月曜から金曜までの5日間、学校に来なかった瀬那の事が気掛かりで未琴は自分はどうするべきなのか思い悩んでいた。
沖田の家に行った先週の土曜日、体調が優れないのに未琴を送り届けた瀬那だったが、休日の内に回復することなく今週は学校を休んでしまった。学校に来れない程悪化してしまったのがもしや自分を送り届けたことが関係あるのでは?――と、瀬那の体調が悪いことに気付いてしまった未琴は気にしていた。
沖田に『気になるなら行けばいい』と言われたが、素直にそうするとは言えず意地を張っていたのだが……。
「…………結局来てしまった……」
瀬那の暮らす高級マンションを見上げ、未琴は気まずそうな顔をしていた。しかも手にはスーパーのレジ袋がぶら下がっている。
* * * * * *
――経緯は家に居た時にまで遡る。
朝の10時半を回った頃、未琴は出掛ける支度を整えて玄関先で靴を履いていた。そんな未琴の背後に誰かが近付いて来て、気配を感じた未琴が振り返ると、そこには弟の翼が立っていた。
「どっか行くの?」
「え!?ま、まあね……」
別に疚しいことをしようという訳ではないが、瀬那の様子見に行くと言えば翼はきっと良い顔をしない。
「友達と?」
「うん。ちょっと買い物。帰りはちょっと分からないんだけど、早目に帰るようにはするから」
「…………はぁ。本当嘘つくの下手くそだよな、姉貴は」
大仰な溜息を付く翼は呆れ顔で腕組みをする。
「雅さんのとこ、行くんだろ?」
「えっ!?」
「この前姉貴を送って来た時、あの人顔色悪かったからな。具合悪いのに姉貴を心配して送り届けるとか、評価上げたいだけなんだろうけど……まあ、そんな無駄なことしないか。直感で生きてそうだし」
確かに、そんな感じで生きてそうだ。
「それに?送り届けてもらった立場で、相手が具合悪そうっていうのに放置するような人でなしな姉貴じゃなくて良かった良かった。行かないようなら蹴り飛ばしてでも行かすつもりだったけど手間が省けた」
ん??
今翼が何を言っていたのかよく分からなかった。
「手間が省けたって……どういう意味?」
「そのままの意味だよ。あの人今週学校に来てなかったんだろう?だったら幾ら気に入らなくても少しくらい心配にはなるだろ。送って貰ったなんて理由がなくとも顔見知りなんだし、それぐらい当然だ。……一応俺も気掛かりだったし」
つんとした態度で壁に凭れ掛かり、そのまま話し続ける。
「……確かに雅さんは特進科の人だし、信用出来るか分からないけど何処か上流階級とは違う気がする。姉貴や俺に対しては素でいるっぽいからかもしれないけど、言動に嘘はない。……姉貴に対しての評価についてはやっぱ眼科行くべきだな。いっそのこと目玉取り替えた方がマシかもしれない……」
後半何か呟いたみたいだが、ぼそぼそと呟いた為聞き取り辛かった。
だが、翼の口から瀬那を心配していると出たのは意外だ。上流階級の人間かもしれないと瀬那を警戒しているのは今も変わりないが、未琴と同様不調を目の当たりにしたのもあって記憶の片隅に残っていたらしい。翼も気付く程だ。その時既に余り良い状態ではなかったのだろう。
「要するに、『送ってくれた人の体調不良を気にするのは常識の範囲内だから様子見にぐらいは行け』って言ってんだよ」
「べ、別にあいつを心配してるわけじゃないわよ……」
「へぇー。送って貰ってる立場のくせに心配もしないとかちゃんと血ぃ通ってんの?それとも向こうが勝手にしたことだから自分には関係がないと……随分な利己主義で優しさに欠けた人間が居たもんだな。そんな姉貴だとは思わなかったなー。随分と冷たいなー」
人が黙っていれば『何この冷たい人』と言われんばかりに次々と言葉の棘が刺さってくる。
「変人に好かれる短気で損気で凶暴で冷血な人でなしな姉貴を持つ俺は可哀相な弟だ――」
「――あぁーっ!もうっ!行くんです!これから雅瀬那のところに行けばそれで満足ですか!?」
「……だったら早く行けよ。気を付けて。じゃ」
バタンッ。
放り出されるように部屋から出され、未琴は身体を震わせて可愛くない弟に毒づく。
「……本っ当可愛くない……!ええ行ってやろうじゃないのよ!見てなさいよ!!」
ドスドスと大股で歩きながら未琴は部屋の前から去ったのであった。
* * * * * *
という経緯があり、家を出てから何故か自然と足がスーパーに向いていて、消化し易いうどんとかおかゆや雑炊が出来る食材を購入して瀬那の住む高級マンションにまで来てしまったが、さてこれからどうしようかとマンションを見上げたまま未琴は固まっていた。
「……というか、病気かどうかも分からないのに何で何か作る気満々みたいに食材なんか買ったんだろう……。看病しに来たわけじゃないのよ、様子見で来たんだから」
顔色が悪かったから寝込んでると思い込んで食材を買ってしまったが、まあ要らなかったとしても瀬那にあげればいいか。それにマンション前でずっと突っ立っているのも変に思われるし、取りあえず中に――。
「あっ……」
マンションの中に入ろうとして思い出した。そういえばこのマンション、オートロックシステムで部屋の番号や部屋に入るにもカードキーや暗証番号とか面倒なことだらけだった。
瀬那の部屋番号も分からないし、暗証番号とか分かる筈もないし、カードキーなんて持ってるわけがないし……。
「…………」
迂闊だった……これだと瀬那に電話かメールするしか部屋に辿り着く術がないではないか。メールだと何時返信が来るか分からないから電話の方が手っ取り早い。瀬那に電話をするなんて気乗りしないが、行く為にはそうするしかないのもまた事実。
未琴は溜息を吐きながら仕方なしに携帯電話を取り出し、電話帳から瀬那の番号を呼び出して電話を掛ける。出来れば出ることなく留守電とかになれば諦めて帰るのだが。
7回程の長いコールの後、気怠そうな声が聞こえてきた。
《…………未琴……?どうしたの……?》
聞こえてきた声は瀬那の声だが、くぐもったような響きがある。しんどいのだろうか?大丈夫なのかとそう心配そうに訊ねれば良かったのだろうが、未琴は胸を張ってこう言った。
「……今ね!100億分の1の確立の気まぐれであんたのマンション前に居るんだけど、部屋まで行く必要はないかもしれないけど、今なら1千億分の1の確率の気まぐれで行かないこともないんだけど?」
《…………》
電話の向こうから返ってくるのは無言だけで、未琴も返しに困って同じように無言でいると、やや時間を置いて瀬那の声が聞こえてきた。
《……今、マンション前に居るの?……部屋に、来てくれるのかい……?》
信じられないといった具合に驚きと、嬉しさが滲み微かに弾んだ声が携帯を通して未琴の耳に聞こえてきた。熱のこもった吐息混じりの声に艶っぽさがあるのはきっと気のせいだ。本調子ではなく体調不良でそうなっているだけだ。
《嬉しいよ……本当に、来てくれるのかい……?》
「いいからさっさと部屋まで行くのにどうしたらいいのか教えなさいよ!」
《分かった。……とりあえず、自動ドア潜って直ぐ機械があると思うんだけど……》
* * * * * *
瀬那の言う通りにしてようやく部屋の前まで来れた。部屋のドアは瀬那が開けてくれるというので、チャイムを鳴らして待つ。するとドアがゆっくりと開き、瀬那が出て……。
「!!??」
ドアを開けた瀬那の恰好に未琴は絶句した。なんと瀬那は上半身裸、つまり半裸の状態で未琴を出迎えたのだ。
「ちょっ……!!あんた体調悪いんじゃないの!?なんで半裸で出てくんのよ!?」
「?ああ……身体だるいし、面倒で……ズボン履いただけで上着る気失くしたからこのままでいたんだよ」
立っているのも辛いのか、ドアを開けて直ぐに壁に凭れ掛かるようにして話し始めた。
何時もブレザー姿や部活着、未琴のバイト先の制服や私服を何回か見ただけだが、がっしりとはいえない細身の身体をしているなとは思っていた。とはいえやはり男性で、広い背中に未琴とは違う広い肩幅、すっぽりと未琴を腕の中に収めてしまうのだから身体は大きい。
細身な割に程よく均等に付いた筋肉、割れた腹筋、見た目に反して身体は鍛えているらしく実は脱いだらすごいというやつだったようだ。――いや今はそんなことを言っている場合じゃない!
「体調悪くて休んでた奴がなんで半裸なのよ!早く上着て来なさいよ!余計悪くなっても知らないわよ!」
「……玄関に来るのもしんどかったのに……」
「ここまで来れる気合いがあるなら上着くらい着てこれるでしょう!?上着ないなら帰るわよ!」
踵を返そうとした未琴の手首を瀬那が掴んできた。振り返ると、懇願するような表情で寂しそうにする瀬那が居た。
「分かったよ。着るから……帰らないで、未琴……」
瞳を潤ませて寂しそうな表情をする瀬那に未琴は言葉に詰まる。なんか一瞬瀬那が子犬に見えてしまい、ちょっとだけ胸がキュンとしてしまった。
(――はっ!!?違う違う!雅瀬那を子犬と同等にするわけにはいかない!きっと今のは見間違い見間違い!)
とりあえず部屋の中に入り、壁伝いに奥へと歩いて行く瀬那は寝室に行ったのか、リビングとは違う方に進んで行った。未琴は取りあえず廊下を抜けてリビングに入り、スーパーの袋をキッチンに置いた。そしてリビングにへと移り辺りを見回す。
「……本当一人暮らしにしては広すぎるわよね。物もそんなにないから生活感がないように見える……」
必要最低限の物はあっても、どれも部屋に対してポツンとそこにあるようなもので、整頓されているとかキレイ好きなのかとは思えない。まるで何時でも去れるようにしているようで――。
「……これならいいよね」
そう背後から瀬那の声が聞こえ、振り返るとTシャツを着てきた瀬那がリビングに入ってきたところだった。微笑んではいるものの、気分が優れないのを完全に隠しきれてはいないようだ。少し無理して笑みを作っている気がする。
「……で?その……気分の方はどうなのよ。体調とか」
「幾分マシだよ。とはいっても、まだ少しふらつく程度に気持ち悪いけど」
「随分と台所キレイだけど、ちゃんと食べてるの?」
「うーん……ちゃんとした食事は、していないよ。3日前と昨日卵スープを口にしたぐらいだよ」
「はあっ!?何それっ!?」
3日前と昨日卵スープを口にしただけって……何も食べてないのと変わらないじゃん!!何考えてんのよ、コイツ……!
「食べたくなかったのかもしれないけど、体調悪いにしろ気分が悪いにしろ、何か口にしないと治るものも治らないでしょうがっ!そういう時こそちゃんと栄養取んなくてどうすんのよっ!!」
「欲しくなかったんだよ」
「欲しくないから食べないって、子供みたいな言い訳して栄養失調とかなったらどうすんのよ!免疫も落ちて他の病気に掛かったり何より痩せてくでしょうが!!――ったくもうーっ!!」
憤慨ながらも腕まくりをして未琴はキッチンに向かう。スーパーの袋を前に腰に手を当て、瀬那に顔だけを向ける。
「――うどん・おかゆ・雑炊、何がいいのよ?」
「……え……」
「言った中のどれがいいのかって聞いてんのっ!言っとくけど、“食べない”とか“いらない”とかって選択肢はないし拒否権もないからね!病人は大人しく食べるもん食べて寝とく!!いいわね!!」
「…………じゃあ、雑炊で」
「出来るまで寝とくなりして安静にしといてよ。好き嫌いとかある?」
「……特にないよ」
有無を言わせない勢いの未琴に瀬那はただ質問に答えるだけで、何時もとは立場が逆転している。こういう時でないと瀬那をかわすことが出来ないというのも情けない話ではあるが。
(……何で雅瀬那の部屋で料理なんてしないといけないのよ。自炊してるなら自分でちゃんとご飯ぐらい食べなさいよね……!“食べたくない”って子供の言い訳かっつーの!)
手近なところにあるまな板と洋包丁を手に取り、小鍋を二つ引っ張り出す。
ネギを小口切りにし、水を入れてIHにかけた小鍋が沸騰しカタカタと蓋が音を鳴らす。蓋を取り、電子レンジでチンした白ご飯と小さく切った人参を入れ、塊を解す。沸くまで待つ間溶き卵と味付けのだしと調味料を準備する。
「沸いたらまずは味付けかな。薄味にして、それから溶き卵とネギを入れたら出来上がりと。後は……」
雑炊と一緒に汁物も用意しようかな。お吸い物なら合うかな?それも薄味にして……。
キッチンで料理をする未琴を待つ間、瀬那はリビングのソファに横になって寝転がることにした。寝室に行ってもいいのだが、トントンとリズムよく料理する音や部屋に漂う料理の匂いを嗅いでいたかった。
(……懐かしいな。うんと小さい時だけだったけど、母さんの料理する様子を見ながら、早くご飯が出来ないかって待ってたっけな)
母親が料理をする風景なんてなんてことない事かもしれない。だが瀬那にとっては憧れの風景といえる。母親と遠ざけられ普通の暮らしから遠退いた経験から、自分が家庭を持ったら子供には絶対そんな寂しいのを当たり前にはしたくない――そう思っている。
だからこうして想い人の料理する姿・そして音、匂い、それ等を五感で感じ幸せな気分を味わうと、胸が温かくなる。
少し上体を起こしてキッチンの様子を窺う。未琴が味見をしていて、いい感じのものが出来たのか納得気に微笑み頷いた。そんな様子につい頬が緩み、ゆるゆると上体を下ろし再び寝転がる。
(気が向いて来たみたいに電話では言ってたけど、心配して来てくれたんだろうな。ふふっ、素直じゃないな……)
気が向いて来ただけというなら食材など手にして訪ねては来ないだろう。オレの体調が優れないことに気付いたから、今週学校に来なかったのを自分の責任もあるのかもと気にしていたに違いない。
(あぁ、本当に……どんどん好きになるよ、未琴……)
一度会っただけの相手に一目惚れっていうのはどうかと言われるかもしれない。でもそんなこと言われようと瀬那にとっては関係のないことだ。直感的に『この人だ!』と思ったのだから。
それにこうして再会して少しずつではあるが彼女を知ることが出来ている。短気なところもあって、直ぐに手が出て、素直じゃなくて、曲がったことが嫌いな男顔負けの威勢の良さ、家族想いで無理する頑張り屋で、根は優しくてお人好しで、今でいうツンデレな普通の女子高生……それが七瀬未琴その人だ。
(これを執着っていうならそうなのかもしれないけど、もうオレは未琴に首っ丈なんだ。こんなにも誰かを想うなんて初めてだから戸惑ってるなんて、言っても信じて貰えないだろうけど)
「――Quand la ve'rite', la responsabilite' ne le recoit pas, ie suis dans le pe'trin……(本当、責任とってもらわないと困るよ……)」
聞こえていないだろうと思いながらも瀬那は今の気持ちを口にした。
* * * * * *
キッチンに立って30分程、未琴は出来た雑炊とお吸い物を器に盛り付け、内心胸を張っていた。我ながら良い味になったと思う。まあ、食べた本人の口に合わなければ意味はないが……。
お盆に乗せ、レンゲも添えてリビングのテーブルにゆっくりと置く。ソファに横になっていた瀬那がのそりと上体を起こし、立ち上がる。
「てっきり寝室に居ると思ったのに……ソファに寝転んでたの?」
「ああ。料理する音を聞いて、次第に香る匂いを嗅いでいたかったからね」
椅子を引いて座る瀬那は柔らかな微笑みを浮かべながら料理を見つめる。
なんだかマジマジと見つめているのを見ると変に気恥ずかしくなる。未琴は腕組みをしそっぽを向く。
「……一応薄味にしてるから。身体が驚くことはないと思うけど、気分悪くなったりお腹痛くなったら無理して食べないでよ」
「……いただきます」
レンゲを手に取り、瀬那は雑炊を一すくいし冷ましながら一口口にする。そっぽを向きながらも瀬那の反応が気になる未琴はチラッと横目で様子見をする。
「…………美味しい。優しくて品の良い味付けだね。オレは好きだよ」
「……そ、そう。なら、いいんだけど……」
優しくて品の良い味付けって……それは言い過ぎじゃない?特別なんか使ってるわけでもないのに……。
お吸い物も『美味しい』と言いながら口にし、嬉しそうに食べる様を見て内心少しホッとした。作るって言った手前口に合わなかったら立場がない上に不調が悪化しては様子見に来た意味がない。未琴は仄かに頬を染めながら食べる瀬那の姿に口元を綻ばせる。
食べ終わった食器を片し、未琴はリビングのソファに座る瀬那に近付く。食事を摂ったからか、少し顔色が良くなっている。
「……あの、さ。そんなに長引くようなら病院とか行った方がいいんじゃないの?一週間って普通の体調不良にしてはおかしい気がするし」
「そこまで心配しなくていいよ。大体一週間は気分が悪くなるんだ」
「一週間はって……初めてじゃないの?」
未琴の問いに瀬那はこくりと頷く。
「今回で8回目ぐらいかな。引き金になるきっかけは同じだし、小さい時に比べたらマシになってきた方なんだけど……気分が悪くなるのは変わりないな。オレの事心配してくれるの?」
「はぁっ!?べ、別に心配してるわけじゃないわよ!前の騒ぎの仮もあるし、それを返すのに丁度良かったから……!」
「オレの体調不良に気付いたものだから、それもあって今週学校に来なかったのがまさか自分を送り届けたことが関係しているんじゃないか……そう気にしてくれたんだよね」
「!!」
瀬那の言葉に未琴は口を噤み、視線を這わす。動揺を隠せないでいる未琴を見て、瀬那は微笑を浮かべる。
「幾ら昼間とはいえ今の世の中物騒だからね、未琴に何かあったらオレの寿命が縮むよ。体調が悪くても、未琴がちゃんと無事に帰ったって事を確認してからじゃないと気が休まらない。だから未琴を送り届けたことが悪化に繋がったのかってのはNOだ。それにオレが勝手に選んだことだからね」
「私だってそう思ったわよ!あんたがしたくしてした事だし、それで悪化したとかないとは思ったけど、気付いた手前気分良くないじゃないのよ!……翼も気にしてたみたいだし、だったら別に様子見するぐらいならいいと思ったから……」
言葉の途中から瀬那に背中を向けた未琴は腕を抱え込んだ。どうして人が来た理由まで明確に言い当てることが出来るんだ、この男は……。
「……ありがとう。オレの事心配してくれて」
背後から優しい声が投げ掛けられ、未琴はふんっと鼻を鳴らして天井を見上げた。暫く瀬那に顔を向けられそうにない……今自分がどんな顔をしているのか、自分で言うのも恥ずかしいが、きっと微かに頬が赤らんでいる。照れとかそういうのじゃない。ただ――恥ずかしいだけ、それだけだ。
(やっぱり来るんじゃなかった……)
来なかったとしてもきっと内心気になってしょうがなかったのではないかと言い当てられるのが関の山だ。来ても大して差はないのかもしれないが、実際に瀬那を前にして気持ちが少し楽になった。思ったよりは元気そうで、食欲もあったみたいで、微笑を浮かべられるだけの余裕はあるみたいだ。
これなら来なくても良かったのかもと思うが、自分が来ただけで本当に嬉しそうな顔をする瀬那に未琴は胸を締め付けられると同時にほんのりと温かい気持ちを味わった。自分が来るだけで、何の変哲もない料理を作っただけで、それだけで幸せそうにする瀬那を見て少し――人として好感を持てる程度には信じていいと思った。
だが信じていいのかもと思うと瀬那の好意に自惚れそうな気がして返って怖くなる。強い好意程裏返った時の反動がとてつもなく怖い……。
(だから私が雅瀬那に特別な感情は抱いたらいけない。傷付くのが……怖いから……)
きゅっと唇を噛み締め、未琴は床に視線を落とす。
――早く帰ろう。此処に居ると変な事ばかり考える――。
未琴は瀬那に背を向けたままソファの端に置いた荷物を手に振り返らず、瀬那に話し掛けた。
「じゃあ私帰るから。元気があるなら来週から学校に――」
「――待って」
リビングから廊下に繋がるドアの取っ手を掴もうとする寸前で、瀬那に呼び止められた。引き止められたその声は、何時かのあの心を見透かす様な射るような瞳を思い出させた。
未琴の父親がバイト先にきたあの日、『何もない』と嘘を見抜いたあの瞳を――。
「……な、なに?もう用は終わったから帰りたいんだけど」
振り返ると、真剣な顔をした瀬那が真っ直ぐこっちを見つめていた。何とも言えない雰囲気に心がざわざわとし始め、此処に居たらいけないと、本能が警鐘を鳴らす。
瀬那の真っ直ぐな視線に耐えられず、未琴は視線から逃れようとドアの取っ手を掴む。すると――。
「行くな!!……オレの話を聞いて、未琴」
逃げるのを許さないと言わんばかりに必死に呼び止める瀬那の切ない声に、未琴は心を揺さぶられる。居てはいけない、振り切ってでも此処から離れないと……そう思うのにどうして今呼び止めに応じて取っ手を下ろすのを止めたのか。自分でも分からない。
「……聞いて欲しい話があるんだ。もう少し先に言おうと思ってたけど、今話すべきだと思って機会を窺ってた。話す事っていうのは、オレの事だ」
「…………」
「オレ自身を知って貰ってから未琴には話そうって決めてたけど、行宏の家に行って父親から少しオレの事も齧ってだけど言ってただろう?それにオレがなんで体調不良になったのか、その理由もオレの事を話せば分かる。……未琴には、何一つ包み隠したくないし、オレを知って貰いたい。だからオレの話を聞いてくれないか?」
瀬那は未琴の家庭事情まで知っていて、もう知らないことなどそれぞれの心の中くらいのものだ。未琴はといえば、瀬那の事は何一つ知らない。10年前に一度だけ会ったことのある金のリングを渡してくれた男の子、未琴に想いを寄せるフランス育ちで何処かおかしい男子高校生、後は特進科に通うそれなりの地位に居るであろうということだけ。
何一つ明確ではなく不明瞭な情報しか未琴は瀬那について知らない。
これから瀬那が話す事を聞けば、少しでも彼の事が分かるというのだろうか。分かったら、それからどうなる?彼に異性として好感が持てるのか、否。彼を信じられるというのか、否。彼と自分の違いを知り、これからどうあるべきかが分かる、そう、それだけだ。
どう考えたって、瀬那と自分とじゃ何もかも違い過ぎる。幾ら瀬那が心から自分に好意を寄せているとしても、受け入れられないことだったある。彼が嫌いなわけじゃない。人として好感を持てるとは思う。瀬那が望む“特別”に自分は相応しくない――それは初めて会った時から明白な事実だ。
(……あいつの事を知れば、これから私がどうあいつと接すればいいのか答えが分かるかもしれない)
瀬那と自分の訳の分からない関係にはっきりとした答えが出るかもしれない。なら、瀬那の話を聞いた方がいいのだろうか。
(…………)
鞄の中に入れている瀬那から渡された金のリングの入った黒い箱。『また会いに来る』と言ったあの男の子は背後にいる。再会を果たしたのなら未琴が持ち続ける意味もない。
これを手放して瀬那との関わりを断ち切れるかもしれないと、この時未琴はそんな淡い可能性を感じた。
取っ手を掴む左手を下ろし、ゆっくりと未琴は後ろを振り返る。瀬那の顔を見やると、じっと真っ直ぐに瀬那も未琴を見つめていた。
――でも、本当はこの時振り切ってでも帰るべきだったのかもしれない。そんな事を何時か思うなどと、この時未琴は知る由も無かった。
13章 後編 終わり