神国の欽聖堂を発って一日と半日――北東に位置する、標高一〇,九五二mの松羽伸山(しょううしんざん)を越えた先に荒岩地である荒草原が広がっている。
 昔は人も住んでいたが、荒草原に生息する虎狐の毛皮が高く売れることを知ってから〝毛狩り〟が浸透し、人々は虎狐を無残に殺していくようになった。それが虎狐の怒りを買い、凶暴化させその土地に住んでいた人間は赤子だろうと全て虎狐によって骨一つ残らず滅ぼされた。
 
 それから虎狐が荒草原の頂点に立ち、その土地に人が踏み込めないようにしてきて一五〇年、紅葉達は人が踏み入ることを許されない禁制の土地に踏み込んだ。
 
 
 
 
 
 山を越え、下山して辿り着いた平地は乾いた土地だった。緑がなく、赤土の土地が地平線まで広がる赤い大地――〝血の大地〟とさえ云われている由縁は師長達から教わった。
 
 平地から見上げた空は青くて、綿の様な雲がぽつぽつと空に浮かんでいる。紅葉がただじっと空を眺めていると、足元で歩緒が地面のにおいを嗅ぎ、何を思ったのか突然穴を掘り始める。
 穴掘りを始める歩緒を、泰志と些羽が眺める。
  「……穴掘り始めたぞ。何か埋まってるのか?」
  「違うと思うけど。単に掘ってるだけだよ。掘ってみたくなっただけじゃない?」
 
 
 羅沙度の命により荒草原に送られたのは紅葉、絹、泰志、冶无樹、東鴻、些羽の六名。佳直は隊長の任務で忙しく、真夜は医療部の新入りとして忙しなくしている為呼ばれていない。治癒なら絹一人で十分事足りるとされたのかもしれない。
  「……今回この土地に来たのは、悪天候の理由を調べるという名目だったな。……空はすっきりと晴れているが」
  「それと、毛狩りがまた始まったからと佳直が云っていたわね。それも止めさせないといけないわ」

 無表情で空を仰ぎ見る冶无樹に、その隣で神妙な面持ちで思考する絹に東鴻が問う。
 
  「その毛狩りは、今までされていなかったということか?」

  「ええ。毛狩りがされていたのは一五〇年前までの此処に人が住んでいた時よ。狩猟を生業としていた民族だったようだけれど、偶然虎狐の毛皮を売ったら大金が入った為に、良い稼ぎが出来るとして始められたようね。それからは贅沢な暮らしをし始めて、狩猟もしなくなったと歴史書には記載されていたわ。
  毛皮で大金といっても、歩緒ぐらいの幼い虎狐の毛皮が一番高価で、小判が五千両手に入るって話よ」

  「えぇっ!?そんなにか!??こんな子供の毛皮で!??」

 泰志が驚きの余り大声を上げる。と、紅葉が絹に継いで解説をする。
 
  「大人の虎狐の毛皮は硬くて頑丈なのを活かしてほぼ武装具に使われてたみたい。幼い虎狐の毛皮は柔らかで滑らか、手触りが良いから武装具はもちろん敷物や筆、襟巻にも使われてたらしいよ。蘭が教えてくれた」
  「使われる用途が多い分、価値も高かったってことか……だけど、そんなに子供ばかり狙われたら絶滅しちゃうじゃない」
 些羽の言葉に紅葉の表情が曇り、穴掘りをする歩緒を抱き上げ皆を振り返る。土まみれになった前足の汚れを紅葉が払っていると、歩緒は楽しいのか尻尾を動かしながら声を上げる。それを見て悟ったのか、皆の表情も曇る。
 
 

  「……昔、子供の虎狐は人を警戒しなかったわ。だから余計狙われ易くて捕まえやすかった……でも、それは一五〇年前まで。今の虎狐の遺伝子には"人は残忍で自分達を脅かす敵"だと刻まれているから、警戒を通り越して食べてしまうほど凶暴になってる筈なんだけど……」
 


 そう絹が説明しても、それは歩緒には当て嵌まらない項目だ。 
 人を警戒しても紅葉に対しては警戒するどころかゴロゴロと甘えて懐いてしまっている。紅葉以外には少々警戒しているようだが、仲間ということも分かっているから警戒しつつも気を許してくれている。
 
 
 
  「……永力というのが、関係しているのではないかと思うが」
 
 
 
 冶无樹の発言に皆の視線が一斉に紅葉に注がれる。
 紅葉は砂まみれの歩緒をキレイにしている最中で、歩緒が寝転んでお腹を見せている。無防備なその姿は完全に気を許している証拠だ。
  「……詳しくは分からないが、神国では最高位だと聞いた。帰郷した後の宴会で精霊が騒いでいたのも、永力が関係している――違うか?」
  「そういえばそんな五月蝿い声が幾つかあったような……『親様っ!!』とかって騒いでたあれ、精霊だったのか」

 冶无樹の隣で頷く泰志を見て、些羽が呆れて首を振る。
 
  「基本精霊は肉眼で見る事は出来ないよ。精霊自身の持つ強力な力は精霊使いと契約することにより一層強くなる……まぁ、その精霊を受け入れられる器であればの話だけど。あの月襲って男と契約してるから肉眼で見ることが出来て話も出来て触れられる。契約者がいないと見えも聞こえもしないに決まってんじゃない」
 「常識の範囲内だよ」と泰志を哀れんだ目で見つめる。哀れんだ目には見下した様な視線も加わっていて、はっきりいって馬鹿にしている。
 
  「そんなの知ってる!何も知らないわけじゃないぞ俺は!な、冶无樹」
 ムキになる泰志から話を振られた冶无樹だが、ぼーっとしていたのか不思議そうな顔で泰志を見てきた。
  「話聞いてなかったのか!?」
  「……すまない、聞いていなかった」
  「そのたまに上の空なとこなんとかしろよぉ。俺が馬鹿みたいじゃないか!」
 冶无樹に掴み掛かり揺らす泰志を東鴻が引き離して押さえる。
 
 
 
  「――ほら!じゃれてないで行くわよ!……紅葉、貴女が纏めないといけないでしょ?」
 
 
 
 歩緒を綺麗にし終わった紅葉が絹を振り返り、立ち上がる。紅葉の肩に飛び乗り、歩緒は頭の上に移動し丸まって寝始める。
  「まあ、気長に行こう。まず暫く歩いて、この辺りを観察することから。皆行くよー」
 紅葉の声に泰志達は静かになり、仕方ないと一端その場を見送り歩き出す。
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
 山の斜面に一人の男の姿があり、ニヤリと笑みを浮かべる。
 
 

  「来たか――」

 
 
 乾いた風と共に男の姿が消え、松羽伸山が砂嵐に包まれる。
 
 
 
 
 歩き始めて一刻が経った頃、先頭を歩く紅葉が突然立ち止まり、皆も合わせて立ち止まる。

  「……進めど進めど景色変わることはない、か……。乾燥した空気、二八度の安定した温度……加えてもう少ししたら雨雲がきて大雨が来る……」

 紅葉の言葉に泰志は空を仰ぎ見回す。雨雲らしき黒い雲はないが……。

  「雲はちらほらあるけど、雨雲ほどじゃないぞ?」

  「今は、ね。とにかくあそこの洞窟で雨宿りしよう」
 
 
 

 ――その数分後、紅葉の云う通り空が曇り、辺りが暗くなり始め雨の匂いが漂い出し、空から大粒の滴が落ちてくる。
 
 
 洞窟の入り口から外を眺める絹が成る程と嘆息する。

  「……雨が降ることのないこの土地に雨が降る、それが問題ってことね」
  「雨は一切降らないのか?この土地は」

 東鴻の投げ掛けに「一切ってわけじゃないわ」と首を振り続ける。
 
  「降ったとしても年に一回だわ。北に雪炎島(せつえんとう)っていう年中雪が積もる極寒の大陸があって、その島の周りの気流と今居る蝶凛聖(ちょうりんせい)の周りの気流がぶつかる雨季の時期に雲が発生するの。その雲は風によって荒岩地を逸れて広がる。雨季の時期は二ヶ月。その二月の間に荒岩地が雲に覆われる日は風がない一日だけ」
 
 大粒の雨が乾いた赤い大地を濡らしていく。洞窟内に居ることもあって、大雨の音にかき消されることなく絹の声は洞窟内に響く。
 
  「その一日に一年分の雨が降り大地を潤す……植物も動物もこの乾いた土地で生き延びる為に適応して生きてる。だけど、一日に一年分の雨が降る事が何回も続いたらどうなると思う?」
 絹は外を眺めながら仲間達に問い掛ける。
 
 
  「……水分を多く含んだ大地は地滑りや液状化を起こすだろうな。それに、一気に多量な水分を含みきれず植物は根腐れする」
  「動物は食べ物に困って餓死するね」
 冷静に述べる東鴻と些羽に絹も静かに頷いてみせる。
  「住めなくなれば動物達も移動をし始めるわ。神国が一番恐れてるのは、虎狐が山越えしてこないかってことを懸念してるのよ。そうなれば多くの村や町が潰されるでしょうからね」
  「だったら俺達じゃなくてもっと適任な奴いただろう。七師長とか隊長格の人間いるんだし」
 
 
 
  「それは無理ね」
 
 
 
 泰志の主張をバッサリと切り、絹は冷たい視線で泰志を見つめる。
  「私達が任命されたのはどうしてか分かる?ただ単に戦いが目的なら他の人達がいいでしょうけど、此処には〝虎狐〟が生息してるの。……人に決して懐かない筈の」

 胡坐を掻いて洞窟の外をずっと眺める紅葉の背を絹は目を細めて見つめる。彼女の頭の上には幼い虎狐が丸まっている。絹の云いたい事は皆分かっているらしく、それぞれ個々の反応をする。

  「紅葉の仲間というのもあるから私達に警戒は解いてくれてるみたいだけど、紅葉にだけ懐くのには何か理由があると羅沙度は思ったんでしょうね。だから紅葉になら虎狐に近付け、異常気候を戻せば人に心を許してくれるきっかけを作れると踏んだに違いないわ」
 

 だから他の人を行かせることは出来ないし、最低限の戦力を考えれば紅葉達を行かせれば十分との判断は間違いじゃない。下手に多くしても怪我人が増えるだけで、虎狐を刺激し兼ねない。
 
  「でもさ、最悪な結果想定したら無責任じゃない?経験浅い紅葉を挙げて元敵国の僕達に貴族出、元大紀美の側近……はっきり云って後先どうでもいい奴を派遣したってことになるよね。後に邪魔になりそうなのを消そうって魂胆丸見え」
 嘲笑う些羽に絹は苦笑を浮かべるだけで反論はしない。心の何処かでそう思っていたのだろう。
 
 
 
  「――どんな魂胆だろうがどうでもいいよ、そんなの」
 
 
 
 一切割り込んでこなかった紅葉が会話に入ってきた。立ち上がり、仲間を振り返る。
 
  「任されただろうが邪魔扱いされて放られただろうが、そんなのどうでもいい」
  「どうでもいいって……些羽のも一理あるだろ!?歩緒に懐かれてるってだけで任されたんだぞ!?」
 怒気交じりに反論する泰志に紅葉は面倒くさそうな顔をする。
  「なんだっていいよ理由なんか。虎狐達に会えれば私は良し!異常気象の原因をなんとかなんてついでよついで!」
 
 「それに冒険みたいで楽しいし!!」と嬉しそうに笑う紅葉に皆虚を突かれポカンとする。
 話している間に雨が止み、雲の切れ間から日差しが降り注ぐ。
 
 

  「おっ!いつの間にか雨止んだ。――んじゃ行こう!!」
 
 洞窟を飛び出す紅葉を見送り、仲間達は肩を竦める。
  「……全く、本当紅葉って緊張感無いわね……」
 呆れながらもその表情は笑みを含んでいて、歩き出した絹に皆続く。
  「逆に楽しんでるし」
  「……ふっ。紅葉らしい」
 仕方ないと嘆息する泰志と薄ら笑みを浮かべる冶无樹双方楽し気だ。
 
  「変わった女子がいるものだ……」
  「あいつがそういうなら行くしかないね」

 東鴻も些羽も光降り注ぐ大地に飛び出し紅葉の後を追う。
 
 
 洞窟を出た先には大きな虹が赤い大地を跨いでいた。行く先が分からなくても勇ましい小さな背中に自然と笑みが零れる。
 
 
        *  *  *  *  *  * 
 
 何百キロと離れた先の荒草原、唯一緑生い茂る山が聳え立つ森の中、苔を纏う岩石の上で荒い息遣いで歯を剥き出す肉食獣が雄叫びを上げると、茂みから次々と紅い目がギラギラと光り何千頭もの子分達が姿を見せる。
 
 

  『――コロセェ……人間ナド、コロセェ……』

 
 
 一頭が遠吠えを上げると、また一頭、また一頭と遠吠えを上げ甲高い遠吠えが森に木霊する。
 
 
 
  『我ラヲ脅カス鬼ハ、噛ミ殺シテクレル……!』
 
 
 額にバツ印の傷を持つ一際大きな白い巨体の紅い眼が大きく見開かれる。
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
  ――……今、ナニカ……。
 
 
 
 紅葉の頭の上で眠っていた歩緒が顔を起こす。耳がピクピクと動き、何かを探知した。
  「?歩緒、どうしたの?」
 主人の声に歩緒は頭から下り肩の上に場所を変え、急な不安から紅葉の頬に擦り寄る。
  「……大丈夫。心配しなくていいから」
 優しく撫でてくれる主人の温もりと言葉に、不安に駆られながらも歩緒は少し安心した。
 
 
 
 そしてまた頭の上に戻り、再び眠りにつく。
 
 
 
        十章③   終わり