あれから6日経った金曜日の昼休み――未琴は普通科棟の2-Bの教室で自身の席に突っ伏していた。
(はああぁあぁ~……先週の休日はとんでもない休日だったな……)
金曜日のバイト帰り、いきなり袋に詰められて連れて行かれた先は特進科2年の沖田行宏の家だった。何故か気に入られてしまった未琴であったが、彼は少し変わっていて感情が欠けて(?)いる人だった。幼い頃から父親に対して怒りも反発もしたことがなく、それを高校生になって初めてやってのけた。しかも未琴を手本にしてという彼の自称。
(勝手に人を怒りと反発を教える先生ってなによ!雅瀬那は愛情と執着の先生とか、全部纏めてあいつに教わればいいじゃないのよ!なんで私が……!)
嫌だと言ってもちっとも聞いてくれないし、あれからメールや電話やしてくるし迷惑も甚だしい!思い出すとつい歯軋りが……!!
(……だけど、あの後翼達何の話してたんだろう――)
6日前の土曜日――。
駅前から歩いて未琴の家であるマンションに辿り着き、七瀬一家の一室の前に未琴は果たしてこのドアを開けていいものか迷っていた。いや、開けないと家には入れないんだが……。
「開けないの?」
「……いや、開けるけど……」
自分の言っていたように開けた途端に仁王立ちの弟が居そうで……。いや、案外いないかもしれない。確率は二分の一、腹を決めるしかない。
――よし!
意を決してドアノブを掴み、未琴は玄関を開けた。
「…………おかえり」
「…………た、ただいま……」
ドアを開けた途端待っていたのはやはり不動明王と化した弟だった。背の高い弟が腕組みをして仁王立ちしているとなんという迫力か……圧が半端ない。
ドアを閉め未琴と瀬那が玄関先に立ち尽くしていると、翼が口を開く。
「昨日バイトから帰ってくるのが遅いと思ってみたら、沖田って人から電話があって『急で申し訳ないんですけど、今日お姉さんと約束していて俺の家に招待しているんですよ。今日は俺の家に泊まるので、ご心配なく』……って電話来たけど、貴方の差し金ですか?雅さん」
「差し金なんて随分な言い方をされたものだね。電話は行宏が勝手にしたものだからオレは関係ないよ。オレも巻き込まれた側だから」
「ふーん……」
胡散臭そうに瀬那を見つめる翼の瞳がジロリと未琴を見下ろす。
「何大人しく連れてかれてるんだよ、バカ姉貴!抵抗して逃げるくらい出来ただろうが!」
「で、出来るわけないじゃない!急に後ろから袋被せられて包まれて、あっという間に車に乗せられて連れてかれたんだから抵抗もなにも……」
「ボーっとしてるから簡単に連れてかれたんだろ!?そんなだから変な奴に目を付けられるんだ!一体何ホイホイなんだよ!」
「好きでそんなの引き寄せてるわけないじゃないのよ!変われるものなら翼が変わりなさいよ!」
双方の気が済むまで放っておいてもいいのだが、これでは何時終わるか分かったものではない。玄関先で姉弟喧嘩をする2人の間に瀬那が入る。
「言い合いはその辺にしない?何時までも言い合ってたって意味がないし、取りあえず未琴を入れてあげなよ。翼」
「……貴方に呼び捨てされる筋合いないと思いますけどね。姉貴は奥に行ってなよ。俺はこの人と話がある」
翼に顎で奥に行くよう指示され、大人しくその通りにして部屋の方に引っ込んだが、2人がどんな話をしていたのかは知らない。
いつの間にか瀬那も帰っていたし、翼に何を話したのか聞いても答えてくれなかった。特に説教されることもなく家の中には入れたが、その晩母さんには『泊まるならそう言ってくれればいいのに~』なんて始終ニコニコとしていた。あれはきっと瀬那の家に泊まってきたと思っているのだろう。
(それにしても、翼のやつが何も言わなかったのは意外だったな)
瀬那を怪しんでいる割に言葉は交わしてるし、人を除け者にして一体なんの話をしていたのかぐらい教えてくれてもいいと思うが……翼なりに気を遣っているのかもしれない。
そんなこんなでその日はあっという間に更けた。次の日の日曜日は普通にゆっくり出来たし、休みが明けて学校に来ても何時も通りの学校生活を送って今日はもう金曜日だ。
――だが。
「……そういえば、雅瀬那が学校に来てないんだっけ……」
休日明けの月曜日から今日の金曜日まで、学校に居ても雅瀬那を見掛けていない。何時もなら朝や昼休み、10分休みだろうが来たい時に来るあの雅瀬那が来ないなんてこれはもうやっと嵐が去ってくれたか!と思って喜んでいた。しかし、教室や廊下、ましてや登校時間や下校時間にすら周りで女子達が五月蝿く話しているのを聞いていればその喜びも水曜日にはぬか喜びに終わった。
「聞いた!?雅くん体調不良で月曜から休んでるんだって!」
「うっそー!じゃあ今週バスケしてるところ見れなくて、あの冷ややかでも爽やかな姿も見れないってこと!?雅くん大丈夫かな……」
「重い病気とかじゃないよね??」
「あーん!こういう時に雅くんの傍にいたぁ~い!!」
……とまあ、こんな事を言っている女子達の会話が始終聞こえてくるのだから居ても居なくても大して騒がしいのに変わりがないとはどういうことだ。おまけに未琴のせいで瀬那が休んでるとか根も葉もない噂まで立つ始末で……解放されたと思うどころか絡み付いて解けてすらいない。
(…………今思えば、私を家に送り届ける時から顔色悪かったよね。その後平気そうに振る舞って翼と話してたんだろうけど、それから悪化したとか……?)
いや、本当は送り届けることすらも出来ない程なのを我慢していた、とか……?
だったらやせ我慢してまで送り届けなくてもいいのにと思うが、自分を優先して瀬那が帰るとは思えない。そういうところは時に紳士的に思う。少しだけ。
未琴は上体を起こし、机を見つめたまま考え込む。
「…………まさか本当に私を送り届けた、せい……?」
なら瀬那に謝罪をすべきなのだろうか?いや瀬那が勝手に我慢して送り届けたんだからそれを人のせいにされて悪化したと言われても、それは瀬那自身が選んだ選択の結果だ。それに対してこちらが申し訳なく思うのは違う気がする。違う気はするのだが……。
「うーん……(気にはならないけど、私のせいで悪化しましたとか言われても嫌だし、かといって雅瀬那の様子見に行く気にはなれないしぃー…………あーーーっ!!何であいつの不調に気付いちゃったのよ私!?そのせいで何か知らんぷりしようにもそう出来ない変なループに入ってるしぃ~~!!)」
頭を抱えてぶるんぶるんと回転したり左右に揺れたり、未琴の行動をクラスメイトは不思議そうに眺めているが、その事に未琴自身気付いていない。今自分が何を思って何をしようとしているのか、それを理解しようとするので精一杯。
最終的に額から再び机に突っ伏すことで落ち着いた。
(どうしろっていうのよ……この終着点見えないループに……)
左側に顔を向けて目を開けた途端、沖田の顔が視界を埋め尽くしつつじーっと見つめられていた。
「ぎゃあああぁああぁーっ!!なんか居る!!?」
「なんだその可愛くない叫び。そこは『きゃあ!!』って叫ぶところだろ」
期待外れみたいな顔をする行宏に未琴はムッとする。
「知らないわよそんなの!……というか、何で沖田さんが此処に居るの?」
「ん?あーそうそう。反抗期は今後も継続するから、何かあった時は無い頭から知識絞ってくれよ?」
「……態々喧嘩売りに特進科棟からご足労して下さったのかしら?」
満面の笑顔で拳を握る未琴に沖田は身の危険を感じ距離を取る。
「お、黒いオーラ纏って変身し掛け?ってか!――……て、そういうのは今はいいか。瀬那が学校来てないのはきみも知ってるだろう?」
楽しそうな表情から一変して急に真面目な顔付きになって沖田が話の話題を変えた。唐突に変わるものだからなんか調子が合わせづらい……。
「知ってるもなにも、周りの女子が水曜日から噂してるんだから聞いてるわよ。体調不良とか」
「瀬那本人からはなんの連絡もなしなのか?」
「あるわけないでしょ。何の連絡も無しに休みが続くから、担任が雅瀬那と連絡取ってから体調不良で今週は休むっていうのが初めて伝わったらしいっていうのに、その日の内に広まるとか皆どれだけって感じよ。私は周りの噂から知っただけよ」
「ふーん。意外だなぁ」
沖田はそう呟きながら屈み、未琴に顔を近付ける。顔を近付けてきた沖田に未琴は身を引く。
「な、なによ……」
「少しでも気になるなら瀬那のところ行ってくれば?」
沖田の言葉に未琴は返答に困り口籠る。
「……きみに何の連絡もしないのも、気にして欲しいからだろうしな。きみが行けば直ぐに元気になるよ、瀬那の奴」
「そんな必要ないでしょう?雅瀬那が体調崩したって私には関係ない!」
「そう言ってる割にさっき悩んでたのは何処の誰だよ。気になる点があるなら行けばいいだろう、彼女なんだろ?」
「違うっつってんでしょ!!私はあいつの彼女じゃありませんっ!ただの同期で顔見知り程度ですぅ!!」
ふいっとそぽを向く未琴に沖田は溜息を付く。強情だな、この女……。
「俺はそれを言いに来ただけだ。じゃーな」
去り際にくしゃっと頭を乱暴に撫で、含みある笑みを見せて沖田は教室から出て行った。乱れた髪を戻しながら未琴は頬を膨らませる。なんなのよったく……!
* * * * * *
学校が終わり、バイト先のパン屋で仕事をしながら時折未琴は携帯の画面を気にして見つめていた。メールも着信もない画面が出るだけで、何か送られてくる気配など微塵もない。それなのに気にしてしまうのは昼間沖田から言われたことが関係していた。
――少しでも気になるなら瀬那のところ行ってくれば?
昼休みに普通科である2-B教室を訪れた際、沖田が未琴にそう言ったのだ。瀬那が学校に来ていないのを知っているかとか、どうして来ていないのかとか、瀬那から何の連絡もないのかとかそんな事を聞きに来た。挙句の果てに『気になるなら行けばいい』とか、まるで私があいつの事気にしてるみたいな言い方して……。
沖田もよく分からない人だ。瀬那から学び取れる事があるからとただ単に利用しているのかと思えば気に掛けていたり、さっぱり考えている事が分からない。
少なくなったパンを追加しながら、息を付く。
「…………」
追加したパンは菓子パンではお馴染みのメロンパン。瀬那が特に気に入っている昔ながらある菓子パンだ。
「……あいつが現われてから五月蝿いばっかり……」
噴水広場の掃除当番が当たった6月、瀬那との出会いが待っていた。出会ってから何時も掃除終わりにお菓子を未琴にくれ、一個ずつから袋ごとに変わり始め、何故くれるのかと問い掛けてから普通科にやってきて突然の付き合ってくれと皆の前での告白。
断った筈なのに何故か彼女とされてしまい、毎日毎日瀬那に好意を寄せている女子達から『別れて』とか妬みを言われ続ける毎日に変わり、瀬那が普通科棟にやってくるようにもなった。時に特進科棟の屋上に連行されたり、何故か小屋がある屋上の部屋で一緒に過ごすことになったり、バイト先に来るようになってからは部活終わりに製造を手伝ったり、家まで送り届けてくれたり、離婚した父親が来た時の騒ぎにも首を突っ込んで来て家庭内事情を見られてしまったり、正直良くない場面を見ても瀬那の態度は変わることはなかった。
寧ろ嬉しそうにしている理由が分からないくらいだ。
いや、心当たりがないわけではない。10年前に一度だけ会った事のある未琴と瀬那、彼はその時に未琴に恋をして、ずっと想ってくれていたらしい。
「……あの時と比べたら可愛くもないのに、なんで私の事そんな風に思えるのか……」
綺麗な子も可愛い子とも沢山出会ってきただろうに、そんな子達と比べたら自分は足元にも及ばない。それなのに好きだと言う……。
(雅瀬那って趣味悪いよ……)
別のパンの追加をしながら、未琴は心の中でそう呟いた。
バイトが終わり、家に向かって進む歩の歩みは何時もと比べて緩やかだった。足元に転がっている石を蹴りながら未琴は帰り始める。
(私を送り届ける時にはもう気分悪そうだったもんね。顔色悪かったし、元気無さそうだったし)
沖田の家に居た時はそんなことなかったと思うが、駅前に送り届けられる間から悪くなっていたのだろうか。それを隠そうとまでしたのは悟られたくなかったからなのだろうか。
(送り届けてからマンションに戻って、一日もあればマシになると思うけど……休み明けの今週来なかった)
学校に来れない程の体調不良は病気にまで悪化した結果なのではないか?それに自分を送り届けたことが関係しているのなら無理をさせてしまったともいえる。
「…………」
緩やかだった歩みが止まり、未琴は足元を見つめたまま立ち尽くした。そして軽く一息付き、空を見上げた。
月が見えない新月の空を、未琴は物憂げな表情で暫く見つめていた。
13章 前編 終わり