紅葉達が欽聖堂へと向かっている同刻、欽聖堂の門を潜る人影が複数あった。その中に佳直と拓馬の姿があり、佳直は大欠伸をしながら腕を伸ばし首を左右に傾け首を鳴らす。

  「あ~かったりぃ……クソジジイ共も交えての会合なんてやってらんねーな」
  「またそういうことを……国の今度の為の話し合いなんですから、上層部の長達も当然参加しなければなりません。それに佳直隊長が不在の間行われていないんですよ」
  「なんでだよ?俺が居なくたって別に問題ないだろーが」
  「何云ってるんですか!隊の事や細やかな情報に関しては隊長達の方が通だというのを理解していないんですか!?――はぁ、これだから佳直隊長は……」

 またくどくどと拓馬が説教染みた事を云い始めようとしたその時、空から何かが降ってきて辺りに砂煙が舞う。落ち着いた頃に皆々が顔を上げて辺りを見回すと、門前の広場に大きな獣が降りたっていた。銀色の美しい毛に交じる藍色の毛。紅い瞳が辺りの様子を窺う。
  「――う、うわぁああああーっ!!ば、化け物だぁっー!!」
 一人の叫びに周りに居た人達は混乱し逃げ去って行く。門番が中に入って来て白い獣を前に戦闘態勢を取る。
  「何なんだこの化け物はっ……早く応援要請をしてこいっ!!」
  「は、はいっ!!」

 門番が近くで固まっていた従者に声を投げ掛けた。従者は転びそうになりながらも欽聖堂の中に駆け込んで行き、助けを求めに行った。



 運悪くその場に居合わせた佳直や拓馬は白い獣を見上げた。
  「……こいつ……まさか虎狐!?何故虎狐がこんなところに……!」
 白い獣は周りに居る人を見ながら動き、佳直や拓馬を見て紅い瞳を細めて一歩近付いて来る。その時、佳直がハッとしたような表情になる。
  「隊長、下がっていて下さい!こんな化け物……!!」
 拓馬が攻撃を仕掛けようとしたその瞬間、佳直が拓馬の前に出て制する。

  「待て!……お前も周りに集まりつつある奴等にも伝えておけ。コイツには手を出すなってな」

 拓馬を制すると佳直は虎狐に歩み寄って行く。拓馬が止めるように云うが、佳直は制止も聞かず虎狐との距離を二メートルまで詰め見上げる。
  「…………お前、歩緒なのか?」
  《カジ……》
 頭の中に響く声、そして自分を“かじ”と呼ぶのは歩緒しかいない。間違いない、今目の前にいるのは荒草原に帰した筈の歩緒だ。


        *  *  *  *  *  *

 欽聖堂内の門前前の広場で騒動が起きている頃、城下に出掛けていた紅葉と舘野伊、それに途中から一緒になった紅蓮と黄河の四人は欽聖堂の大門へと続く坂道を登っていた。
  「たまに城下をふらつくのも悪くない。もう少し居たかったが職務もあるしな……――そうだ。紅葉、今度の息抜きは俺と城下に行こう」
 先頭を歩いていた紅蓮が立ち止まって振り向き、青い長髪が揺れる。
  「城下以外にも色々と良い場所は多い。土地勘が全くないっていうのもこれから先は困るだろう」
  「え、でも……」
  「なに、今日みたいな息抜きの時間が無い訳ではないんだ。色んな所に足を運びたくはないのか?」
  「それは……」
 実際神国に帰郷してから欽聖堂に籠りきりだ。任務で荒草原や修行で外には出ているが、今日みたいに城下町に下りて色々な店を見たり食べたりは初めてだ。それに生活していくのに買い出しもいるし、絹に頼るのも申し訳ないし……。

 言葉の先を云い淀んでいると、紅蓮が大仰な溜息を付く。
  「基本的な物は支給されるが、個人で要る物に関しては各自で揃えるしかない。お前も女子だ。今は良いかもしれないが、着物とか装飾とか色々欲しくなってくるだろう。その辺りは蘭や梨世に訊くといい……流石に義兄には頼れないだろう?」
  「ま、まあ……」
  「ふらっと散策も悪くない。そうしたくなったら誰にでも声を掛けてみろ」
 微笑を浮かべるところなんて初めて目の当たりにし、つい紅蓮の顔をじっと見つめて呆けていると、真横から負のオーラを感じた。


  「……おい……何自分の好感度上げようとしてんだお前!黄河といいお前といい、何なんだ一体……!」

  『好かれて損はないってだけだが』

  「ハモるな!」


 声を上げる舘野伊だが紅蓮や黄河は気にも留めていなさそうだ。一人声を上げる舘野伊を宥めていると、門辺りがざわざわとし始め、小走りに逃げて行く人も居れば何事かと野次馬に雑ざる人もいる。
  「……なんだ?急に門前が騒がしくなったが」
  「行こう」
 黄河と紅蓮が先に坂を駆け上って行き、その後を紅葉と舘野伊が追い掛ける。門前に集った人だかりの間を縫う様にして進んで行き門を潜る。開けた視界に一番に飛び込んできたのは大きな白い獣だった。
 見覚えのある風貌に紅葉は目を見開かせた。




 紅葉達が野次馬の人並みを縫って門を潜ろうとしているその時、佳直は歩緒と話をしていた。周りに応援要請を受けた隊員達が続々と集まり、静かに一人と一匹を見守っている。
  「……お前、荒草原にいる群れに還ったんじゃなかったのか?」
  《…………》
 ピンッと立った耳が垂れ、歩緒は顔を俯かせる。

  《……紅葉サンガ僕ノコトヲ思ッテ群レニ還シテクレタノハ分カッテル。僕ハ長ノ子ダカラ何時カ群レヲ率イル立場ニナルッテ教エラレテキタケド、僕ハ長ノ子ジャナカッタンダ》

  「どういうことだ?」

 訝しむ佳直に歩緒は此処まで来るに至った経緯を語り始めた。




 荒草原で紅葉達と別れて数日後、歩緒は何度か脱走を試みたが群れの仲間に引き止められ脱走は失敗に終わり、五回目の試みも失敗に終わった。脱走行為を止めようとしない歩緒を見咎めた仲間は長の前に歩緒を突き出した。
 長の説得に歩緒は首を縦に振ることはなく、何が何でも紅葉の元に帰ると云って聞かない。決着の付かない押し問答に割って入って来たのは本来の長である雄の虎狐だった。

  《……親様ノ元ニ帰ルトイウ決意ヲ、オ前ハ変エル気ハナインダナ?》

  《ウン》

  《…………分カッタ。ソコマデイウノナラ自分ノ好キニシナサイ》

 その言葉に群れ全体がざわつく。一早く反発してきたのは長だった。
  《アナタ!何ヲ仰ルノデスカ!コノ子ハ――》
  《モウイイジャナイカ。コレ以上騙スヨウナ真似ハヨソウ》
 雄の虎狐は歩緒の前に歩み出て座る。

  《今マデ隠シテイテ済マナカッタ。オ前ハ私達ノ子デハナインダ。……本当ノ子ハ、生マレテ一週間後ニ死ンデシマッタ……世継ギガ居ナクテハ皆ニ示シガ付カナイ、ダカラ同ジ時期ニ生マレタオ前ヲ私達ノ子ダトシテ育テテキタ》
 雄の虎狐は群れ皆に視線を移し、見回しながら続ける。
  《皆モオ前ガ私達ノ子ダト信ジテイタダロウ。ダガ、オ前ガ渦転移ニ巻キ込マレテカラコウシテ戻ッテ来ルマデノ間ニ、親様ヤソノ仲間達ト出会ッテイタ。人ニ狩ラレ、人ハ私達ニ害ヲ及ボスモノダト血ニ刻ミ込マレ生キテキタガ――コウシテ再ビ人ト関ワルコトニナッタノモ、私達ニ変ワレトノ思シ召シナノカモシレナイ》

 雄の虎狐は再び歩緒に視線を戻す。

  《……直グニ人ヲ信ジルコトハ難シイ。コノ先幾ラデモ試練ガ待ッテイル、ソレデモオ前ハ親様ノ元ヘト行クノダナ?親様ヤオ仲間達ノ様ナ人バカリデハナイノダゾ?》

  《……ウン》

  《人トイガミ合ワズ、昔ノ様ニ助ケ合イ共存出来ル架ケ橋ニナッテキナサイ。私達ノ分マデ親様ヲ確トオ守リスルノダゾ――気ガ向イタラ顔ヲ覗カセニオイデ。サア、オ行キ。歩緒》

 雄の虎狐の促しに歩緒は穴倉の出口の方へと駆けて行く。出る手前でゆっくりと脚を止め、振り返る。


  《……アリガトウ、父上》


 そう云い残して穴倉を飛び出して眩しい外の世界へと歩緒は出て行った。静まり返るその場、穴倉の出口を見つめる夫に妻が近付く。
  《……アナタ》
  《コレカラノ事ハユックリト皆デ考エテイコウデハナイカ。……今マデ群レノ事ヲ任セテイテ悪カッタナ。コレカラハ私ガ引キ受ケヨウ。アノ騒動以降、体ガ楽ニナッテナ、補佐ヲ君ニハオ願イシタイ》
  《ハイ》

 本来のあるべき形にへと戻り、虎狐達も新たな一歩を踏み出し始めた。歩緒のこれからが明るいことを願って――。




 歩緒が語った経緯を聞き、佳直は腕を組み目を伏せた。
  「……そうだったのか……。それでお前は此処に戻って来たって訳だ」
  《カジ、紅葉サンハ?》
  「今城下に下りてていねーよ。まあお前が現われてちょっとした騒ぎになってっから、もしかしたら騒ぎ聞きつけて戻って来るかもな」
 何気なく門の方に目を向けると、門前に出来た野次馬の人並みを縫って数人が前に出てきた。舘野伊と紅蓮に黄河、そして――。

  「…………噂をすればってやつだな。――おいっ!紅葉っ!」



 門を潜った先に見た光景に紅葉は目を見開かせた。思いもしない衝撃に呆けていると、自身の名を呼ぶ佳直の声に我に返る。
  「こっちに来いっ!」
  「…………」
 呼ばれていると分かっているのに足が動かなかった。目の前に見える白い獣、虎狐が巨大化した姿が誰なのか、直ぐに分かったから動揺しているのかもしれない。足元に目を伏せると、紅蓮に背中を押され勢いそのまま人混みから離されてしまう。
 振り返ると、顎で『行け』と示される。

 その場に突っ立っているわけにもいかず、紅葉は一歩を踏み出し佳直の元へと歩を進める。
  「……大体見当は付いてんだろ。お前等の問題だからな」
 紅葉が傍に来ると、そう耳打ちして佳直は数歩後ろに下がり見守る体勢に入る。虎狐と向き合い顔を上げると、虎狐は目を細めた。
  《紅葉サン……》
  「歩緒……」
 荒草原から帰還して一週間が経とうとしていた。久しぶりという程離れていた訳でもなく、話し合うよう促されたはいいものの、どう切り出せばいいのか分からない。もう二度と会う事はないと思っていたから――。



  《…………怒ッテル?》



 何も云わないでいると歩緒が言葉を発して沈黙を破る。
  「どうしてそう思うの?」
  《何モ云ワナイカラ……》
 歩緒はその場にお座りし、怒られたみたいにしゅんっと項垂れる。見た目は大きくともまだ幼子だと分かれば怖いとは思えないかもしれない。だが今は“虎狐”と聞けば怖れる時代だ。怖くないと思える日はかなり遠い未来の話だろう。




 紅葉と歩緒が話を始めようとしている時、遠目に見守る舘野伊の片眉がピクリと跳ねた。
  「…………黄河、紅蓮。この場任せた」
  「……退治に行くのか?」
 黄河の言葉に舘野伊は口角を上げた。

  「ああ――鼠退治してくる」

 身を翻し、塀の向こうへと消えて行った。




 歩緒のしょんぼりした姿を見ると、とても怒る気になどなれる筈もない。紅葉は苦笑を浮かべ、一息付く。
  「……怒ってないよ。怒るっていうよりどうして此処に戻って来たのかが不思議でしかないって思ってる」
  《…………》
  「勘違いしないでよ?此処に戻って来るのだ駄目だって云ってるわけでもない。……此処は歩緒にとって居心地の良い場所じゃないでしょ。欽聖堂に来た当初周りがどんな目で歩緒を見てたか、覚えてるよね?」
  《…………》
 歩緒は項垂れるだけで何も云わない。

 紅葉は振り返り、自分達のやりとりを見守る人々を見回す。ヒソヒソ話をしたり恐怖で顔が強張っていたり、今にも飛び出してきて退治しようと身構える人、目の前に居る巨体の獣が虎狐だと分かると皆目の色を変えた。
 小さな姿で紅葉の頭の上に居た時も、わざと聞こえる様にすれ違い際に「普通じゃないよね、この人」とか「あんな鬼の使いと一緒なんてあいつも鬼の手先かもしれない」などあることないこと云われたりもあった。羅沙度や木理羅、七師長、総隊長達や顔見知りならそこまで警戒も怖がる素振りも見せない、だが歩緒を刺激しないよう気を遣っている素振りは見えた。

 昔は人懐っこい性格だったが、儲けの為に人に乱獲され絶滅寸前まで追い込まれた為に人を襲う様になり、それ以降は人に対して凶暴になってしまった。人も虎狐を恐れる様になり、虎狐が生息する荒草原には何があっても入ってはいけないと云われ代々語り継がれるように。

  「歩緒の将来を想ったら、此処に居るより仲間達の元で暮らす方が絶対良い、歩緒も与世地聖に戻ったら仲間のところに帰るつもりだった。そうだよね?」

  《…………》

 歩緒は黙ったまま項垂れ続け、紅葉は優しく諭す様に語り続ける。

  「……長達にも云われたと思うけど、一緒に此処で生きていくって事は人と向き合う事になる。どうなっていくか解らないし身に危険が及ぶかもしれない。その覚悟を持って此処に来たの?」




 欽聖堂前の広場を一望出来る欽聖堂天守閣の三階、小窓から広場に居る歩緒に狙いを定める男の姿が闇に紛れていた。
  「まさかこんなところで虎狐に遭遇出来るとはな……!一番金になるガキの虎狐とは良い獲物が舞い込んできたもんだ!盗みに入って正解だったぜ――」

 腕が光り、光の矢が形成され歩緒に狙いを定める。




 項垂れていた歩緒が顔を上げ、紅葉の顔を見つめてくる。
  《……人ヲ信ジルコトハ直グニハ無理ダト思ウ。良イ人達ガ多イノハ解ルケド、信ジラレルノハ遠イ先ニナルト思ウ。辛クテ苦シイコトモアルッテ解ッテル!後悔スルカモシレナイケド――紅葉サンニハ解ッテテモライタイ。永力ガ宿ッテルカラ紅葉サンノ傍ニ居タインジャナイ、紅葉サンノ事ガ好キダカラ傍ニ居タイ……ズット一緒ニ居サセテヨ……!》
 必死ながらも自分の想いをぶつけてくる歩緒の懇願は紅葉の心に迷いを齎す。


  ――――!!!!


 殺気を感じて瞬時に身体が動き、紅葉は歩緒を庇う様にして前に立った。次の瞬間左肩に光の矢が刺さり、矢は貫通して地面に刺さる。
  『!!??』
 突然の強襲に膝を付いた紅葉に佳直が一早く駆け寄った。
  「おいっ!!?大丈夫かっ!!?――治癒士はいねーかっ!?止血しろっ!」
  「っ……歩緒、は……」
 佳直に肩を抱かれ支えられた状態のまま、紅葉は歩緒に顔を向けた。巨大化を解き普段の姿に戻った歩緒が側に鳴きながら近寄ってくる。見た感じ怪我をしたところはないようで安心し、紅葉は微笑を浮かべる。
  「怪我はないみたいだね。良かった……」
  「お前、あんな軽い攻撃避けるのも受け止めるのも簡単に出来ただろうが!何で態々受けるんだ!」

 周りに紅蓮や黄河も駆け寄って来てくれて、傍に居たらしい治癒士を連れて来てくれた。治癒士は止血作業に入り、その間紅葉は歩緒をじっと見つめていた。
  「……こういう事もあるかもしれないんだよ?今ならまだ群れに戻れる。歩緒を毛狩りしようとする人も居るこの場所で、生きていく覚悟、ある?」
  《…………紅葉サント一緒ニ居ル為ニ僕モ強クナル!ダカラ傍ニ居サセテ……!》

 人と一緒に居れば何が起こるのか見せる為にわざと攻撃を受けたというのか。そこまでして歩緒の本心を知ろうとする紅葉の姿勢に佳直は感心した。自分と一緒に居るとどうなるのか怪我までするなんて……自分に何の得も無いというのに何処まで自分自身を犠牲に出来るというのか。
 人間界での時だってそうだ。那与裏が仕向けたとはいえ躊躇いもなく間に入る無茶は見ていて気持ちの良いものではない。本人は助けようとしただけなのかもしれないが周りは見ていてハラハラする。




 狙いが外れ、広場が騒然としているのを天守閣三階から眺める男は舌打ちした。
  「くそっ……邪魔しやがって……!」


  「――欽聖堂で毛狩りをしようなんて、その勇気だけは認めてやるよ」


 突然背後から聞こえた声に男は飛び退いて距離を取る。
  「ふむ……不法侵入・窃盗・禁止要項の毛狩りの実行、そして保護対象である虎狐を危険に晒そうとした罪でお前を捕らえる」
  「くそっ、こんなところで――」
 逃げようと踵を返す男の行く手を遮り、刀の切っ先を鼻先に突き付ける。すると男はすとんとその場に座り込み、カタカタと震え始める。その様を舘野伊は鼻で笑う。
  「金欲しさに目が眩んだか?それとも……誰かの差し金か?」
  「ひぃっ!!ち、違うっ……此処に虎狐が入って行くのを見たんだ……!虎狐の毛皮は昔と違って高値が付くから、足しにしようと……」
  「勘違いしてもらっては困るな。訳を離せば慈悲が受けられるとでも思ったか?――どんな場所でしようと罪は罪だ。どんな処罰が云い渡されても受け入れるんだな。それと――」

 鼻先に突き付けられた刀の切っ先が動き、男の左胸へと移動する。
  「外れたとはいえあいつに怪我を負わせた事は万死に値すると思えっ!」


 複数の足音が聞こえてきて憲兵達がやってきた。憲兵に両腕を抱えられ、男は連れて行かれる。それを見送り、舘野伊は刀を振るい鞘に戻しその場に一人残された憲兵に訊ねる。
  「広場の騒動はどうなった?」
  「はっ!紅葉殿は治療の為に宿城の方へと佳直隊長、紅蓮師長や黄河師長に付き添われて向かわれました。あの虎狐も一緒に付いて行ったようですが……」
  「気にするな。あいつは元々紅葉に懐いて一緒にいたやつだ。周りに危害は加えない。引き止めて悪かったな。職務に戻っていいぞ」
  「はっ!」
 憲兵は舘野伊に敬礼し足早にその場を立ち去る。


 舘野伊は小窓から差し込む陽の光に目を細めた。


        *  *  *  *  *  *

 騒動が落ち着き辺りは夜を迎えた。紅葉は手当てをされてから床に入って休み、今は読書に浸っている。同じく部屋には元の姿に戻った歩緒も居るが、部屋の隅で丸くなっている。時折紅葉を気にして顔を向けたり、耳をピクピクと動かすが、近付くことはしない。
 しおりを書物に挟んで本を畳み、長机の上に置く。顔を上げ、歩緒を見やる。
  (……私が来て良いって云うまで隅に居るつもりなんだろうな)
 自分のせいで怪我をさせてしまったと悔いているのだろう。怪我をしたのは私が自ら望んだ事だというのに……。



  「――……紅葉。入るぞ」



 部屋の戸の前に人影が現われる。声の主は佳直だ。
  「どうぞ」
 紅葉から許可が下り戸が開く。白い羽織を身に纏った姿はすっかり隊長としての姿で、初めて会った時と違い威厳を放っていた。佳直はどかっと床の側に胡坐を掻いて座り、部屋の隅で丸くなっている歩緒を一瞥すると肩を竦めた。
  「予想に反して隅で大人しくしてるたぁ、意外だな……まあ、今はいい。それより……」
 佳直は右腕を上げて紅葉の頭目掛けて張り手を食らわせた。まさか攻撃してくるとは思っていなかったらしく、紅葉は頭を両手で押さえながら佳直を睨み付ける。

  「なっ……いきなり叩くなんて何すんのっ!」
  「叩かれる覚えがねーなんておめでたい頭だな。云い方は悪いが、たかが一匹の説得の為に怪我までする阿呆がどこに居る!お前、自分が不死身だとでも思ってるのか!?何時か命すら捧げようなんてふざけた真似までしそうだぜ、全く……!」

 佳直の叱責を紅葉は口を尖らせ、頭を摩りながら聞いていた。不貞腐れた子供を前に一度は奮い立った怒りも納まったのか、佳直は大仰な溜息を付いた。

  「……もう少し自分を大切にしろ。過ち犯したって知らねーぞ」

 それだけを云い残し、佳直は立ち上がって部屋を出て行こうとする。去ろうとする佳直の背に紅葉は反射的に声を掛けて呼び止める。
  「……佳直ってさ、なんか時に優しいよね。慕われる理由も解る気がするよ」
  「はっ!!煽てたってなんも出ねーぞ!」
  「――ありがとう……佳直」

 自然と口から出た感謝の言葉は嘘じゃない。佳直が自分を心配してくれている、その事が嬉しいと素直に紅葉は思った。
 絹や木理羅しか知らなかった昔が嘘みたいだ。ピースエマジを離れてから、色々な人々と出会い、別れ、再び会い、新たな出会いもあった。新しい土地に行く事が不安でなかった訳ではない。与世地聖に来るまでの道中不安を抱いていた。戦いもしたしその人の抱える事にすら触れた。
 知らなかった事が多過ぎて自分が無知であるということを思い知らされると同時に、知ることの喜びも知った。戦う術を身に付ける事ばかりの日々に新しい風が吹き込む。

 これから味わうであろう身体的・精神的な痛み、辛さ、負の感情もそうでない感情も感じられると思うと楽しくてしょうがない。こんなにも心躍るなんて、成長中の幼子みたいだ。


 紅葉がお礼を云うと、佳直は戸口の前で足を止めた。
  「……さっさと風呂入って歩緒に食わせてやれ。食堂の大将が待ってる」
 そう云い残して佳直は部屋を出て行った。



 佳直が出て行って暫く紅葉の部屋は静寂に包まれた。戸口から視線を部屋の隅に居る歩緒に向け、紅葉は微笑んだ。
  「…………お風呂、一緒に行く?」
 すると歩緒は丸めていた身体を解き立ち上がり、紅葉の傍に駆けて来る。
  《行ク!》
 床を蹴り、紅葉の腕と肩を経由して何時もの特等席、紅葉の頭の上に四肢を広げて張り付く。そして待っていたと云わんばかりに髪に擦り付き甘えた鳴き声を上げる。


        *  *  *  *  *  *  

 露天風呂にゆっくりと浸かり、夕餉を食べる為に食堂へと向かう。普段夜遅くに来ることが多かったがらんとした食堂と違い、夕刻の今は宿城で暮らす欽聖堂の面々が出入りして賑やかだ。見ない顔ばかりが暖簾を掻き分けて出入りしているのを見て少し入るのに躊躇したが、出入りの波が落ち着いた隙を付いて食堂へと足を踏み入れた。
 座る場所がないのではと思うくらいの満員に紅葉は肩を竦めた。
  「もう少し遅れてくるべきだったかな……思ってたより人が多過ぎてゆっくり出来そうにないし……」
  「――ああ!紅葉さん来てたんですかい!」
 どうしようかと途方に暮れていた紅葉に声を掛けてきたのは食堂の大将だった。

  「大将。こんばんわ」
  「ええ、こんばんわ!……あ、歩緒のやつ戻って来たんですかい?最近見ないと思ってたのによ。ところでこれから夕餉かい?」
  「そうしようと思って来たけど、人が多いからもう少し遅らせてこようかと思ってて。騒がし過ぎるのはどうも落ち着かないし」
  「だったら厨房員の食事場使ってくれたらいいさ。俺達は波が去るまで食えないし、厨房員以外は使わないからよ。それに、こんな人が多い所で歩緒が食べてたら引いちまうしよ」

 大将は紅葉の頭の上でウトウトしている歩緒を見上げる。見た目に反して勇ましい食事をする歩緒を目の当たりにしたら食欲を欠いてしまうかもしれない。それに豚とか仔馬一頭丸々だ。骨まで砕く音を食堂に響かせるのは躊躇われる。
  「……じゃあ、お言葉に甘えるよ」
  「あいよ!」
 男らしい豪快な笑顔を浮かべた大将の背に続き、厨房内へと入り奥へと進んで行く。


 食堂の喧騒が遠くに聞こえる厨房員の食事場は静かだった。今は全員調理に配膳と忙しなくで皆出払っている為誰一人としていない。十畳くらいの部屋の中心に丸い卓袱台がポツンと置かれていて、厨房員の荷物がしまわれている棚が部屋の左右にあるだけの物が少ない部屋だが綺麗に整頓されている。
  「――はい、お待たせしました!紅葉さんには天ぷら御前、歩緒には仔馬一頭切り分けだ!」
 紅葉の前と床に鎮座する歩緒の前にそれぞれ料理が置かれる。
  「ありがとう、大将」
  「良いってことよ。それじゃゆっくり食っていってくれ。俺は仕事があるからまた終わった頃合いに顔覗かせる」
 ヒラヒラと手を振って障子戸を閉め、厨房へと戻って行く大将の去る音を聞きながら紅葉は手を合わせた。


       *  *  *  *  *  *

 食後の緑茶を飲んでいると、大将が顔を覗かせてきた。
  「食い終わったところみたいだな。大分食堂の方も人が減ってきた」
  「そっか。それじゃ大将達も遅めの夕餉に入る頃合い?」
  「そうだな。――あぁ、片付けは俺がやっとくから行っていいぞ」
 食器を片そうとする紅葉を制し、大将は大皿と御前の籠をそれぞれ片手に持つ。

  「片付けくらい自分で……」
  「気にしなくていいんだよ。また食いに来てくれよな!」

 紅葉がどうしようと有無を云わせない大将の笑顔に紅葉は苦笑しながら席を立った。
 厨房内を通って食堂に顔を覗かせると、中央に見知った顔ぶれを見つけ歩み寄って行く。紅葉が近付いて来る気配に気付き一人が振り返ってくる。些羽だ。
  「よお。あんたも今から夕餉か?」
  「ううん。奥の部屋で食べた、歩緒と一緒に」
 一つの長机に集まっていたのは泰志に冶无樹に東鴻と些羽の四人。冶无樹が歩緒の存在を認め紅葉に声を投げ掛けてくる。

  「……結局、紅葉の元に戻って来てしまったんだな。歩緒は」

  「……うん」

  「荒草原に行ったの結局無駄足じゃん。任務自体は終わったけどさぁ」

  「些羽。そう云うでない」

  「でもさ~」

  「……終わった事一々掘り返すなよ。根に持つ性質め」

 愚痴る些羽に泰志がぼやくと、些羽は目を細めた。
  「何か云った?坊ちゃん」
  「へっ。何も云ってねーよ」
 この二人は相変わらず仲が悪い。互いに突っかかっては云い合い止められ、また繰り返す……そんなやり取りを積み重ねても馬が合わないようだ。
 そんな二人のやり取りに失笑を浮かべていると、今度は東鴻が紅葉に話し掛けてきた。
  「――それより紅葉。昼間の騒ぎで負傷したと聞いたが、大丈夫なのか?捕らえられた者は色々と罪を重ねた故重い処分になるだろうと、舘野伊殿が云っていた」
  「そっか……怪我の方は大丈夫だよ。深手負ったわけじゃないから」
 その言葉に安心したのか、東鴻は口元に薄らと笑みを浮かべた。



  「――あっ!こんな所に居たのね!」



 食堂に響き渡った声に皆の視線が入口に注がれる。暖簾を掻き分けて入って来たのは血相を変えた絹だった。肩が上下しているところを見ると駆け回っていた様子が窺える。絹はスタスタと紅葉達の元に寄って来て紅葉の前に立った。
  「歩緒を庇って怪我したって聞いて部屋に行ったらいないんだもの!食堂に居るなんて動いて平気なの?」
  「う、うん。心配掛けたみたいでごめん……」
  「全く……無茶も大概にしなさい!見てるこっちが寿命縮むんだから!」
 少し前に佳直にも怒られたというのに、これではあの時に戻って今度は絹に叱られてる気分だ。頭を掻く紅葉に絹は腰に手を当てて嘆息する。

  「……だけど、歩緒はやっぱり貴女と一緒の方が良いのかもしれないわね。私達は歩緒が群れに戻るのが一番だとして荒草原に還したけれど、それは私達の勝手な思い込みだったのかもしれないわね。現に歩緒は今貴女と居る方が嬉しそうだもの」
  「……そのようだな」
 絹の云うことに東鴻も賛同する。皆の視線が歩緒に集中する。


 皆の視線が集まっているとも知らず、歩緒は紅葉の頭にへばり付いて眠っている。軽いげっぷをし、耳をピクピクとさせ六又に分かれた尾が揺れる。
  「……覚悟を持って歩緒が私の傍に居ると決めたように、私も腹を括るしかない。守れるように強くならないと」
  「貴女だけじゃないわ。皆、そうなっていかないといけないの」
 絹に顔を向けると静かに頷く。皆に視線を巡らせると皆もそれぞれ頷いたり口元に笑みを浮かべたりと反応を示してくれる。

 これからどうなって行くべきなのか、皆の心が一つになった瞬間だった。


        *  *  *  *  *  *

 紅葉が仲間と絆を深めているその時、欽聖堂のとある部屋に灯る蝋燭の灯が揺れた。


  「…………もうそろそろ限界ね。これ以上は隠しきれないかもしれない……」


 女の手に握られた文がくしゃりと握り潰された。
  「…………」
 懐から袋を取り出し、その中から一つの耳飾りを取り出す。
  「……貴女云ったわよね。誰よりも優しいから私みたいだと云ってこの琥珀の耳飾りの片方をくれた。――でも、優しくなんてないのよ」
 女は琥珀の耳飾りを机に置き、傍に置手紙を添えて立ち上がる。



  「――最初から、騙していたことに変わりないんだから……」



 決意を固めて振り返った女の特徴――触角みたいな二本の髪が揺れ、蝋燭の灯が消えた。



        十章   ~ 離れたくない理由 ~  終わり