形振り構わずに茜が辿り着いた先は日本庭園をイメージして造られた様な公園だった。親子連れで遊具・芝生を駆け回って遊んでいたり、シートを広げお弁当を食べている人が居たり、愛犬と遊ぶ飼い主、ランニングをしている人など様々な時間を過ごす人々が今日も行き来している。
そんな穏やかな時間の流れと違い、ただならぬ様子で公園を駆けていく茜を人々は振り返る。涙を伝わせながら人気のない森林散歩道にやってきた茜は茂みに隠れ、その場にペタンと座り込む。
「――はぁっ……はぁっ……っぅ、うぅ……うっ……!」
まだ耳元で声がする。あんなに振り切って逃げて来たのにまだ……。茜は頭を振り必死に払おうとする。だが一向に消えなくて、永遠と映像がフラッシュバックする。
(いや!いや、いやっ!いやだ……!)
再び過呼吸になりかけ呼吸が苦しくなる。助けて……誰か、誰か――。
* * * * * *
それから数分と経たずに園夫が公園に辿り着いた。茜の行きそうな場所を探しながら、駆ける足を止めることなく人気のない森林散歩道にへと迷いなく入る。そしてある茂みの前で足をゆっくりと止め、呼吸を落ち着かせながカサカサと微かに音のする茂みに近付いて行く。
隠れきれていない頭が小刻みに震えていて、淡いピンクの上着が見える。
「…………茜お嬢、こんなとこに居ましたか……」
驚かせてはいけないと少し距離を空けて立ち止まりその場にしゃがむ。
園夫の声に反応を示し、ゆっくりとその人物――茜が顔を上げる。涙に濡れた顔は痛いけで、黒髪が涙で頬に張り付いていた。園夫の姿を見て何かが込み上げてきたのか、強く唇を噛み締め涙の量が増す。
「……大丈夫です。もう怖くないですよ、茜お嬢……」
そっと園夫が傍に近付くと、茜は園夫に抱き付き背中に手を回しギュッと力一杯服を掴み、胸に顔を埋めて泣きじゃくり始める。園夫はそっと茜を抱き締め、ゆっくり、優しく茜の頭を撫でる。
「1人ではありませんから……ね?」
茜が泣き止むまで園夫はずっと抱き締め、あやすように背中を摩る。
* * * * * *
その頃、鮎川は人混みを縫って藤堂達に近付き声を掛け呼び止めていた。女子大生と思しき女性はきょとんとしていて、連れの男性2人は怪訝そうにこちらを見つめていて警戒している。それもそうだ、急に呼び止めたんだからそんな反応されても仕方ない。
「いきなり呼び止めて悪いな。少し話を聞かせて貰いたいだけだ」
そう言いながら胸ポケットからスッと警察証を取り出し藤堂達に見せる。
「警察の方……ですか?」
「神奈川県警察本部の鮎川だ。……さっきまで園夫と夏目嬢ちゃんが一緒に居たみたいだが、何を話していたのかと思ってな」
1人1人の顔と身成りを見て、和服の青年ともう1人の男性が特に気になる。怪しい奴等じゃないにしても、何だって園夫達と一緒に居たんだ……?いや、夏目嬢ちゃんが泣いてた理由を知る方が先か。
「……此処に居るってことは、まさかさっきの騒ぎに貴方達も?」
「ああ、まあな」
若いながらも強面な顔付きの男性が答え、鮎川はじっと男性の顔を見る。若いながら強面な面して……よっぽど苦労でもしてるんだろうな。自然と男性に『貴方は刑事さんか?』と呟き掛けていて、男性は驚きながらもスラックスのポケットから警察証を取り出し見せる。
「警視庁の北上(きたがみ)だ。この鬱陶しい髪の奴と嬢ちゃんは協力者ってとこだな。……まあ、今回はたまたま巻き込まれちまったんだが」
男性――北上の水向けに女子大生の女性は川岸優花(かわぎし ゆうか)と頭を下げて名乗るが、和服の青年は藤堂とだけ口にする。
(……余り表には知られたくないってやつだろうな)
名前が知りたければ園夫に聞けばいいだけのこと――それは置いておいて、暫し思考した後、鮎川は顎に手を当てて目を眇めた。内心沸々と湧き上がるものを押さえながら徐々に北上との距離を縮めて近付いて行く。
「……警視庁ってことは、夏目家のことは知っているよな?勿論それなりに深いところまで」
「……まぁ、それなりにな」
鮎川の様子が変わった事に気付いた北上は解きかけた警戒を持ち直し鮎川の様子を窺う。
自分でも今どういう顔をしているのか予想が付く。今猛烈に目の前の北上に何故か腹が立って仕方がない。
「県警ながら警視庁の刑事に対しての問い質し、少し許してもらおうか」
北上の両肩に手を置き、威圧感たっぷりに北上の目を真っ直ぐ、射るように眼を飛ばす。
「――何かしたのか?夏目嬢ちゃんに」
鮎川の口から零れた言葉に北上は瞬きを見せる。その反応に少しピクッと鮎川の片眉が跳ね上がる。
「遠目から見ててもよーく解った。夏目嬢ちゃんは泣いていたんだ……何かない限り〝泣く〟なんてありえない。言え、何があった?」
次第に問い質しに熱が入り、鮎川の顔付きも変わり北上の両肩に置かれた手にも力が入っていく。
「夏目嬢ちゃんに何かあって、何も起こらず済むとは思ってないよな?周りもほっとかないだろうが一番に誰の怒り買うことになるか見当付いててやったのなら性質が悪いぞ!警視庁なら特に解ってると思ってたが……まさか軽くみてないだろうな……!?」
夏目嬢ちゃんが誘拐されたあの時、組織内がどれだけ騒ぎになったか……。捕まった犯人達を殺してしまいたいと血の気立った夏目家を収束したのは頭首である夏目正人だ。あの時一番犯人を殺してしまいたいと思ったのはきっと彼だ。
――……そら俺やって組員みたいに感情のまま動けたらええわ。せやけどな、鮎川さん。俺は頭首で経営者で多くの生活を支える立場でもある……そうするわけにはいかへんねや……!
(あの時みたいな顔をまた夏目正人にさせることになる……それに、一番傷付くのは夏目嬢ちゃんで……)
もう二度とあんな顔さえてたまるか!守る立場の俺達が〝また〟なんて事続けざまにさせるわけにはいかねんだよ!
「場合によっては俺が許さんっ!!」
「あ、あの!落ち着いて下さい!!説明なら、私がしますので……!!」
止めようと傍に駆け寄ってきた優花の言葉にハッとして鮎川は我に返る。一番に北上の歪んだ顔が目に飛び込んできて肩を掴む手を放し離れる。俺としたことが……半ば本気で怒鳴りかけてしまった。
「……悪い、つい熱が入っちまった」
少し場の雰囲気を変えようと鮎川はおどけて見せる。
「いや、何かあったとなると夏目正人本人が出兼ねないからな。痛いなんてもんじゃない、夏目嬢ちゃんでも威力十分だってのに…………入院沙汰で済めばいいが、命がいくらあったって足りないぞ本当……」
先程の感情を抜きにしても思い出しただけで体が身震いする……。
鮎川の様子に納得したのか、『なるほどな……そりゃおっかねぇ』と小さく笑みを浮かべながら肩を竦める北上や再び懐かし気に穏やかな表情を浮かべる藤堂、話を掴めず首を傾げる優花達の反応に鮎川は気付いていなかった。先程の取り乱しを何でもなかったかのように振舞うので精一杯だったからだ。
脳裏に甦った茜や正人、春子や春樹に清正――夏目家本家の苦痛な表情を思い出すだけで苦い気持ちになっていて、そんな余裕がなかった。
* * * * * *
優花から詳しい詳細を聞かされ、一先ず状況を理解した鮎川の口からなんとも言えない溜息が零れ藤堂を見据える。
「……兄さんが何を確かめようとしたのかは問わないが、これだけは言わせてもらいたい」
表情一つ変えない藤堂をジッと見つめ、一間空けて口を開く。
「…………傷を広げることだけはするな。前を向きだした彼女の足を止めないでくれ」
「傷、ですか……?」
恐る恐る優花が訊ねてきて、鮎川は表情を曇らせ語り始める。
「……傷のきっかけは俺の口からは言えないが、夏目嬢ちゃんは今の状態でも大分マシに……昔みたいに戻りつつある兆しがみえるんだ。夏目家の誰もが願ってた〝笑顔〟が数年掛けてちょっとずつ戻ってきて、当時を知る身としてもそれはすごく嬉しいことさ。かなり辛い決断をしたと思うが、それでも向き合おうと決めた夏目嬢ちゃんは強い子だ……芯のある強い子だよ」
夏目家を訪れたある日、茜に花をプレゼントしたことがあった。その時は外出出来る様になった頃で、とはいっても家族や気を許せる人以外とは口を聞かず話掛けても口を聞かずな時。小さな花束を手渡した時、彼女は幼さ残る顔で俺の顔を見上げ、躊躇いながらも受け取ってくれた。
――その時みせてくれた笑顔は今でも覚えてる。滅多に笑わなかったから余計に印象深く。
一瞬表情を緩めたかと思うと直ぐに険しくなる。
「とはいえ、それと同時に小さいことでも敏感になって、何を拍子に壊れてもおかしくない状態でもある。……夏目家にとって彼女の存在は支えだ。もしまた彼女が壊れでもしたら何が起こるか――」
彼女にも夏目家の皆にも笑っていて欲しい――それが俺の正直な気持ちだ。夏目家の奴等を眺めていると心が綻ぶ。それが戻りつつある今を壊したくはない。
鮎川は苦笑を浮かべ藤堂達を見つめる。
「――……しんみりさせて悪かったな。要は、夏目家にとって夏目嬢ちゃんは大切にされているってことだけを頭の隅にでも入れといてくれたらそれでいい。……更生したあいつにとっても宝みたいなもんだからなぁ」
ぼそっと呟いたその言葉は藤堂達には聞こえず、『何でもない。ただの独り事だ』と笑って流す。
そして北上に歩み寄り肩にポンッと手を置きニッと笑って見せる。
「引き止めて悪かったな。貴方達も何かの捜査中なんだろ?俺はそろそろ現場に――ああそうだ、北上刑事」
去ろうとするが何か思い出して北上に再び目を向ける。
「寺島警視長と米沢警視正に宜しく言っといてくれ。じゃ、失礼する」
「鮎川さーん!」
部下の松園の声に「今戻る!」と返し、踵を返しながら藤堂達に片手を上げて挨拶をすると東和銀行本店にへと戻って行く。人波に紛れていく鮎川の背を藤堂達は不思議そうに見つめていた。
そんな事知らず、現場に戻る鮎川の表情は何処か安心したように嬉しげで、戻る足取りも軽快だった。
凍てつく氷悪⑦ 終わり