということです。人間が光を認識できるのも、全ては「御言葉」のお陰だということです。逆に、「御言葉」がなければ、人間は枯渇し、命を失い、やがて光のない闇の中へと消えていくのです。だから、私たちは「御言葉」が欠かせません。「御言葉」を聞くことによって、私たちの霊魂が力を受けて、命を輝かせることができるのです。「御言葉」を聞くことによって、神様の波長に同調して、光り輝く存在になれるのです。神様の波長に同調するとは、神様の義なる考えを正しく持つということです。神様の義なる考えを正しく持って行ってこそ、私たちの霊肉魂は、よりパワフルな力を得ることができるのです。なので私たちは、中心者に感謝しなければなりません。絶え間なく私たちに「御言葉」を伝えてくださっている中心者に感謝しなければなりません。今の時代、中心者の働きがあるからこそ、私たちは「御言葉」から力をもらい、路頭に迷うことなく、正しい方向に進むことができるのですから…。神様、ありがとうございます。女の基準者が立てられた今、私たちは二人の中心者から「御言葉」を聞くことができるのですから、何とありがたいことでしょう。何と恵まれた時代に生きているのでしょう。私たちは、この恵まれた環境にいることに感謝し、その恩恵を大いに受けて、神様に喜ばれる者とならなければなりません。神様から戴いたこの祝福に感謝し、神様の御心に適う者とならなければなりません。どうか神様、これからも力強い「御言葉」を私たちに授けてくださいますことを心から祈ります。生きる勇気と希望を与えてくれる「御言葉」を私たちに授けてくださいますことを心から祈ります。人は本当に弱いです。何かちょっと辛いことがあったり、自分の立場が悪くなったりすると、そういったちょっとしたきっかけで義を行おうという意欲がなくなって、誘惑に負けて悪を行ってしまいます。しかし、私たちには「御言葉」があります。私たちを正しく導いてくださる「御言葉」があります。私たちを軌道修正してくださる中心者が二人おられます。どうか神様、中心者が宣布される「御言葉」に聞き従い、悟ることができる一人一人となれますことを心から祈ります。サタンの攻撃や誘惑に打ち勝ち、義を行って、神様から祝福される一人一人となれますことを心から祈ります。どんな状況の中にあっても、どんな環境の中にあっても、絶えず義を行い続ける一人一人となれますように。義を行ってこそ神様から祝福され、この世でもあの世でも幸福に生きられるということを、真に悟ることのできる一人一人となれますように。一生、義を行い続けて、永遠に祝福される一人一人となれますように。「御言葉」をきちんと学んで霊魂に栄養を与え、何が義で何が悪なのか、見分けることができる一人一人となれますように。自分なりの正義感と、自分なりの善悪の基準で義を行うのではなく、神様が義だと認める正しい義を行って、神様から祝福される一人一人となれますように。自分が成すべき使命はこれだと思うことがあるならば、それを成し続けていく一人一人となれますように。単に、「御言葉」を信じなさいと説得するのではなく、人々を正しい義に導いて行くことができる真の伝道者となれますように。神様の歴史を妨害する、幸福の科学を始めとした全てのカルト宗教や工作員が滅び去り、十二弟子が正式に立てられますように。全ての義人たちが力強く伝道し、この世の多くの人々を救っていくことで神様の栄光がこの地に大きく光り輝きますことを心から祈ります。これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。アーメン。(2025.1.3)