――次の日、学校に向かう足取りは重くて……。
 
 
 というか――。
 
 
 
 
 
 
  「――おはよう。未琴」
 
  「……お、おはようございます……」
 
 
 普通科棟に入って即刻こいつに会うとかなんの嫌がらせなのか……。
 
 
 靴を履きかえてから私が動き出すと、その後ろを何故か付いてくる。ていうか、あんた特進科の人間でしょうがっ!普通科に何の用があんのよ!!
 
  「なんで後付いてくるのよ。特進科の教室はあっちの棟なんですけど」
 
  「顔見たいから来たんだよ。別にいいでしょ」
 
  「いいわけないでしょ!?朝からあんたと一緒にいて、後になって女子にピーチク言われるのはこっちなんだからねっ!!」
 
 瀬那が未琴と付き合っている、未琴が彼女だと言うものだから、瀬那目当ての女子達が未琴にいちゃもんを付けて絡んでくるのだ。なんの弱みを握っているんだとか脅してるんじゃないかとか、ありもしない事を言いがかりにされて迷惑しているのはこっちだ。
 大体弱みを握られてるのはこっちの方で。
 
 
 何時もの噛み付く姿勢でいると、瀬那はふっと表情を崩す。
  「……落ち込んではないみたいだね。安心したよ」
 柔らかな微笑にドキッとしたが、未琴はプイッと顔を逸らして廊下を歩いて行く。
 
  「落ち込んでなんていられないわよ!……それより、さ。あんた昨日の事……」
 
 
 家庭内事情を他人の瀬那に知られてしまい、それを広められては困るから口止めしようとする前に瀬那が口を開く。
 
  「家庭内事情でしょ?面白おかしく回りに口外なんてしないし、調べるつもりもない。だけど、手を貸すつもりではいる」
 
  「手を貸す?」
 
  「また来るって言ったんでしょ?流石に同じように追い返せるとは思えないからオレが仲裁して助けようってことだよ」
 
 話を聞いていたとはいえ、好き好んで首を突っ込もうなんて誰が思うものだろうか。それもかなりややこしい問題に、だ。面白がってる風でもふざけてる素振りでもない。瀬那はなんとかしようという好意で言ってくれているのだと分かるが、抵抗がある。
  「あんたには関係ないことでしょ。好意は受け取っとくけど、これは家族の問題なのよ。私達でなんとかするのが筋ってもんでしょ?だから……」
 急に目の前が薄暗くなり、壁際に追いやられる。顔の横に手を突かれ、逃げられなくなる。
 
 
  「……な、なによ」
  「仮にこういう場面に遭遇しても、なんとか出来るの?」
 仮にもって……相手は父親なのに何故そんなことを言うのか未琴には理解出来なかった。意味が分かっていない未琴の心情を悟ってか、瀬那は説明を始める。
  「父親だけど、何を仕出かすかは分からないでしょ。今更娘の顔を見に来ましたって虫のいい話はあり得ない。必ず裏がある」
 
 瀬那の言う通りだと思う。あっさり家族を捨てていった人が8年経って目の前に「元気にしてたか?」なんて言うのもおかしい。
 
 未琴は唇を噛み締め、俯く。
 
 
 
  「……あっさり捨てるような奴に今更何の期待持つっていうの?あんなっ……!!」
 
 小さいながらも、思い出せば辛いとか悲しいとかって感情よりも喪失感の方が大きかったんだと今分かる。
 変わる前の父さんが大好きだった。それが途端変わってあっさりと消え去った。父さんにとって私達家族はその程度でしかなかったんだと言い聞かせて忘れようとした。
 
 ぽっかりと空いた穴を塞ごうとして――。
 
 
  「何を知ってるっていうの?何も知らないくせに口出ししないでよっ!!」
 
 瀬那を突き飛ばし、未琴は廊下を駆け抜け、階段を駆け上る。
 
 
 気持ちを落ち着かせるために人気のない渡り廊下で未琴は物思いに耽っていた。こんなモヤモヤした状態で教室には入れなかった。当り散らしそうで、クラスメイトの楽しげに話す会話すらも気に障る。
 前髪をクシャッと軽く掴む未琴の眉間にシワが刻まれる。
 
  「…………っ、むしゃくしゃする……」
 
 
 何でこんなにイライラするんだろう。何に対して自分はイライラしているんだろう。思い出したくもない過去を思い出してしまったからか?無関係な雅瀬那が首を突っ込もうとしたからか?
 
 
 ――違う。
 
 
  「あんな奴、父親だなんて思いたくない……!」
 
 
 幼い頃の思い出が、この時酷く憎かった。
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
 それからの毎日、イライラしながら日々を過ごしていた。友達には悟られように取り繕って振る舞っていたけれど、心は疲れていた。
 
 
 あれから父さんは毎日私のバイト先にやってきていた。お店の中に入ろうとはしないものの、遠目に店の中を覗いている。バイトが終わって家に帰ろうとする私の後を付いてきては撒いて家に帰る毎日。母さんや翼に接触する素振りは見せず、私を標的にしている。
 
 
 
 今日もまた後を付いて来られながら帰ると思うと気が滅入る。店主やおばさんに挨拶して裏口から出て行くと、弟の翼が壁に凭れて居た。未琴の姿を認めると、壁から離れて歩み寄ってくる。
  「なにしてるの?なんで翼がここに……??」
  「あいつならいない。このままが続くと何仕出かすか分からないから、近い内に話の場を設けることにしたから」
  「話の場って……」
 
 言い終えると歩き出す翼の後を未琴は小走りに追い掛ける。隣に並ぶと、翼が前を見据えて口を開く。
 
 
  「家じゃない。おばさん達に事情話したら「部屋貸してくれる」って言うから」
 
  「えっ!?バイト先で話すの!?」
 
  「姉貴のバイト先にしか姿見せてないだろ?だったらそうする以外ない」
 
 そうかもしれないけど……おばさん達に聞かれるし、言い合いにでもなったらお客さん達にまで聞こえるかもしれないし……。
 
 そんな心配をしていたら、翼が代弁してくれる。
  「おばさん達やお客さんに聞こえたらって心配してるだろうけど、しなくていい。部屋っていってもおばさん達の家の和室。奥だからお店まで聞こえることはないって言ってたから。それに、おばさんやおじさんは店の切り盛りで話聞くどころじゃないってさ」
 
 ポンッと頭に手が置かれ、2回程軽く叩かれる。
 
  「……母さんも来るから。この際これできっぱり決着つけた方が後腐れなくていい」
 
 
 翼が上手く動いていると思うと、自分がどれだけ目の前のことだけに気を取られていたのか思い知らされた気がした。1人でなんとかしようなんて無理だと分かってても、それでもなんとかしようと頑張ってる自分がいて……結局空回りして助けられてしまう。
 
  (頼りない姉だな……)
 
 こればかりは、翼の存在が未琴の心を救ってくれた。
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
 翼が言っていた話し合いの場は、4日後に設けられた。
 
 
 その日も父さんは私のバイト先に姿を見せて、翼がとっ捕まえてお店の奥、おばさん達の家の和室に連れてきた。翼が父さんを放り、母さんの右隣に腰を下ろす。机を挟んで反対側に父さんが座り、8年ぶりに家族が顔を合わせたことになる。最悪としか言いようのないきっかけだが。
 
  「…………武(たける)、今更私達にどの面さげて現れたの」
 
 
 数分の沈黙を破ったのは万里子だった。訊ねる声は冷静で、そこに感情はなかった。元夫である武に向ける視線は冷たく、鋭かった。
  「久しぶりに会って第一声がそれかよ。夫に対する態度か?」
  「……夫?どこの、誰が?」
 万里子の目が細められ、それまでなんの感情もなかった瞳に少し感情が宿った気がした。
 
 
  (こんな母さん、初めて見た……)
 
 
 何時も笑顔を浮かべていて、滅多に怒ることのない温厚な母。父さんの浮気が分かった時も離婚することになった時も、父さんに対して怒っている態度もなくそれは顔にすら出ていなかった。喜怒哀楽の怒が欠如しているのかと思ってしまう程母さんは怒らない。
 そんな母を17年間見ていたせいか、今左隣りに居る母親の横顔が険しく、嫌悪感を露わにしているのが現実なのか目を疑ってしまう。
 
  「――単刀直入に言うわ。未琴の周りをウロウロするの止めてもらえないかしら」
 
  「娘に会いに来て何が悪い。会う権利くらいあんだろうが」
 
  「権利?ふざけたこと言わないで。貴方に元妻の娘・息子に会う権利なんてあるわけがないでしょ。……〝捨てた〟って貴方は言ったわ。それに家族がいるでしょう?ふらふらしてないで戻る方が先じゃないかしら」
 
 万里子の物言いに腹を立て、武は机を叩く。
  「ふざけんな!どんな理由があろうが娘・息子に会いに来て何が悪い?お前に親権は譲ったが、それと会いにくるのは関係ないだろう!」
 武の言葉に万里子の眉間にシワが寄る。
  「譲ったなんてよくもそんな上からもの言えるわ。私達を捨てた貴方に、今更父親面して会いに来て権利があるなんて都合のいいこと言わないでくれる?私達を都合のいい“物”みたいにしないで!」
 万里子は未琴と翼の手を掴んで立ち上がり、部屋を出ようとする。
 
 
  「おい、何勝手に帰ろうとしてんだよ!こっちの話はまだ終わってねーぞ!」
 
  「会社が危ないんでしょう?借金抱えてるのをなんとかしてもらおうって頼みならお断りよ。高い給料を出してくれる如何わしいお店に未琴や翼を連れて行こうものなら、警察に通報するわよ」
 
  「!??」
 
 万里子の言葉に武の顔付きが変わるのを未琴は見逃さなかった。そして母の手が未琴の手を強く握りしめる。
 
 
 
   え……?どういうこと……?
 
   じゃあ、父さんは私を借金の肩代わりに如何わしい店に売るつもりだったってこと……?
 
   「元気だったか?」って優しい笑みも言葉も、油断させる為の演技……。
 
 
 家族想いの優しい父の姿は、全部偽物だったんだ……。大切にされていると思っていたのは幻で父さんにとって自分達はただの“都合のいい物”でしかなかったんだ……。
 
 
 突き付けられた事実に未琴が呆然と立ち尽くしていると、武は苦笑いを浮かべながら弁解する。
  「父さんがそんなことするわけないだろう。未琴の顔を見たくなって来ただけなんだって、父さんを信じてくれ。な?未琴……」
 
 
 
 未琴に少しずつ歩み寄ってきて、肩を叩こうとした手が止められた。
 
 
 
 
  「――はいそこまで。あんたって本当性根まで腐った“屑”だよね」
 
 
 
 
 聞き覚えのある声に顔を上げると――瀬那が未琴と武の間に入ってきた。
 
 
 
         5章 前編    終わり