昼休みの保健室、茜と泰のやりとりを聞いてしまい、大助は心中穏やかじゃなかった。小学生の頃に茜と泰が会っていたこともそうだが、それ以上に親友の気持ちに気付いてしまったことが胸を騒がせた。
 
 
 間違いかもしれない、でもそうは思えなかった。
 
 一番身近な幼馴染の少しの変化にも気付ける自信がこればかりは嘘であってほしいと思った。
 
 
 
 
 
                   15章    ― 変わり始める ―  前編
 
 
 
 
 気持ちが乱れてるのを出さないよう落ち着いているように振る舞っても、チラついてつい意識を持っていかれてしまい、プレーにまでそれが現れてしまった。
 
  「…………」
 
 らしくないミスをした。返せるはずのショットを空振りするわ、コートにボールが入らずアウトを連発、そして呆然としていて額にボールが当たるなど……。
 流石に先輩も後輩も顧問も、大助のらしくないミスに気が付いている。顧問から一旦コートを出され、落ち着くまで基礎を思い返せと1人練習に回された。
 
 
 水道の蛇口を捻り、頭を濡らす。沁み広がる水の冷たさに気持ち良さを感じ、少し心を落ち着かせてくれる。
 
 水を止め、髪をかき上げ空を仰ぐ。
 
  「……なにやってんだ俺……」
 
 別に気にすることでもないはずだ。泰が誰を好きでも動揺なんて意味もないし何も始まらない。だが、ここまで動揺するのはどうしてだ。取られるのが怖いからか?自分より魅力が上で敵わないと思ってるからか?
 まだ何もしていないのになに弱気になってるんだ俺は。まだ夏目に気持ちすら伝えても、話せる仲というだけのクラスメイト位置だというのに。
 
 
 
  「――なに間抜け面してんだ、大助」
 
 
 
 声を掛けてきたのは廉だった。ラケットを小脇に抱え歩み寄ってくる廉は訝しい顔つきだ。
  「らしくねーミスばっかして、なに上の空でいんだよ。恋煩いで余所見なら部活外でしてくれよな」
  「そういうわけじゃねーよ……」
  「じゃあなんなんだ。将来か?それか恋敵でも現れたか?」
 最後の単語に顔色を変える大助に、廉は嘆息して腕を組む。
 
  「……ライバルが現れたところで、お前気にせず全面に出してるだろ?夏目のこと好きってさ」
  「それはそうだけど……」
 歯切れの悪い大助はライバルが誰かを言う気はないようだ。とはいえ廉は大方察しが付いていて聞く必要もない。
 
  「(まぁ、十中八九相手は泰だろうな。あいつ分かりにくそうで分かり易いからな……)」
 
 それをどこで知ったかは知らないが、ようやく身近にライバルがいることが分かったようだ。自分1人だけだという安心感がなくなれば少しは焦るだろう。まあ、その焦りが良い傾向に傾くかどうかは、これからの大助の行動次第だな。
  「ライバルの気持ちがハッキリ分かったってんなら、遠慮はなくなったわけだろ?自分だけが夏目を好きだって安心感が消えて混乱してんだろ?」
  「…………」
  「……図星ってとこか。まあ、今日はゆっくり頭冷やせ。明日からちゃんとやれよ?このまんま続くと流石にはや先も黙っちゃねーよ」
 
 
 手をヒラヒラと振りながら廉は立ち去っていき、大助は首に掛けるタオルで頭を拭く。
 
  「……俺らしく、今まで通り全面に出していけってか?まあ、それしかねーよなぁ……」
 
 
 タオルを蛇口に引っ掛け、傍に立てかけてあるラケットを手に取り、ポケットの中に忍び込ませている硬式テニスボールを取り出す。
 壁の小さな黒いシミに狙いを定め、大助は構えからボールを高く上げ、振りかぶる。見事ラケットのど真ん中に当たり、いい音と共に強力なスマッシュを壁に打ち込む。
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
 部活の片付けを1人で済ませ、大助は家に帰宅する。
 この辺りの住宅に比べて大助の家は大きい。とはいえ、この辺りにはそれなりに稼ぎのある人達が多いため標準より大きい。その中でも大きいという意味だ。
 
 
  「ただいま~」
 
 リビングに入ると、姉の恭子(きょうこ)がいつになくめかし込んだ格好で優雅にソファに座っていた。帰ってきた弟に気付き、恭子は顔を向けてくる。
  「あら、おかえり。……なによ?」
  「なんかすっげぇめかし込んでるけど……なんかあんの?」
 そう言いながら恭子の後ろを通り過ぎ、テーブルの椅子を引き、ボストンバッグを置く。
 
  「あったの。今日は……彼氏とデートしてきたの♡」
  「あーそう」
 
 感情のこもってない棒読みでそう言いながら、大助はキッチンの冷蔵庫の扉を開け、スポーツドリンクのボトルを取り出す。
  「久しぶりのデートだもん。張り切るしかないでしょう?仕事の都合で数か月に1回しか会えないし……電話とかメールしてたって、やっぱり会う方が嬉しいもの」
  「……あんだけ不満言ってた割に上手くいってるんだな」
  「自分勝手な人だけど、根は優しいもの。『結婚を前提に付き合ってるつもりだ』――なんて言ってくれちゃってさぁ!もう顔がにやけてにやけて……」
 
 戸棚からコップを取り出して注ぎ、大助は「ふーん」と興味なしに適当に返事をすると口に運ぶ。適当に返事する大助を、恭子は面白くなさそうな顔でキッチンを振り返ってくる。
  「……ちょっと、もうちょっとノッテくれてもいいんじゃない?」
  「なんで姉貴ののろけ話に乗っからねーといけねんだよ。俺は興味ない」
  「そういうあんたはどうなのよ。高校生にもなって色恋沙汰の話ひとっつもないんだから。……幼馴染の里美ちゃんとは何もないの?」
 
 ボトルを冷蔵庫にしまい、使ったコップを洗いながら大助は答える。
  「川内?……ああ、つい最近コクられた」
 恭子は立ち上がり、キッチンにへとやってくる。
  「そうなの!?やっと里美ちゃん告白したんだ~……で、なんて返事したの?」
 
 
 
  「断った」
 
 
 
 恭子は面食らって数秒固まる。
  「……――こ、断ったぁっ!!?なんで!?なんでよ!?」
 詰め寄ってきて耳元で大声を上げる恭子に、大助は肩を縮める。
  「うるせーな……耳元で大声出すなよ」
  「出るわよ!小さい時からずっと一緒にいた子でしょ?その子を振ったのよ!?信じられない……」
 
 恭子は脱力して壁に手を付いて項垂れる。
  「はぁ……これで大助の青春が過ぎ去ったわ……この先ぼっちなんて……なんて可哀相な弟ー!!」
 手で顔を覆って泣き真似をする恭子に大助は溜息を零す。
 
 
  「勝手に終わらすな!……好きだって言われるまで気付かなかったんだから仕方ねーだろ」
  「うわ、ニブ……里美ちゃん可哀相……。そこまで一途な幼馴染振った理由は?」
 洗ったコップを水切りのカゴの中に入れ、タオルで手を拭く。何食わぬ顔で恭子の前を通り過ぎ、椅子に置いたボストンバッグを担ぎリビングを出ようとする。
 
  「ちょっと!!理由ぐらい教えなさいよ!!」
 リビングから顔を出し、階段を登ろうとする大助を恭子は引き止める。しつこい姉に嘆息し、大助は面倒くさそうに姉を振り返る。
  「……幼馴染としてしか見てなかった。それで十分だろ?」
 そう言い階段を登って自分の部屋にへと向かう。
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
 次の日の朝、身支度を済ませた大助がリビングに顔を出すと、父親の博史(ひろし)、母親の由美(ゆみ)、恭子と弟の浩二(こうじ)と家族全員が揃っていて、由美が大助の姿を認めると、にっこりと笑顔を浮かべて立ち上がる。
 
  「おはよう。大助。すぐに準備するから座ってて」
  「飯は自分でつぐ」
 
 丸内家の朝は早い朝食で始まる。父親の博史は国立病院の外科医で、遅くても6時半には家を出ている。朝早く仕事に行く父親を見送るのが家族の日課で、6時には朝食を食べれるように下りてこないといけない。とはいえ、夜中に出て行ったり早出の時は見送りはしない。そこまで合わせていたら1日のリズムが崩れてしまいそうだ。
 
 大助はテニス部の朝練、恭子は距離のある仕事場の出勤時間の都合、浩二は野球部の朝練、それぞれが朝早く出る都合が揃って、今のような光景になったといってもいい。
 茶碗にご飯をついで大助が席につくと、恭子が朝から不機嫌で大助の顔を睨みつけてくる。
 
  「……なんだよ。朝から人のこと睨んで感じワリぃな~」
  「べっつにぃー?」
 
 どこからどう見たって文句を言いたげだ。きっと昨日のことだろう。
 恭子は里見を妹のように可愛がっていたから、きっと大助への好意も知っていただろう。その好意をあっさりと断った大助に対して理解が出来ないようだ。幼馴染でそれなりに仲はいいはずなのに、断るなんて信じられない!――そう読めそうな程くっきりと顔に書かれている。
 
 
  「それより恭子。昨日のデートはどうだったの?」
 由美が恭子に話題を振る。さっきまでの不機嫌さはどこへやら、恭子はニコニコ顔で話し始める。
  「最高だったよー。久しぶりに会えたから余計に嬉しくなっちゃって、はしゃぎ過ぎちゃった」
  「そう。楽しんでこれたなら良かったわ。今年で26でしょ?そろそろ落ち着いてもいい頃だと思うから、結婚しちゃったらどう?前提としたお付き合いなんでしょ?」
  「そんなことお母さんが心配する必要ないよ。私より、大助の方心配した方がいんじゃない?17にもなって浮いた話ないんだから」
 
 恭子の言い分も分かるらしく、由美は大助を心配そうな眼差しで見つめる。
  「……そういえば、そうね」
 
 
 大助は姉を睨み付ける。恭子は目を逸らして知らんぷりをしていて、遠回しに里美の事を話題に出させて振った本当の理由を言わせようという魂胆のようだ。
 態々家族の前で出す話題でもないだろう……。
 
 
 
  「……俺、この前兄貴が女の人の手を引いて帰ってるの見た」
 
 
 
 大助の左側に座っている浩二がポツリと発言する。その言葉が今この場にとって爆弾発言だって気付いてるのか浩二のやつ!!?
 一番に反応したのは恭子で、詳しく聞かせてと食いついてくる。
  「黒髪で、ポニーテールの人だった。背はそんなに高くなくて、色が白くて綺麗な人だったよ」
  「お前……どこでそんなの……!」
 
 覚えがあるとしたら、この前のバイトの日のことだ。夏目とたまたま帰れるチャンスがあって、その時に離れて歩く夏目がまた人とぶつかるんじゃないかって気掛かりで、強引だったかもしれないが、手を引いて途中までだが帰った。まさか、それを浩二に見られたってことか!?
 
  「見ようと思って見たわけじゃないからな。偶然見ただけだ」
  「大助。貴方いつの間に彼女なんて出来たの?出来たら教えてくれないと分からないでしょう」
 
 由美が〝彼女〟と断定して話をし出す前に止めておかないとややこしくなる。
 
  「〝彼女〟じゃねーっての!まだ話し始めたばっかで……」
  「話し始めた割に、手を引くなんて積極的だな。兄貴」
  「……黙ってろ。浩二」
 流石にマズイと感じたのか、浩二は黙々とご飯を口に放り込んで味噌汁で流す。今日の丸内家の朝食は違う意味で賑やかだ。
 
 
 何一つ言葉を発しない父の博史は味噌汁を啜ると、湯呑の中に縁起のいいものを見つけ顔を綻ばす。
  「……茶柱か。今日は良い日になりそうだ」
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
 今日の朝練はミスなくメニューを熟せた。気が弛んでいると、はや先が昨日寝ずに考えたという特別メニューを急遽することになった。今日の朝練はそのメニューで皆ヘトヘトだった。だが大助にとってはいい刺激となり、混乱していた自分を落ち着かせることが出来た。
 
 2-Dの教室に入り、窓際の一番後ろの席に目を向ける。
  「(まだ来てないか……)」
 蛻の殻の席に会いたい人の姿はない。もうそろそろ来ると思うが、席に座って待つのも待ち遠しくて、荷物を置くと大助は廊下に出て外の景色を眺めながら待つことにした。
 
 
 今日の空は雲一つないからか眩しい程に青く感じる。自分の心が曇ってるからかと思ったが、久しぶりに空を見上げたこともそう感じさせる一因だろう。こんなに青くて、澄み渡った空はこれからの何かを表わしているのだろうか。
 
 
 
  「……おはよう」
 
 
 
 黄昏ていると声を掛けられ、大助は慌てて声のした方を振り向く。その視線の先には、茜がいつもの無表情で立っていた。今の聞き間違いじゃないよな?夏目から声掛けてくれたよな?
  「お、おはよう!……声掛けてくるなんて珍しいな」
  「……たまには、こっちから挨拶しても罰は当たらへん思うけど」
 
 前と違って会話が成り立つようになり、少しは距離が縮まった気がする。とはいえ、まだまだ警戒されてるが。
 
 声を掛けてくれたのは嬉しいが、大助は昨日の事が気掛かりで今日どう声を掛けようかと思っていた。予想外に茜から話し掛けてくれたこの際だ。このまま会話を続けて謝ろう。
 
 
  「――あのさ!……昨日はごめんな」
 大助が謝ると茜は不思議そうな顔をする。
  「ほら、昼休み中庭で話してただろ?そん時に俺、夏目に抱き付いて泣かせただろ?」
 ようやく茜も大助の謝った意味が分かったらしく、「あれ……」と呟く。
 
 
  「……別に気にしてないよ。あれはうちの問題で、丸内くんが悪いわけやないさかいに。気にせんでええよ」
  「いや、気にするなって言われてもな……泣かせたのは事実だし、夏目が男苦手なの知ってるから……」
 
 茜は窓の外を見やり、口を開く。
  「……何にも囚われんと正直に見てたら、その人の人間性も見えてくるよ。丸内くんは……変なことはせん人やと思うから、それなりに安全域な人――」
 
 
 
  「――普通に、話せる人」
 
 
 
 笑ってそう言う茜を見た途端、大助はガバッと抱き付き腕の中に閉じ込める。
  「すっげ嬉しい!普通に話せるのか、進歩したぜ!」
  「ちょ……調子に乗るな……!」
 暴れ始める茜に大助はパッと放し、頭を掻く。
 
  「またつい……悪い」
  「…………」
 ちょっとムスッとした顔も可愛い。そんな表情を見せてくれるまで心を開いてくれたと思っていいんだよな!でも、泣かせたのは事実だし、許してくれる夏目に甘えるのは良くないな。
 
  「だけど泣かせた詫びだけでもさせてくれ。俺の気が済まない」
  「……丸内くんの好きなようにしたらええよ」
  「んじゃ今日の帰り、俺のお気に入りを奢るから一緒に帰ろうぜ!」
 
 歩き始めた茜の隣を歩き、嬉しそうに話す大助の横顔を見ながら、茜は思った。変わった人だなと。だけど、時折こちらを向いて満面の笑顔を見せる彼に少し胸が温かくなるのを覚えた。
 
 
 彼の笑顔は、どんな影にも明かりを差し込ます太陽だ。
 
 
 
        15章 前編   終わり