午後22時過ぎ――バイトを終えた未琴は伸びをしながら帰路についていた。明日は土曜日、休日で休みだ!そう思うと何をして過ごそうかなと考えてしまう。
  「久しぶりに家でのんびりと過ごそうかな。最近雅瀬那のせいでゆっくり出来てないし……――よし!前買った雑誌でも見て後は片付けでもしよう!」
 もう大分要らない雑誌とか溜まってるし、紐で括って紙の日に出す準備をしようと思っていたところだ。そんな何気ないことでも普通の日常をやっと過ごせると思うと、周りに花が咲いている程ぽわぽわしている気さえしてくる。


 そんな嬉しさオーラを纏って帰路についている未琴の背後、電信柱や塀の影から黒スーツを身に纏った男が数人姿を見せる。


  「――標的を確認。捕獲します」


 すると辺りに散り、1人が歩いて背後から未琴に近付き、距離を詰めて行く。


   コロ……。


 背後で何か微かな物音がした。未琴が振り返ろうとした時には、目の前が真っ暗になって頭から何かを被せられた後だった。


        *  *  *  *  *  *

  「…………」


 過ごし慣れた無駄に広い部屋は、シンッと静まり返っていて時折ペラッと瀬那が雑誌のページを捲る音が聞こえるだけだ。読み飽きたのか、雑誌を畳むとテーブルに放り、二つ折りにされている新聞を開く。
  「……あ、四コマ漫画」
 4つしかない枠でよく上手く纏められるものだ。漫画も面白いが四コマ漫画も意外と面白いものだと最近思う瀬那だった。
 高校生で日本の新聞以外のものまで読むのはおそらくそういないだろう。退屈凌ぎにはなっても、一通り黙読してしまうと飽きてしまい、テーブルに放ってしまうのが何時もの流れだ。

 最後に残していた日本の新聞を読み終え、瀬那はテーブルに放る。そして暫し思案し、携帯を手に取る。

  「今未琴はバイト帰りぐらいか……」

 何事もなく家に着いていればいいが……。



  ――気になるなら瀬那も来ればいいよ。七瀬を連れて行くのと一緒に瀬那も招待してあげるよ。俺の家に。



 今日の昼間、学校で放った行宏の発言が気になっていた。行動に移すのが早い行宏のことだ、今日にも動き出すかもしれない。とはいえ行宏の誘いに未琴が素直に応じるとは思えないし、手荒な真似はしないだろうが強引に連れて行く可能性はある。
  「……様子見に行くか」
 出掛ける準備をし、瀬那は部屋を出て未琴の家にへと向かった。




 1階に着き、フロアを通り過ぎて自動ドアを潜って外に出ると、1人の男が立っていた。
  「……お待ちしておりました、雅瀬那様。行宏様がお待ちです。我々と一緒に来て頂きます」
  「……その口振りだと、オレ以外も誰か連れていったよね。――手荒な真似してないだろうな?」
 瀬那の声のトーンが下がり、瞳が細められた。男は一瞬息を呑むが、平静を装って事務的に答える。

  「……我々からは何一つお答え出来ません」

  「まあ、いいよ。場合によってオレがどう対応するかなんて行宏も分かってるだろうし、あんた達の方が“無事”には連れて行けないだろうからね」

 男の横を通り過ぎ、待っていたかのように路肩に停まる車に瀬那は乗り込んだ。


        *  *  *  *  *  *

 瀬那を乗せた車はとある高級住宅街にへと入ってきた。坂を上り、正面に大きな家が見えてくる。
 鉄柵の門がゆっくりと開き、瀬那を乗せた車が門を通過する。50メートル程離れた玄関前に車が到着し、運転手が車を停めて降り、後部座席のドアを開けて瀬那が優雅に降りる。

 車から瀬那が降りてくると、行宏付きの執事が近寄ってくる。何度か見た覚えがあるから覚えている。

  「お待ちしておりました、雅様」

  「オレよりも先にもう1人来たと思うけど、何処に居るの?」

  「行宏様がご用意したお部屋の方にお通しております。しかし……」

 執事はその先を口籠って答えず、連れて来られたもう1人が通された部屋に瀬那も通されることになった。だが、通された部屋で待っていた光景は瀬那の予想の範囲内のものだった。




 執事が部屋のドアを開けると、右から左にヒュンッと影が通り過ぎ、床に転がり呻き声を上げた。瀬那が部屋に入ると執事がドアを閉め、辺りを見回すと大の成人男性がカーペット張りの床に伸びて気を失っている。
  「……やれやれ、我々では手に負えません……」
  「ふふっ、思ってた通り」
 部屋に入ると、大人の男相手に盛大なプロレス技を掛けて締め上げる少女の姿がそこにはあった。



  「――人を無理矢理こんな場所に連れて来ておいて、『何もお答えできません』ってなによっ!!誘拐まがいな事しておいて……警察に厄介になりなさいよこの犯罪者ぁーーっ!!」



 技を掛けられた男が放してくれと少女の腕を叩くが、放す気配はなく、男は意識を失った。
 「ざまーないわね!」と吐き捨てて解放し、パンパンと手を叩く少女が部屋の入口に立つ執事と瀬那に気付いた。
  「…………ちょっと雅瀬那ぁ!!これは一体どういう事よ!!??」
 少女は鬼の形相で足早に瀬那へと近付いてきて両手で胸倉を掴んできた。執事は余りの迫力に負け、悲鳴を上げながら下がる。
  「やあ、未琴。無事みたいで一安心だよ」


 ――そう、部屋で見事に暴れていたのは七瀬未琴その人だった。部屋には5人程の男がKOされて伸びていて、その有様はまさに狂暴な猛獣が暴れた後のようだ。これ以上暴れないようにと宥めていたのだろうが、返って火に油を注いでしまいやられたのだろう。


 未琴は瀬那の胸倉を掴んだまま揺すり、怒鳴り散らす。

  「此処は何処でなんなのよっ!いきなり頭から袋被せられて車らしき物に乗っけられてきたかと思うと、やっと出られたかと思ったらこのバカ広い洋室よっ!黒スーツに黒のグラサンとか怪しい男共がいるし、訊いたって『何も答えられない』とかほざいて……!」

  「そうなんだ。誘拐まがいというより、誘拐だね」

  「私が帰ってこないとなると母さんや翼が心配するでしょ!?電話しようとしたら『その必要はない』とか意味の分からないこというし、ぶちのめしたって腹立ったまんまだし……ムキィィーーッ!!」

 がくがくと前後に揺すられる瀬那はニコニコしているだけで、胸倉を掴まれていても特にダメージはないようだ。このまま未琴の怒りが治まるのを待っていてもいいが、そういう訳にもいかない。
 瀬那はすぅっと未琴の両手に自身の手を添え、胸倉を解放させた。そして未琴の両手を優しく包み込むと指先に軽い口付けを落とす。


  「――怒ってる未琴も良いけど、そんなに怒鳴ると喉が枯れるよ。……C‘est un gaspillage d‘une voix douce.(綺麗な声が勿体ない)」



 云い終えると今度は指先を甘噛みして軽く舐める。すると未琴が手を引っ込め、顔を真っ赤にして瀬那を睨み見上げる。

  「な、なにすんのよ!?人の指を食べ物みたいに……!」
  「オレにとっては未琴のどの部分も食べ物だよ。食べてあげようか?違う意味で」
  「来るなっ!!どスケベっ!!」

 身構えながら後退る未琴に瀬那はクスリと笑う。
 怒りが静まったのを見て、執事がホッとしたのも束の間、未琴に睨み付けられていると気付き、瀬那の背後に回る。
  「下がっていいよ。あ、床で寝てるこいつ等も撤去しちゃって。邪魔だから」
  「わ、分かりました!」
 部屋の外に居た者達を呼び入れ、伸びている男達を引きずりながら連れ出し部屋からそそくさと出て行きドアを閉める。洋室には未琴と瀬那だけになり、未琴は憤慨にソファに腰掛けてそぽを向いてしまう。微笑を浮かべながら瀬那も同じソファに腰掛け、足を組む。



 落ち着きを取り戻してきた未琴だが、まだ不機嫌なまま、横を向いた状態で瀬那に話掛ける。
  「……此処、一体何処なのよ?あんたの家?」
  「違うよ。此処は行宏の家だよ」
  「沖田さんの?此処が?」
 改まって部屋内部をマジマジと見回す未琴に、瀬那は苦笑を浮かべる。

  「行宏の父親は官僚なんだよ。まあ、それなりに資産があるから豪邸に住んでるんだと思うけど」

  「……それ、私の前で云う……?」

 瀬那の住んでる高級マンション一部屋の家賃分の稼ぎもない貧乏人の目の前で云っちゃう!?嫌味にしか聞こえないんですけど!

 だが、やっぱり特進科の人なんだと内心納得も出来る。特進科は資産あるお金持ちしか通えない科だから。そう思うと、瀬那もそんな家柄の人間なんだと思い知らされた気がして、妙に居心地が悪い。



  「――でも、オレ達を此処に連れてきたのと家は全く無関係とはいえないよ」



 瀬那の云っている意味が分からず、未琴は瀬那に顔を向け首を傾げた。
  「どういうこと……?」
  「行宏の家庭環境がオレ達を此処に連れてきたからだよ。前、行宏に対して“そういうこと”しない方がいいって云ったでしょう?それはこういう事」
 云っている事が全く分からず、左右に首を傾げる未琴の手の甲を突然瀬那が抓ってきた。突如左手の甲に広がる痛みに未琴はソファから飛び跳ねた。

  「いったぁ……!いきなり何すんのよ!?」

  「“それ”だよ」

  「??」

  「行宏の家庭は父親が頂点に立つ亭主関白なんだ。だから大黒柱である父親の云うことは絶対、幼い頃から逆らうなんて真似行宏はしたことないんだよ。それは奥さんや行宏の兄弟も同じ。周りがさっきの未琴みたいに、いきなり抓られて痛かったから反発や怒ったりしたこともない……だから、前に未琴に紅茶を引っ掛けられたり、怒鳴られることの意味が分かっていないんだ。
  ――だから未琴に興味を示し、此処に連れてきた今回の事に繋がるのさ」

  「いや、全然理解出来ないんですけど……」


 怒るとか反発するとかそういう感情が理解出来なくて私に興味を持つって……それと家に連れて来ることの意味が分からない。
 未琴が瀬那の云った説明に理解し難いと思っていると、瀬那はそれを察してか続ける。
  「多分……行宏は未琴みたいに反発したり怒りたいんだと思う。でもそれをどうやってすればいいのか分からないんだ。きっと近くに未琴が居れば何か掴めると思って連れて来たんだと思うよ」
  「なんであんたまで連れてくる必要があるの?」
  「オレにも興味ある感情があるからね。オレに対しては“執着”と“愛情”、未琴には“反発”と“怒り”……どれも行宏にとっては欠落していると思ってる感情だそうだよ」

 執着、愛情、反発、怒り……うーん、普通に生きていれば一度くらいはそういう感情が掘り起こされると思うが、行宏にはそれが今までなかったということなのだろうか。
 だからといって欠落しているというのは違う気がする。行宏が気付いていないだけで、きっと内側に眠っている筈だと、未琴はそう思った。


  (でもどんな環境で育てば怒ったり反発するなんてことが不思議になるの?)


 行宏の家庭が想像出来なくて首を捻っていると、頬を撫でられ瀬那が距離を縮めてきていることに気付いた。
  「!?な、なにして……!」
  「……未琴に出会うまで、オレも欠けてた感情があるよ。なんだと思う?」
 じりじりとにじり寄って来る瀬那に未琴はついにソファの端に追いやられ逃げられなくなった。
  「し、知るわけないでしょう!?というか、あんた自重するって云ったわよね!?」
  「あぁ、そうだったね……あれ、却下していいよね?未琴を目の前にして襲わない程度に抑制してるんだから、それで勘弁してよ」

  何よそれ!?私の意見は何だったの!?無意味じゃんっ!!

 どうして欲しいって訊いてきたから思ったままを答えたのに、その場では分かったと云って自重してくれたけどそんな数日で終わる!?
 結局自分の都合のいいようにしたいだけか!この横暴は!


  「じゃあなんで訊いてきたのよ!無視するくらいなら最初から訊かなきゃいいでしょうが!――」


 すると急に体に重みが掛かる。両肘で体を支える格好になっている未琴の胸に顔を埋め、背中に腕を回して瀬那が抱き付いてきた。見下ろすと瀬那の髪が肌に当たってくすぐったい。
  「……な、何してんのよ……?」
  「…………」
 問い掛けても返答が返ってこない。まさか寝たなんてことは……。



  (――そういえば、10年前にもこんなことがあった様な……)



 ――確か、公園で遊んでいた皆が帰った後、自分とあの男の子の2人で遊んでいた時だ。すべり台で遊んでいて、あの男の子が階段からではなく滑る方から登っていたら……手足を滑らせて転がってすべり台から下りてきた。
 私は下で待っていたけれど、転がって下りてきた男の子とぶつかってその場に倒れてしまった。その時体を起こした体勢が今みたいに両肘で体を支えてて、男の子が何故か雅瀬那みたいに……。



  「前も、こんな事あったよね」



 回想していると、瀬那がそう言葉を発した。未琴はハッとして瀬那の頭部を見下ろす。
  「未琴と初めて会って遊んだ10年前、2人で遊んでた時にオレがすべり台の滑る方から登ってて、滑らせて転がって……下に居た未琴を巻き込んでぶつかっちゃって、今みたいにこうしてオレが未琴に抱き付いてたんだ」
  「(……まさか同じこと考えてたなんて……)」

 同じ事を考えていたなんて思ってもみなかったが、当時の事を知っているのは自分とあの男の子だけ。それを瀬那が知っているということは――やはり10年前のあの男の子が、瀬那?
 瀬那本人もそうだと云っていたが、どうしても直ぐには頷けなくて、善処はすると云ったものの中々出来ないでいたのもまた事実。

 未琴の胸に顔を埋める瀬那の顔が微かに動く。服の上からでも滑る様に動いて抱き付く力を強める瀬那の動きに未琴はビクッと体を震わせる。

  「!?……ちょっと、重いから早くどいてよ!こっちは動けないっていうのに……!」

  「…………温かい」

  「はぁ……?」

  「あの時も思ったんだ。人の温もりってこんなに温かいものなんだなって……それに、柔らかくて良い匂いのするあの子は、やっぱり女の子だ。今でも感触が同じ」
 確かめる様に手が体のラインを撫でる。そしてぎゅっと強く抱き付いてきて更に胸に顔を埋めてくる。
  「ちょっ、こらっ……!!?いい加減にしなさいよ!?これ以上やったら張っ倒す――」
  「――やっぱり変わってないね。こんなに安心する温もりは」


 胸から顔を上げ、未琴と瀬那の視線が交わる。

  「行宏が欲しいのは感情で、未琴じゃないって分かってたけど、こうしてやっと安心出来たよ」

  「『やっと安心出来たよ』……じゃないわよ!さっさとどきなさいよ!人様の家でよくこんなこと出来るわね!」

  「オレと未琴はそういう仲なんだから、別におかしくないよ」

  「だ・れ・がっ!!そういう仲ってなによ!?誰も雅瀬那とそんな仲になった覚えはありませんっ!記憶捏造してんじゃないわよ!」

  「キスした仲なのに、酷くない?」

 未琴は口を噤んで頬を赤らめた。すると力を振り絞って足で器用に瀬那を振り落とし、ソファから即座に離れ肩で息をする。


  「あ、あれは事故よ、事故!大体キスってもんは軽々しくするものでも、何とも思ってない相手にするもんじゃないのよ!からかうなら他あたりなさいよ!!」

  「それは受け付けられないな。オレは未琴以外にキスもそれ以上もしたくない……前も云ったでしょ?処女と童貞を捨て合って受け取り合うって」

  「今直ぐ書き直して訂正しなさいよあんたの頭の中!!何処まで脹らませてんのよ……!!」

 瀬那はうーんと唸り、ニッコリと笑顔を浮かべる。


  「家庭を築いて夫婦になってるところまで、かな。因みに子供は……」

  「今直ぐ締めてやるぅっ!!」


 未琴が突進してくるのを瀬那はひらりと軽やかに避け、暫し部屋の中で追いかけっこが繰り広げられた。高校生にもなって子供みたいに遊んでるなんて、見られたら笑われてしまいそうだ。




 ――未琴に追い掛けられながら、瀬那はこんな事を思っていた。

 未琴と初めて会った時も、抱き付いて温もりを感じた時も、一緒に遊んで同じ時間を過ごした時も、10年後、再び出会って話したりしている時も、こうしてまた彼女の温もりに触れた時も。

 彼女はオレが冗談を云ってからかってるだけだと素直に受け取ってはくれないけれど、それで彼女に対する愛しさが消えることはない。

  (一目惚れで、一生オレの傍にあって隣に居てくれる人が未琴だって、オレはそう出会った時に思ったんだ。温もりを感じた時、包み込まれる様な安心感がオレを包んでくれた。それはさっきも同じ、だから確信したんだよ)


 服の袖を掴もうとした未琴の手をかわし、その手を掴み引き寄せ、お姫様抱っこをして未琴を抱き抱える。「下ろせーっ!!」と暴れるおてんばな彼女に瀬那は愛しむような瞳を向ける。

  (きっと未琴と出会ったのは偶然かもしれないけれど、必然だったんだと――確信したんだ)




  「――Personne importante……Je ne s'epare plus.(――大切な人……もう離さない)」




 初めて“欲しい”って思ったのも未琴なんだ。オレを虜にした責任は取ってもらわないとね。


 瀬那が微笑み掛けると、未琴は顔を真っ赤にして更に暴れようとする。それを担ぐことで軽減し、瀬那は部屋内部を隈なく見て回り、話題を逸らしたことで上手く未琴の機嫌を静めたのだった。



        11章  後編   終わり