巨大化した雄の虎狐、歩緒の父親は母親よりも一回りも体が大きい。頭に大きく腑喰の身体の一部が張り付いて出来ている瘤のせいで体の自由が聞かず、荒い鼻息を繰り返し涎が地面に滴る。
 構えも取らずにただじっと虎狐の顔を見つめる紅葉に、身体の内に居る那与裏が話掛けてきた。


  ――主。どうやって虎狐の洗脳をお解きに?ただ剥がせばよいというものでもない気が致しますが。

  (……正直、何か手があるのかって云えばないの方かな。あの河豚って奴の身体の一部が付いているというなら、そう簡単に洗脳を解かせてはくれないかもしれない)

  ――……少々の違いはこの際無視しておきます。――ないと仰られる割には前に出ていらしたではありませんか。何か、お考えがございますのでしょう?

  (一応、ね。でも賭けに近いよ)


 紅葉は空間から聖然虎力を引っ張り出すと右手で刀の背を撫でる。すると緑色の稲光を発光し刀が分散する。分散した緑色の光が紅葉の身体に入り込み、紅葉の身体から緑色の稲光が時折発光し音を立てる。
  「さあ、やろうか!!」
 巨大化した父親は一歩後退ったが、頭を振り紅葉に向けて吠える。




 一方絹の方は――。


 自分と向き合う絹を舐め回す様にじっくりと観察する腑喰はふーんと顎を摩る。
  「男より女の臓器の方が美味いから味わって食おうかなぁ……でも、可愛がってあげなくもないかなぁ。最近女と楽しいことしてないし、あんた上玉だからオラの女にしてあげるよ。嬉しいだろぅ?」
  「……お生憎、私は上辺だけの繋がりなんて興味はないの。家庭もあるからお断りするわ」
  「へぇー……でもそんなの関係ないねぇ。奪ってこそ自分のものって感じがしていいんじゃない!気に入ったよ、目一杯可愛がってやるよぉっ!」
  「…………」
 絹は腑喰を冷めた目付きで見据える。



  「――貴方の様な人を生み出した研究者の腕は賞賛するべきなのかもしれない。でも、使い方を誤ればそれは危険因子を生み出すだけの罪人に等しい……」



 絹の足元に譜陣が現われ、赤い光を放つ。
  「過去の“過ち”を見ているようだわ……」
  「ん~?何か云ったぁ?」
  「貴方には関係のないことよ」
 譜陣の光が強くなり、絹と腑喰を取り囲むように炎が円を描き、二人を炎の壁の中に閉じ込める。腑喰の表情が変わり、それは先程までの余裕ある表情ではなく恐怖に強張った顔をしていた。


  「……寄生なんて出来ない様にしてあげるわ。二度とね」


 絹の冷笑に腑喰は背筋に嫌な汗が流れたのを感じた。


        *  *  *  *  *  *

 紅葉は地を蹴り、巨大化した雄の虎狐目掛け駆ける。虎狐は口を開き、火炎玉を続けざまに放ち、それを避けながら紅葉は跳躍し空中に舞い上がる。逃げ場のない空中に舞う紅葉目掛けて虎狐は狙いを定め、火炎玉を放つ。
 誰もが直撃したと思う中、火炎玉は地面を抉り爆音と爆風を巻き起こす。

  「こっちだよ!」

 直撃したと思われた紅葉はいつの間にか虎狐の背後に回っていて、両手には雷の輪っかが握られていた。
  「動きを止めるなら、一撃を加えるよりも捕まえる方が効果的!!――」
 両手に持つ輪っかを虎狐向けて投げると、輪っかが分裂し四つに増える。そして意思を宿しているかのように自身で動きながら虎狐の前後脚の付け根目掛けて飛び、虎狐の脚の付け根に輪っかがはまる。すると虎狐の様子が変わり、耳や尻尾が垂れ下り体が小刻みに震え始めた。



  「あれ、僕達が虎狐と戦闘してる時に見せたのと同じですよね。緑色の雷なんて、そんなのありました?東鴻隊長?」

  「……いや。能力の違いは神国も悪国もないと思うが、選人として優秀な者達は神国の方が多い。悪国にも居ないわけではないが、悪国はその土地に昔から伝わる異能者で大きくなった国と云っても過言ではないからな」


 閉じられた両目が開き、東鴻は紅葉を見据える。

  (紅葉が刀を使う際青い稲光を発していたと思うが、もしや色で何かが違うのだろうか)

 虎狐があの緑色の稲光に怯えている風景を前の戦闘で目にした。威力にしろなんにしろ強くて重みのある攻撃をしても効かない虎狐の唯一の弱点が、今紅葉が纏っている“緑色の雷”だ。
 やはり大紀美が紅葉をこの土地に寄越したのもそれを知っていてなのだろうか?



  ――今この欽聖堂で荒草原に踏み込めるのは恐らく……紅葉さんだけでしょう。

  ――虎狐である歩緒に懐かれているからというだけの理由です。人に決して懐かない筈の虎狐が懐くのには何か理由がある――なら彼女は荒草原に立ち入っても大丈夫なのではと思ったのです。



 羅沙度が語った理由を思い出しても紅葉が緑色の雷を扱える事には触れてすらいなかった。大紀美が考えていた事と緑色の雷は別ということか。
  「紅葉本人はあの緑色の雷がどういったものなのか知っているだろう。落ち着いた頃に問うてみようではないか」
  「理解して使ってるんですかねぇー……あの紅葉ですよ?」
  「なに。少々抜けてはいるが紅葉は子供ではない。理解しているからこそ今使っていると思うが」
 東鴻の言葉に些羽はそれ以上何も云わなかった。些羽も紅葉の本質を理解しているのなら愚問だと悟ったようだ。



 虎狐が大人しくなったのを確認し、紅葉は空中を蹴り虎狐の背に降り立ち絹の戦況を横目に確認する。
  (……絹の方が有利みたいだね。あの河豚の一部って事は、同時に消えないと再生する可能性がある……なら――)
 紅葉は跳びながら虎狐の頭部にやってきた。左手に雷を集中させ、瘤に触れる。すると虎狐の全身が緑色の雷に包まれ、虎狐は咆哮を上げる。

  「……っ!!耐えて、歩緒の父さんっ……!!」

 瘤から伸びた触手が脳に直接接触しているなら、無理に剥がせば後遺症や脳死の状態になる可能性がある。そうなるのを避けるなら瘤ごと虎狐を絶つか、瘤だけを取り除くかの二つに一つ。
 紅葉は瘤だけを取り除く方を選び、聖然虎力のもう一つの力に賭けてみることにした。


        *  *  *  *  *  *

 円柱の炎の壁の中に閉じ込められた腑喰は背中に伝う嫌な汗の理由(わけ)に後退る。おそらくそれは本能が鳴らす警鐘だ。

 近付いてくる女の表情は見えない。ただ、口元だけが炎の明かりで微かに見える状態が更に腑喰の本能を刺激し、恐怖心を煽る。女は――冷笑を称えている。

  「……!!お、お前……!!」

  「ただ炎の壁で逃げられない様にしただけなのに、さっきまでの余裕は何処にいったのかしら?……余裕が消えようと、貴方を絶つことに変わりはないわ」


 絹は恐怖に染まった腑喰の表情を目の当たりにしても何も感じなかった。人の外見をしていても彼は寄生人間と人とはかけ離れた生命体。人ではない――そう、“あの時”の人ではない怪物と同じなのだ。


  ――違う……違うっ……!!こんな事をする為にこの技術を生み出したんじゃないっ……!!


 自分の過ちに気付いたのは生み出してから半年経った時だ。
 寂しくて、会いたくて、ただその一心で完成させた技術でもう一度家族に会いたかった。幼かった私はそれだけしか頭になかった……もう一度家族を生き返らせる事が出来れば、全部纏めて帰ってくると思っていた。
 だが――それはただの空っぽの器や怪物を生み出すものでしかなかった。家族の命を取り戻す為に私は人間の摂理を脅かし、命を無下に扱った罪人になった。


 『罪を犯したのだ』と思うしか、償いが見つからなかったから……。


 だから――自分と同じ過ちを犯そうと、犯した者達に説く必要がある。それは間違いだと。二度と繰り返さない様にすることが今自分に出来る精一杯の償いだから。


  「…………だから、貴方の存在は私の犯した過ちと同じ、傷付く人が出る前に――弔ってあげる」


 絹の右手に突如炎が噴出し、それが槍にへと姿を変え、燃え盛る様な高温の炎の如く赤い槍が形成される。槍からは蒸気が上がり、絹が槍先端を下ろし地面に近付けると、地面が溶けてマグマのようになる。


 腑喰は腰が抜けて尻餅を付く。絹を見つめる瞳は恐怖に染まり、表情には絶望が滲んでいる。声すら上げられず震える腑喰は心の中でしか言葉を紡げない。
  (な、なんだよこの女ぁ……!!?急に雰囲気変わったと思ったらとんでもない殺気放ってさぁ……!!)
 炎の壁が轟音を立てながら燃える。座り込んだ腑喰の目に、近付いて来る絹は炎の中を歩く悪魔の様に映る。全てを焼き尽くす劫火、そんな中冷笑を浮かべる絹は最早人ではないのではとすら思える。
  (この女っ、危険過ぎるぅっ……!!)
 今そう思っても遅すぎたのかもしれない。本能が警鐘を鳴らそうともう既に腑喰は罠に掛かった獲物でしかない。


  「私に攻撃しようと何か仕掛けていたとしても、全てを無にするこの中では無意味よ。ただ炎の壁で覆うだけなんて、そんな甘いことはしない」

  「っ………!!」

  「さようなら――」


 絹の右手に握られる槍が、腑喰の左胸を貫通した。


        *  *  *  *  *  *

  「――もう少し……!!」

 虎狐の頭部に出来た瘤に雷流を流す紅葉は歯を食いしばる。
 余り長い時間緑色の電流を虎狐に流すのは危険だ。直ぐに脳と瘤を切り離せると思っていたが、思いの外深く脳に根を伸ばしていた。

 ブチッ、ブチッと音が聞こえ始め、瘤が浮き始めた。掴み上げると虎狐の頭部の皮膚から剥がれ切り離しが完了した。直ぐに電流を止め、紅葉は虎狐から離れる。すると虎狐の巨体がグラリと揺れ、地面に倒れ伏す。
 弧を描いて地面に着地した紅葉は手にする瘤を始末する為左手に熱を込める。
  「寄生するってことは生物ってことよな?なら跡形もなく消せば――!!」
 左手にグッと力を入れ握り潰した。ブシャッと微かに血が飛び散り、手に残る肉片は熱で溶けて蒸発し跡形もなく消えた。

  「……絹と同時期に絶てたならいんだけど……」

 円柱の炎の柱の中でどんな戦闘が繰り広げられているかは分からないが、絹が窮地に追いやられていないのを祈るばかりだ。だが、その心配は要らないのかもしれない。

 とてつもない殺気が炎の円柱の中から感じ取れる……こんな凄い殺気を絹が放つとは思えないが、身体の芯から恐怖心を煽られるようだ。
  「そうだ!!歩緒の父さん!!」
 紅葉は方向転回して地面に倒れ伏す虎狐の元に駆け寄る。変化が解け、小さくなった虎狐が横たわっていた。紅葉は抱え上げ、生きているかを確認する。
  「……剥がしたから多少の血は出てるけどもう止まってる。心臓も……動いてる……!!」
 頭部の傷を癒す為に治癒術を施す。するとピクッと虎狐の体が動き、前脚がぎこちなく動き出す。

  「!?気付いた……分かる?歩緒の父さん……?」

  ――…………親、様…………私ハ……。

  「操られてたんだよ。きっと体調が悪かったのもそのせいだと思う。ちゃんと意識はっきりしてる?体はなんともない?」

  ――……シバラク、動ケソウニアリマセン……緑ノ雷ハ、効キスギマス……。

  「あ、はははっ……ごめん、それしか手がないって思ったから」

  ――分カッテ、イマス…………。

 それから歩緒の父親は眠りについた。体が強くないのに負担を掛けてしまったが、助かって良かった……。
 紅葉はそっと抱え直し、仲間の元へと歩を進めた。


        *  *  *  *  *  *

 紅葉が瘤を虎狐から取り除き始末したのと同タイミングで、絹は腑喰の心臓に槍を突き立てていた。ゴフッと吐血しながら何か云おうと絹を見上げるが、次第にその瞳から光が無くなり、静かに絶命し全身から力が抜けた。そして腑喰は瞬時に炎に包まれ、塵となって消えた。

 炎の壁を解き、槍も消し、絹は赤い大地に残った血の海に視線を落としていた。先程まで腑喰がそこに居た事を証明する唯一の証だ。
  「…………」
 絹は一瞥して踵を返し、仲間の元へと歩を進める。



  「――絶対に許さない……!過ちは食い止めてみせる……!」



 小さく拳を握り締め、唇を噛み締める。その表情には悔いや怒り悲しみ、負の感情が現われていた。


        *  *  *  *  *  *

 仲間の元に戻って来る絹の姿に気付き、紅葉が手を振る。
  「絹っ!!」
  「……貴女も上手くいったみたいね。雄の虎狐の様子は?」
  「今は眠ってる。絹もあの河豚って人止められたんだね」
  「ええ。……絶たせてもらったけど」
 苦笑を浮かべた絹に東鴻が『仕方あるまい』と言葉を返す。

  「寄生人間とはまた随分な者を生み出したものだ。そんな研究をしていたと見抜けなかった私にも否はある。……今云えることではないが」
  「東鴻が謝ることではないわ。貴方が止めていたとしても、きっと悪国の頂点や貴方と同等の幹部達は見逃していたでしょうし、遅かれ早かれ彼の様な人が生み出されていた事に変わりはないわ」
  「……そうだな」
  「……虎狐の住処に一度戻らないか?様子が気になる」

 話に区切りが付き、そこに冶无樹が入り提案をしてきた。皆冶无樹の提案に賛同し、虎狐の住処にへと紅葉達は向かった。




 虎狐の住処がある山奥に戻ると、住処にしていた穴倉は崩れ形が変わっていた。住処が崩壊したとなると、中にいた虎狐達や歩緒が無事なのか危ぶまれる。
  「穴が崩れてぺしゃんこじゃん……虎狐達無事なの?」
 些羽が崩壊した住処に近付き、岩々の隙間を覗き込んだりする。
  「崩れる寸前で絹の張ってた結界は解いたけど……無事にみんなが出られたどうかは……」
  『…………』
 紅葉は抱き抱えた歩緒の父親を見下ろした。折角助けられたのに、肝心の仲間が無事でいないと意味がない。皆が沈黙する中、紅葉達の背後の森からガサガサと音が聞こえてきた。新たな敵かと身構える皆の前に姿を見せたのは、体を少し汚した虎狐だった。


  「キュウ~」


 小さな体はまだその虎狐が幼いことを示していた。それに迷いなく紅葉の元にやってきたということは――。
  「歩緒……?」
  ――ウン!紅葉サーン!
 歩緒は紅葉の顔目掛けて跳んできて顔面に張り付く。跳んできた勢いに負け、紅葉は背面を地面に強打し倒れ込む。顔面に張り付いた歩緒を引き剥がそうと首根っこを掴んで引っ張る。

 すると森から次々と虎狐達が姿を見せ、紅葉達の周りに集まってきた。
  「良かった!みんな無事だったのね……!」
  「……しかし、よく無事に出られたものだ。歩緒だけ汚れているのは気になるが……」
 泰志を支えながら冶无樹が疑問を口にする。それに些羽が「確かに……」と紅葉の顔面に張り付いている歩緒を見やる。
 怪我はないようだが、銀色の毛並では汚れが一段と目立つ。まだ幼い子供である歩緒が一体何をしたというのだろう。



 場所を変え、見晴らしの良い丘にへとやってきた。負傷している泰志の手当てと、眠っている雄の虎狐の安静、その他負傷している者がいないか絹が確認していく。
  「とりあえず、少しでも休息を取っておきましょう。毛狩り集団や悪国からの隠密が居なくなったとはいえ最後まで気は抜けないわ。何時でも対処出来る様に構えておきましょう」
  「……敵らしき反応は感じ取れない。人は私達だけのようだ。泰志が相手をした男と寄生人間の腑喰が毛狩り集団に紛れていた悪国からの使者か……」
  「何の為にこんな真似したのか意味不明ですよね、東鴻隊長――貴族、起きてんの?」
  「貴族貴族って煩いぞ!人の名前呼ぶ気無しか!」
 絹に手当てをされながら泰志が吠える。

  「別にいいじゃない呼び方なんてなんでも。それより、相手した奴が悪国の関係者だっていう証拠は?なんか持ってる?」

  「証拠?……所持品とかは持って来てないけど、相手が銀次郎を知ってたっていうのなら証拠になると思う」

  「銀次郎って、夏気未隊長が纏めてる部隊の左副長のこと?そいつ、左副長知ってたの!?」

 頷いて見せる泰志に些羽は「まあ証拠にはなるか」と呟く。

  「『銀次郎がヘマしてくれたお蔭で、その尻拭いを俺がしないといけなくなった』……そうぼやいてた。あと、毛狩り集団は嘘を信じ込まされた貧しい人達で、神国から使者を誘き寄せる為の駒だって」
  「……ということは、銀次郎が九つ塔印の封印を壊した可能性は濃厚ね。おそらくこの土地の封印が半壊状態なのは任務遂行中に別の任務が出来、そっちに向かった。結果的に紅葉と戦闘をして助けられ、封印を解く任務を放棄した挙句に裏切った。だから代わりに任務遂行を命じられた人が此処に居た……それなら一応筋が通るわね」
  「……神国の使者をこの土地に誘き寄せたのは、国自体に脅しを掛ける為か?」
 冶无樹の見解に絹は首を縦に動かす。
  「おそらくね。毛狩りが再開したと思わせるのも自国に脅威が迫るのを恐れて派遣してくるのを分かってて仕掛けてきたとしか思えない。何を考えているのか分からないわね……悪国の頂点なのか、それとも幹部なのか……」

 神国に強襲を掛けてきたり、先を読んで仕掛けてきたり、悪国が一体何をしたいのか真意が今一つ掴めない。裏で誰か意図を引いていたとしても、何の為に――。
 絹が思考していると、視界に泰志がキョロキョロと辺りを見回している素振りが見えた。
  「?どうしたの、泰志」
  「紅葉は?丘に来るまでは居たよな?」
  「紅葉なら祠の方に行ったわ。解かれた結界を直しにね」
  「結界を……?でもその結界って『天ノ神家』の人間じゃないと解けないってことは張れるのもその家だけなんだろう?」
  「考えがあるみたいよ。――勿論、那与裏の、だけれど」
 足元に視線を落とすと、歩緒が東の方角を向いてお座りしていた。紅葉の事が気になるのかずっと動こうとしない。しゃがみ込み、歩緒に話し掛ける。

  「紅葉の事が気になるの?」

  ――……僕……ズット紅葉サント、皆ト一緒ニ居タイ……。

  「…………」

 歩緒は感じ取っている。紅葉がただ任務を請け負っただけではないことを。
 ――この土地に来たもう一つの目的を。


        *  *  *  *  *  *

 生緑地から東、半壊状態の祠を目の前に紅葉は片膝を付いて祠と目線を合わせて祠の状態を確認していた。

  (……結界が解かれたとなれば修復は無理、か……新しく張るにしても結界なんてどうやって……)
  ――主。結界を張るのは難しいことではありません。皆の力を借りて張れば宜しいのです。
  (皆の……力を借りる……?)

 自身の能力に関しては身体に馴染んでいるのかすら分からない状態だ。基礎体力や身体能力の向上、剣術や知識を増やしたりと教養を受けていたが、自身の能力に触れたことは……ない。
  (触れようにも、基礎がなっていない未熟者はまず土台作りだって教えてくれなかったし……!)
 舘野伊に云われただけでなく師長七人、もう一人の総隊長にも同じことを云われて毎日修行をしていた。結界を張るのに皆の力を借りるというのなら、今回初めて自身の力に触れることになる。
  「というか、永力に今まで触れてなかったのに結界張るとか出来るの!?かなりの高等技術が要るんじゃ……」
  ――そこまで気負う必要はありませぬ。自然体に身構え、両手を腹部の前に差し出して意識してみて下さい。身体の中心から両掌に向けて気を流す意識で。

 那与裏の云う通り身体から力を抜き、足は肩幅に、腹部辺りの高さで両掌を上に向け目を瞑る。
 身体の中心といえば鳩尾の辺りだろうか。そこは気や能力自体の中枢部分だと教わったが、永力にもいえることなのだろうか。騙されたと思ってやってはみるが何も無かった時はどうするつもりなのだろう。

  (……中心から掌に向けて……)

 意識を集中させると、鳩尾辺りがほんのりと温かく感じられる。そして足の裏や頭の天辺、外気から“何か”が全身に入り込み掌に向けて流れていく。
  (何て温かい……これは、周りの自然から?身体に吸い込まれるこれは一体……)
  ――それが“源粒”にございます、主。
 人間界での対面を期に以前より声がはっきりと聞こえてくる。そしてそれはまるで常に傍に居る不思議な感覚を覚えさせる。振り返っても勿論いない、それなのにそんな錯覚を覚えてしまうのは一つになってしまったからなのだろうか。まるでもう一人の自分を内側に秘めているようだ。

 那与裏から結界を張る手解きが語られる。

  ――今から妾が口にする言霊を唱えて下さい。そうすれば結界が張られ、祠も元通りになり力場の封印は完成致します。

  (分かった。唱える言霊を教えて)



 那与裏から教えて貰った言霊を紡ぎながら、紅葉は半壊の祠にゆっくりと歩み寄って行く。
  「――万物に与えられし源を有し、我、此処に守護をする……」
 手を伸ばせば触れられる距離まで詰め、紅葉は両掌を祠の上に差し出す。
  「枷を科し、抑制せし力で形作る硬き護りを那与裏に認められし主君の名において命ずる――」
 両掌から浮いている半透明の球体が宙に浮き、紅葉は両手を引っ込める。半透明の球体は祠の上空で浮いたまま大きく膨らみ始め、祠を球体中に飲み込む。


  「――神体永久ノ守護……紅葉の名において此処に来たれ!!」


 半透明の球体が光り出し、強い光を一瞬放ち目を眩ませる。光はあっという間に収束し、半壊状態だった祠は元に戻り、半透明の球体も消えた。
  「あ、あれ?半透明の玉が消えた……それに祠が綺麗になってる……」
  ――成功致しました、主。無事に結界が張れました。
 那与裏の言葉を疑ってか、紅葉は祠に近付いて行き祠の屋根を撫でる。

  (……結界張った割に祠には触れられるんだ)
  ――結界の張り主を拒む訳ありません。張れたかどうかお疑いになられるのなら、あそこに落ちている木の枝を祠目掛けて投げてみて下さい。

 少し離れたところに木の枝が落ちている。紅葉は祠から離れ、地面に落ちている木の枝を拾い、祠目掛けて投げつける。すると結界に当たりバチッと大きな音をさせて木の枝が塵と化す。一体何が起こったのか、目を瞬かせながら今度は石ころを手に再び祠に向けて投げる。木の枝同様、バチッと音がしたと思ったら石ころは消えていた。
  ――主以外の人、例え物でも結界に触れれば塵となります。天ノ神家が張った結界では制限しか出来ませぬが。
  (塵にするとはまた……すごい結界で)
  ――源粒を上手く扱える者でないと分解されて塵になるだけです。つまりは主だけでございます。
  (神力や聖力は?)
  ――扱えない訳ではございませぬが、主が張ってしまった結界は主にしか解けませぬ。例え阿音鷹や真夜達を宿している者でも妾達が張ったものは解けませぬ。
  (そういうもんなんだ……)
  ――はい。ですから全ての祠に結界を張ることを妾は望みます。……青葉を想っての償いのつもりなのかもしれませぬが、やはり人が源粒の力場を護るには無理があったのです。壊されたものと目の前の祠の半壊が良い例にございます。

 那与裏がどういう想いでいるのか、それは一つになっていても分からない。人にある感情というものがあるのだとしたら、どんな感情を抱いているのだろうか。
 分からないことを気にしてもしょうがないが、せめてもの気休めで紅葉は再び祠を撫で、その場を後にした。



 皆が居る丘に戻ると、歩緒が一早く紅葉の元へと駆け寄ってきて足元でクルクルと回る。
  「……どうしたの?歩緒」
 しゃがむと肩に跳び乗ってきて特等席の頭の上に四肢を広げてへばり付く。
  「…………」
 親や仲間の元に戻ったというのに相変わらず紅葉の元にやってきて落ち着く姿は、すっかり懐かれてしまっている証拠。自然に帰そうにもこれだとおそらく紅葉から離れようとはしないだろう。


  (……本当はこういう手使いたくなったけど……)


 任務は成功し、後は帰還して大紀美に報告すれば完遂だ。後は歩緒を虎狐達の元に帰せば、この任務を請け負った本当の目的を果たすことが出来る。

 これでいいんだ――そう自分に云い聞かせて私情を胸の奥に押し込めた。


        *  *  *  *  *  *

 その夜、紅葉は仲間と歩緒の母親を呼び出した。他の虎狐も歩緒もぐっすりと眠っているから起きることはないだろう。


 野宿地点から百メートル程離れた森の中、静まり返った夜の森程不気味なものはないだろう。夜行性の野鳥の鳴き声すら聞こえず、風が通り抜けて木々が揺られることすらない。無音な森の中、些羽が寝ぼけ眼を擦りながら紅葉に話掛ける。
  「寝てるとこ起こすって一体なに……?ふぁ、ああぁ~」
  「……泰志は置いてきてしまったが」
  「冶无樹殿から言伝ればよいのではないか?あの身体で動かすのは忍びない」
  「そうね。爆睡していたし、寝かせておけばいいでしょう。……それで?私達だけでなく、長まで呼んで話があるって」
 絹の視線の先には、肩に長を乗せた紅葉が居る。何時になく真剣な面持ちに先程までの緩んだ空気が変わり、仲間達の気も引き締まる。

  「……荒草原の異常気象の原因が、九つ塔印の封印が半壊状態であることは分かったし、その封印も元通りになって結界も張り直した。次第に異常気象も回復していくだろうから問題ないと思う。毛狩りについては集団が悪族の手によって殺られたから、これを期に人が荒草原に入ることはないだろうからこれも問題ない……あとは、歩緒の事だけ」

 チラッと肩に居る長に視線を向け、紅葉は仲間達に顔を向ける。

  「私がこの任務を請け負ったのは、歩緒を親元に……仲間の元に帰すつもりで請け負った。人間界で一緒に行動するって決めた時も与世地聖に帰るまでって歩緒も私もそれで割り切ってたし、帰ってきてからも一月は一緒に居たけど、修行が急に決まったから親元に帰す機会がなかった。……でも、木理羅がくれたこの機会に帰す腹でいたから――歩緒を置いて帰還する」

 おおよそ何の話をするのか見当が付いていたのだろう、絹達は驚いた素振りは見せない。紅葉の決意に誰も何も云わないのかと思われたが、冶无樹が紅葉に話掛ける。
  「……歩緒を置いて帰還するにも、歩緒がそれを受け入れるだろうか。紅葉に一番懐いているのだぞ」
  「説得しても、多分無理だと思う。だから強行するしかないと思って、それで皆と長には話しておきたいから呼んだんだよ」

 紅葉の提案に誰も何も云わなかった。そうするしかない――その言葉に皆揃って頷いた。






 東から太陽が昇り、赤い大地に光が降り注ぐ。生緑地にも日射しが柔らかく降り注ぎ、崩れた住処の前で眠る虎狐の群れの中で歩緒が一番に目を覚ました。耳をピクピクと動かし、猫の様に背伸びをすると前足で顔を洗う。毛繕いが終わり、辺りを見回して紅葉達の姿を探す。


 ――だが、紅葉達の姿は何処にもなかった。



        十章⑧   終わり