いまの・わたし | 湧flow

いまの・わたし

あぁ,もう4月が終わる…( ´(ェ)`)。
何とも落ち着かない気持ちのまま5月を迎えます。

多摩美のエッセイ講座でいただいた2回目のお題「今の私」には,
絵の事を書きました。
せっかくなんで,ここに掲載させていただきます。
最後の一文を,今の私への問いかけだとすると

「うん,落ち着かなくて,自信がなくて,ふわふわしてる」
というのが答え。

初めての個展は,初日三日前に,ようやく最後の版画が仕上がり,
風邪で体調最悪で,声が出ないという状態で,
いろんなこと考える余裕はありませんでした。
二度目の個展は,1週間前に田舎に荷物を発送した後は,
どちらかというと楽しさを感じていました。
三度目にして,この緊張はいったいなんなんでしょうね叫び


以下,1月の末に書いたエッセイです。


いまの・わたし

水彩用の最後の額を注文して、新宿の画材屋を出る。
二年をかけて準備している三度目の個展は、この五月、麻布台の小さなアートスクールのギャラリーで行われることになる。

大学では洋画を専攻した。当時の授業は、終わりの頃に先生が教室に入り、作品を良い順から並べて講評するスタイルだった。
「順番決め」となると、上位になりたくてしかたない。評価を求めてデッサンに励み、懸命に課題をこなしたが、努力が必ずしもプラスにはたらくと限らないのが、アートの世界。描けば描くほど、キャンバスに現れる己の浅さを見ては辛くなる。そんな三年間だった。
最終学年をむかえ、描く事への諦めを感じはじめた頃、風景画実習で白馬を訪れる。朝、民宿で昼の弁当をもらい、皆絵の具とキャンバスを抱えて、好きな場所に散った。
雪が残る白馬山を遠くに見て、脇に流れる小川の音を聴く。ぽぅっと赤みがさした木の芽を照らす早い春の陽がやわらかい。融けていくような気がした。
あんなに力んで握りしめていた筆が軽い。キャンバスの上に見たのは、照れてしまうほどの素直さ。
この後半年、描くことが幸せだった。卒業後、世の中のさまざまな厳しさを目の当たりにし、それは砕かれる。

白馬で絵筆をとっていたのは、いったい誰だったのだろう? 描けなかった。描かない自分を責め、苦しかった。
「休んでみよう」
そして二十年近くの時が過ぎる。
「描けばいいのに。もったいない」
言われるたびに、私には「なぜ逃げるのか?」と聞こえた。余裕の表情を繕って嘯く。
「ん、死ぬまでにね。もう一度描ければいいかなって思ってるんだ」

描かなかった時間。仕事をし、恋愛し失恋し、穏やかさとは無縁な結婚をし、そして離婚した。その後得た編集の仕事も落ち着き、やっと平穏に慣れてきた頃、
「描きたい」
と思っている自分と、
「描けないんじゃないか」
と怯えている自分に気づく。
たぶん、それまでも気づいてはいた。でも、周りの喧噪を理由に、見ないふりをしてきた。このまま描かずに死に際で後悔するより、とりあえず、いま、ジタバタしてみよう。
こうして再び描きだして、ようやく五年。

離れて見る。描く。また離れる。少し色を入れ、色を取り、離れて見る。気持ちも行為も、行ったり来たりしながら、何とか水彩画を仕上げた。一歩進んだと思えることが嬉しい。
時間と手間をかけて仕上げの段階に入っていたつもりの木版画には、どうにも納得いかなくて、先日ダメ出しした。「これだ」という確かなものをつかめてないのが苦しい。
兎にも角にも、残されたのは三ヶ月。休日中心に時間をやりくりし、版画をやり直して、個展に臨むことになる。

全ての作品は、壁にかけた時点で私の手から放れ、観る人との間で対話する。期待するものではないかもしれないが、それもよし。
五月の私は、何を見て、何を感じているだろう。