与世地聖に帰郷してから一月が経った。

 あの襲撃以降、紅葉は七師長や総隊長達から教養を受ける事になり、朝から晩まで修行や勉学に追われていた。一月経った今でも追われている状況に変わりはなく、落ち着くまでにはまだまだ掛かりそうだ。
 
 
 
  「――……うぅ~……あ、頭が破裂しそう……」



 自分の部屋に入るや否や倒れ込み、魂が抜けかけみたいに死にそうな顔で紅葉が呟いた。主人の匂いを嗅ぎつけたのか、歩緒が隣の障子の隙間から姿をみせ、駆け寄って来る。
  「あー歩緒……ただいま~……」
  ――大丈夫……?
 頬に擦り寄ってきてペロペロと頬を舐めてくる。
 
 
 
 この一月――紅葉はずっと師長達や総隊長達と一対一で修業や勉学を教わっていて、日ごとの入れ替わりで九日で一周となる。初めから容赦のない師長達や総隊長達に奮闘しながらようやく慣れてきたところだが、一人には苦戦中だ。
 
  「あ、相変わらず海友の云うことは呪文にしか聞こえない……」

 海友は攻撃系の符術を得意とする闇の能力者だ。歴史や符術の基礎を教えてくれているのだが、難しい単語が飛び交っていて目の前がクラクラする。絹同様博識なのは理解出来たが、説明が難し過ぎて常に難解だ。今日は海友との日だったから、思い出すだけで眩暈がしそうだ。
  「――あ、そうだ……歩緒、ご飯は?」
  ――サッキ鼠食ベタ。
  「あぁ、本格的な前の下ごしらえみたいな?」
  ――ウン!
 
 大体部屋に帰ってくる時間帯は常に同じなので、紅葉の帰って来る時間帯に食堂へ赴いて食事を一緒に摂り、お風呂に入って床に入るというのが日常なのだ。
 うつ伏せに倒れていた紅葉は立ち上がり、浴衣を手にし部屋を出て行こうとする紅葉の後を歩緒がトコトコと付いてきて、部屋を出て戸を閉めると紅葉の肩に跳び移り頭の上に移動しへばりつく。もう紅葉の頭の上が歩緒の定位置になってしまっている。

  「さて……お風呂入ったら食堂でご飯にしようか」
  ――ウン♪
 
 
 
 
 
                   十章     ~  離れたくない理由  ~
 
 
 
 
 
 宿城のお風呂は何時でも開いていて、好きな時にお風呂に入ることが出来る。地下には室内大浴場、一階に上がれば露天風呂があり、四季折々の風景が楽しめる。大浴場も露天風呂も男女別に分かれているが、露天風呂には混浴風呂もある。利用している人が居るのかは分からないが、幾らかは居るのだろう。

 紅葉はいつも露天風呂に入り、それから食堂に足を運び、職人が用意してくれているご飯を食べている。朝から晩までの修行漬けが終わるまではこの生活が続きそうだ。
 
 
  「…………」
 

 今日紅葉に用意されていたのは日替わり定食、歩緒には豚一頭。食べやすいように皮を剥いで部位別にしてくれているが、頭部や内臓、脚なども捨てずにおいてくれている。
 職人さん達からしたら、肉に関しては捨てる部位が減って助かっているようだが、このまだ小さな歩緒が豚一頭を食べれるとは普通思えない。だが……。

   ムシャムシャ、バリッボリッ

 ……骨までも食べてしまうのだからなんともいえない。
 
  (こんな可愛らしいのに食べっぷりは勇ましいよな……)

 虎狐は肉食獣だから生肉を食すらしい。赤子の身体の何処に豚一頭をしまう胃袋があるのか……謎だ。
 綺麗に食べ終え、げっぷをしてから口周りや手を猫みたいに綺麗に掃除する歩緒を眺めながら、紅葉は歩緒に話し掛ける。
  「いつもキレイに食べるね、歩緒は。美味しかった?」
  ――ウン、美味シカッタ!用意シテモラッテルカラ、キレイニ食ベナイト失礼ダモン。
 最後に伸びをし、そのままコテッと寝転がる。そんな光景に微笑んでいると、食堂に近付いてくる人の気配に後ろを振り返ると、木理羅が食堂に入ってきてこっちに歩み寄ってくるところだった。



  「こんな時間に毎度毎度ご苦労様ね」
 
 
 
 半ば呆れ気味にそう云う木理羅は寝転がっている歩緒に目を向ける。お腹が満たされうたた寝している歩緒に表情が和らぐ。
  「……本当、こんな小さいのによく自分よりも大きな動物を骨ごと食せるわね。そんな小ささの何処にそんな胃袋があるのか知りたいくらいだわ」
  「あははっ。木理羅もそう思う?さっき私も同じこと考えてた」
 紅葉の隣に腰を落ち着け、一緒になってうたた寝る歩緒を眺める。
 
 
  「一月経ったけど、どうなの?少しは此処に慣れたの?」
  「うん、まあね。師長や総隊長達から色々教えて貰って鍛えられて、修行・勉学漬けの一月だから慣れてるかどうかは分からないけど」
  「絹さん達には会ってるの?」
  「いいや。会えてない。佳直にはちょくちょく会うけど、佳直以外には全然」
 胡坐を掻いて両手を後ろに投げ出し、紅葉は天井を仰ぐ。

 朝から晩までの間の自由な時間なんて今みたいな夜遅くぐらいだ。たまにお風呂に向かう途中に佳直とすれ違う以外師長や総隊長達としか顔を合わせていない。与世地聖に帰郷した仲間達が今どう過ごしているのか分からない。
 同じ欽聖堂や宿城にいても、時間が噛み合わないのだから仕方がない。それに今は教えて貰う立場、好きに出来る時間などないと思っていた方が気が楽だ。

 隣から溜息が聞こえ、木理羅の横顔を見やると浮かない顔をしていた。
  「…………」
  「?木理羅、どうしたの?」
  「別に、相変わらず能天気だなーって思ってただけよ。……皆紅葉の事気にしてるみたいよ。此処での生活にはもう慣れたみたいだし、こっそりあんたの修行覘いてるみたいよ」
  「全然気付かなかった……」
 
 そう云うと、木理羅は大袈裟な溜息を付いて首を左右に振る。
 
  「全く……絹さんに心配掛けるなんてどういうつもりなの?ちゃんと時間作って会うくらいしなさいよね」

  「そういう云い方する?暇なんてないのに時間すら作れないよ。――さて、洗い物済ませて寝るとするか。明日も修行だし」

 食器をお盆に重ね、厨房に入ろうとしたが、職人さんが出てきて紅葉が持つ食器を持って行ってしまう。
  「あれ!?職人さん居たの!?」
  「貴女がこの時間帯に食堂に来る事は分かってますから。来てくれた人に後片付けさせる真似はさせませんよ」
 職人がニッコリと笑って暖簾の向こうに消えて行ってしまう。目を瞬かせその場に立ち尽くす紅葉の頭の上に何か乗せられ、腕を突かれる。

  「ほら、歩緒をこんなところでうたた寝させずにちゃんと部屋に戻って寝かせなさいよ」
  「え?ああ、うん……」

 スタスタと食堂を出て行く木理羅の後を付いて紅葉も食堂を後にした


        *  *  *  *  *  *

 食堂を後にし、提灯を手に宿城の八階、自身の部屋を目指す紅葉の後ろを何故か木理羅も付いてくる。欽聖堂と宿城に向かう分かれ回廊で後ろを付いてくる辺りからおかしいとは思っていたが。確か守護士は欽聖堂内に部屋が設けられているんじゃなかっただろうか?

 不可解な木理羅の行動に紅葉はゆっくりと足を止め、木理羅を振り返る。

  「……なんで付いてくるの?木理羅の部屋は宿城じゃなくて欽聖堂なんじゃ……」



  「――あんたに訊きたい事があって部屋まで付いて行こうとしてたのよ」
 
 

 訊きたい事?――紅葉が首を傾げていると、木理羅が静かに息を付く。
  「……まあ、部屋まで行かなくてもここで済むことでもあるんだけどね。聞かれて不味い話でもないし」
 一体何を訊こうというのだろう。訊ねようとする前に木理羅の方が数秒早く紅葉に問うてきた。

  「……貴女、歩緒をどうするつもりなの?」

  「どうって……」

 唐突に問われ、紅葉は頭上の歩緒に目を向ける。うたた寝が本格的な熟睡に移行したらしく、スヤスヤと眠っている。木理羅を見やると、紅葉からの言葉を待っているらしく真剣な面差しでじっと目を見つめている。
 暫し思考し、ゆっくりと紅葉は口を開く。
  「……渦転移に巻き込まれて人間界に来たって云ってたし、私達が与世地聖に戻るから一緒に連れて行って欲しいって云ったからそうしただけだけど……」
  「親元に返す気があるの?」
  「そりゃあ、まだこんな小さいし、親元で育てられる方が歩緒の為だと思ってる。今の状況じゃ歩緒を親元に返す時間が取れないけど……」


 人嫌いで攻撃的、鬼の使いとされる最悪の獣といわれる肉食獣の虎狐。それが本当なら、いくら子供とはいえ紅葉にここまで懐くことは無い筈だ。なのにべったりとくっついて、撫でたら嬉しそうに鳴き、無防備にお腹まで見せる。それらが本当に人嫌いな動物が見せる一面なのだろうかと疑いたくなる。

  「……此処で一月過ごしてきたけど、虎狐が皆に怖がられてる動物だっていうのは分かったよ。絹も最初は連れて行くなんて嫌がってたし」
  「当り前よ。食い殺されてもおかしくない相手を手元に置いておくなんて馬鹿のすることだわ。歩緒が貴女に懐いてるから、連れて帰郷した仲間に怪我がなく済んだだけ……本来人と一緒に居たらいけない動物なのよ。虎狐は。
  今は大人しいけれど、それが何時豹変するか分からないわ。直ぐにでも返す気があるなら手を打ってあげなくもないけど?」

 木理羅の言葉に紅葉は距離を詰める。

  「本当!?歩緒を荒草原に返す手があるの!?」
  「ええ。……というか、近いってば!そんな詰め寄らなくてもいいでしょ!?」

 頬を押し返され、鼻と鼻が触れそうな程木理羅に近付いていると気付かなかった。押し離され、紅葉は口を尖らせて愚痴る。
  「別に近くったって問題ないのになんで押し返すのさー。結構強くて痛かったし」
  「ふん!これくらいで怪我するあんたじゃないでしょ!――それより、今の反応からすると歩緒を親元に返す気ではいるようね」
  「勿論!……歩緒がどう思ってるかは知らないけどね」

 紅葉の髪の毛に擦り付く歩緒は気持ち良さそうに眠っている。時折尻尾がふさふさと揺れ、耳が動く。そんな歩緒を見つめる木理羅も哀しげな表情を浮かべるがそれもほんの一瞬。次の瞬間には真顔で紅葉の顔を真っ直ぐと見つめてくる。

  「……分かった。紅葉の意思を尊重して手は打っておくわ。何かあれば直ぐに伝達する」

  「分かった。ありがとう、木理羅」

  「別に、紅葉の為じゃなくてその子の為よ。……おやすみ」

 踵を返し去って行く木理羅に小さく手を振り、見えなくなるまで見送った。そして木理羅の背が見えなくなると、嘆息してしばらくその場に立ち尽くした。


  「……これでいいんだよね?歩緒。与世地聖に戻るまでの間だけだし、もう直ぐ親元に帰れるよ……?」


 そう頭上で眠る歩緒に声を掛けても、返って来るのは寝息だけだった。
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
 次の日の朝、急遽修業が無くなり緊急召集で紅葉は天集間に呼ばれた。歩緒を頭上に天集間を訪れると絹、泰志、冶无樹、東鴻、些羽の帰郷時の仲間達の顔ぶれがあった。
  「――紅葉!久しぶり……元気に修業してた?」
 いち早く絹が紅葉に会えた事を嬉しく思ったのか声を上げる。紅葉はにっと口を広げて笑い、親指を付き立てる。
 
  「うん、元気にしてたよ。絹も変わりないみたいだね」
  「ええ。……遠目に修行を頑張ってるのは見たけれど、あんまり無理しないでよ?」
 そこまで無理はしていないが……相変わらずの心配性の絹を見て、変わりないことに安心しつい頬が緩む。これで自分の子供に対しては厳しいのだからそれもまたおかしなことだ。
 
 
 
  「――久しぶりの顔合わせで嬉しいとは思いますが、これで全員揃いましたね」
 
 
 
 羅沙度の声が割り入ってきて再会を一端割く。紅葉が加わり、皆横一列に並び羅沙度と木理羅に向き合う。皆々の顔を見回し、頷く羅沙度を一瞥し木理羅が口を開く。
  「今日皆さんに召集を掛けたのはあるお願いをしたいからです。近頃、荒草原の気候が不安定になってきています」
 一瞬歩緒に目を向けるも直ぐに逸らして続ける。
  「……一番に考えられるのは荒草原に生息する虎狐達によるもの。ですがそれだけで不安定になるとは考えにくい……そこで、貴女達に赴いて調べて貰いたいんです」
  「部隊があるんだからそいつらに任せればいいじゃない」

 些羽の言葉に羅沙度がにっこりと笑顔を浮かべる。
 
  「ええ、貴方の仰るとおりです。――ですがその必要はありません。一つの部隊を派遣するより少人数の方が動き易い……それに、荒草原に大人数で行けば虎狐を含めた獰猛な動物達の餌食になるだけです。無用な血が流れるのを防ぐ為に取った措置です」
  「……だからといって私達を選ばれた訳は?」
 東鴻はそう云うと紅葉に視線を向ける。東鴻の視線に気付いた紅葉は目を瞬かせ、頭にへばりついている歩緒は小首を傾げる。
 
 
 目を細めて微笑を浮かべる羅沙度は姿勢を正し、口を開く。
  「東鴻殿。それは愚問というものです。今この欽聖堂で荒草原に踏み込めるのは恐らく……紅葉さんだけでしょう」
  『!?』
 皆驚くと同時に紅葉を見やる。当の本人も何がなんだか理解していないようだ。
  「とはいえ、虎狐である歩緒に懐かれているからというだけの理由です。人に決して懐かない筈の虎狐が懐くのには何か理由がある――なら彼女は荒草原に立ち入っても大丈夫なのではと思ったのです。けれど紅葉さん一人で行かせるわけにはいかないので、お仲間である貴女方を指名したということです。納得して頂けましたか?」
 紅葉達は何も反論することなく納得せざるおえなかった。ただ一人――紅葉を除いて。
 
 
  「……行って下さいますよね?紅葉さん」


 話を振られた紅葉は直ぐに返答出来ず、顔を伏せる。歩緒が心配げな鳴き声を上げる。
 
 
  「…………」
 黙って何も云わない紅葉を見つめる木理羅は昨日の回廊でのやり取りを思い出していた。
 

   ――本当!?歩緒を荒草原に返す手があるの!?

 
 確かに紅葉は私に詰め寄ってそう云った。与世地聖に戻る間だけ一緒にいる……それだけのことだ。それに歩緒からも『連れ帰ってほしい』と云われただけなのだから何時までも一緒に居るわけにはいかない。



    ――……此処で一月過ごしてきたけど、虎狐が皆に怖がられてる動物だっていうのは分かったよ。絹も最初は連れて行くなんて嫌がってたし。
 

 
 与世地聖で虎狐が人間からどう思われているか……それがこの一月でよく分かった筈だ。どうして人々が怖がるのか、荒草原に行き虎狐達と会えばそれが良く分かる筈だ。元は人が招いた事だとしても、人と交わるべきではない動物なのだ。人と一緒に居てはいけないと自分の目で見るべきだ。だから私は"手がある"と紅葉に云ったのだ。
  (貴女が親元に返すべきだと強く思うのなら、断ることはないと思うけど……)
 相手を試すような真似をしてしまうのが悪い癖だと絹から云われたことがあるが、試して本当の気持ちを探るしかその人を見極める手がないのだ。
  (大切なものが離れて行く際、貴女がどういう行動をとるのか、見させてもらうわ。それが例え動物であれ人であれ、同じことよ)
 
 
 
  「――分かった。そのお願いとやら請け負うよ」
 
  『!?』
 
 
 
 そう答えると分かっていたのか、羅沙度は薄ら笑みを浮かべる。
  「そう云ってくれると思っていました。では二日後の明朝、荒草原に発って下さい」
  「分かった」
  「紅葉……」
 
 紅葉は木理羅に視線を向ける。木理羅も紅葉を見つめていたようで視線が重なる。
 
 
  (あんたの云った言葉が本気かどうか、見させてもらうわよ)
 
 
 紅葉は満面の笑みを浮かべ、こちらを真っ直ぐ見つめてくる。――曇りない真っ直ぐな視線は決して揺らぎがない。
 
 その視線に近付きつつある期限が来た時、紅葉がどう行動するのか――これはその時も同じであろうという基準にするだ。
 
 
 
        十章①   終わり