阿部詩さんの号泣が非常に印象的だったパリオリンピック。

日本選手の、あんな号泣、見たことない。

テレビに釘付けになりました。一生忘れない。

この号泣が教える事。この号泣に助けられる人。

多いと、直観的に思いました。

人は、自分の悲しみに寄り添い、誰かの悲しみに寄り添い、

そこから劇的に新しく変わってゆくものだから

阿部詩さんの大きな悲しみに寄り添った人々には

そこにきっと何らかの感銘があった。ヒントがあった。

それは金メダルよりも大きくて尊いと思う。

 

お久しぶりです。私も母もとても元気ですよ。

特に書きたいことが何もなかったので、気がつくと一年たっちゃいました。

そんな中、偶然つけたテレビが、阿部詩さんの試合直前でして

軽い気持ちで見始めたんですが、

試合の顛末(てんまつ)にはショックを受けました。

 

大変申し訳ないけれど、こう言っては何だけど、私にしても

今までずっと、見たり見なかったりの、テレビ中継の柔道でした。

そりゃ日本が勝つに越したことはないけれど、負けたら負けたで

それは仕方ないなとあっさり済ませて来たはず、今までは。

でも、だから、敗退してこれだけの号泣、これほどの悲しみに

初めて出会ってしまって、発する言葉もなく、呆然と見ていました。

選手のこんな激しい慟哭(どうこく)、見たことなくて、大きな衝撃でした。

忘れません。一生忘れません。

というわけで、詩さんや日本柔道について、いつものような長文を

ながなが、くどくど書きました。よろしければどうぞお読みください。

 

とは言え、私は素人のにわかファンで、専門家ではない。

専門家の書いたご説明を読んでみても

今の柔道事情はとても難解でわかりにくく理解できないので

このままでは、ちょっと救われない気持ちになります。

だったら自分が何様であろうといいから

自分で書いて納得しようって魂胆(こんたん)です。

けれど、私にとってわからないものについて書く以上、

この記事は支離滅裂(しりめつれつ)な偏見です。

選手や元選手たちが中心になって作る競技大会が

いつか始まるとしたなら、この偏見も「意見」に返り咲く日が来るかも。

と言うのも、これだけ毎回オリンピックのたび、疑惑に誤審にと振り回されて

日本が泣かされるくらいなら、いっそのこと日本も日本のリーダーシップに

賛同してくれる国々を集めた日本が主催する大きな世界大会を開いて

そこに日本柔道の権威を置いて、そこを柔道のメッカ、柔道の本場としていければ、

無法な我流に走るオリンピック柔道は、おのずと格下になっていくことでしょう。

いつまでたっても青い柔道着に慣れない違和感の私。

今回のオリンピックで一番衝撃的で心に残ったのは

阿部詩さんの号泣です。おかげで

しばらく何日間か柔道の事ばかり考えさせられました。

でもたいていの場合は、マスコミが切り取った短いダイジェストを見せられ、

その件について即答を迫られるのが現代社会の忙しさかもしれません。

つまり、さっさと四角四面の型通りに裁くのが一番楽で手っ取り早くて効率的。

家族とか知人とか会社の人とか近しい人にそんな冷淡なことしたら失礼なのに

テレビの中も同じだと思います。だから、少し時間をかけて考えてみました。

 

そしたら、日本のお家芸、伝統芸と誇ってきた柔道も、

オリンピックなどの世界大会との関係は、実は、

まるで競合しているかのような陣取り合戦の状態かも。

一つの「柔道」に、世界の組織と、日本の組織。

親分が二人いて互いのメンツを争うかのように見える。

試合のたびごとに「今のは誤審だ。あんなのはおかしい」と

日本側が訴えたとしても、大会主催国の審判団など運営・進行役と

話が食い違って相手にされません。いくら本家本元でも

いつまでも日本が親分風を吹かせて威張るなと、

競技に日本の独占を許さない、四面楚歌の傾向すら感じます。

日本選手が抗議する姿勢も一蹴(いっしゅう)され、

選手が不服にこだわれば、日本選手団に厳重注意が通達され

その後の日本選手の試合に不利益をこうむる恐れさえ感じさせます。

ここまでくると、柔道云々(うんぬん)ではなく、人間性の低迷です。

こういうのは世界的にも、今の社会の権威・権力側はまだまだ

人間性が伴っていない、という精神性の低さがここにきて、

全世界の人の悩み苦しみ悲しみを生む顕著な時代。

永山竜樹さんの試合で明らかに審判のミスがあったのに見過ごされた。

おそらくは相当に悩みぬいた、その最後に竜樹さんが取った行動は

勝った相手選手をたたえてかばう事でした、彼を誹謗中傷しないでと。

日本選手が人間性あふれる度量で

審判の不手際をきれいに後始末した感があります。

通常4年をかけて選手は人生の全てを捧げるオリンピック。

竜樹さんはつらかったと思う。

 

誤審疑惑に揺れる無益な場外乱闘は、

日本選手の嫌うところの一つかもしれません。

アウェイで不可解判定がくつがえらないときは

負けた自分が弱かったからだと、

自分が犠牲になって一人で責任をかぶり

試合の借りは試合で返すしかないと、

悔しさをバネにして前を向くコメントがほとんど。

日本の組織的な力が及ばない所へ世界の柔道が行ってしまい、

日本の柔道の精神性を世界に発信して啓発するには

立場も力も今の日本の組織に乏しい今、

選手の活躍だけが日本柔道の生命線となっています。

なんとか「JUDO」を凌駕(りょうが)する「柔道」を示さねばならない。

試合に臨む日本選手の緊張感と重圧感は増し続けています。

竜樹さんの誤審騒動を皮切りに日本の各選手の試合で

誤審疑惑がたくさん取りざたされたパリオリ。

阿部詩さんもそのお一人です。私には詩さんの号泣が

日本の悲しみを一身に集めたような出来事のように思えます。

今、日本が悲しい。日本の精神性が生かされなくて悲しい。

詩さんが、積もる日本の悲しみを表現したと私は感じる。

 

詩さんの悔しがる号泣を見て、

選手がここまで勝利至上主義(メダル狙い)になるのなら

国民の期待も考えものだと、感慨深げな声もありました。

確かに勝つことに関しては、詩さんも世界の怪物になりたいと

公言していて、詩さんは世界中から異常な強さの選手と見られたい。

しかしその野心は、勝つためにはどんな姑息(こそく)な手も使ってくる

「JUDO」によるものではありません。勝利至上主義とは

勝つためには反則すれすれのあらゆる策を弄(ろう)すること。

しかし日本選手団は、嘉納治五郎が創始したところの、

ただただ一本を取る柔道の精神性を意識して目指してきました。

何事においても「はじめに言葉ありき」の理念なのであって、

その精神性を失った時に柔道ではない見世物興行になり果てます。

嘉納治五郎が唱えた「精力善用」「自他共栄」は柔道の

光輝燦然(こうきさんぜん)たる理念〈人間性〉なのであり、真理です。

それが集約されて体現されたのが一本を取る柔道です。

そこにはメダル至上主義の「JUDO」に見られがちな、

トリッキーな攪乱(かくらん)戦術や、思わず相手を傷つけてしまう

危険行為もありません。それらは常に反則と隣り合わせで

「精力善用」「自他共栄」にはほど遠くかけ離れています。

そこにさらに、考え方も基準も経験もバラバラな審判が加われば、

言葉は悪いですが、ルール無用の悪党に包囲されるようなもの。

どうにかして簡単に日本を勝たせまいとする障害物を

これでもかこれでもかと毎回用意されているようなものでもあり、

日本を負かして海外勢が躍り出る番狂わせは、興行的には、

海外の観客には大ウケで盛り上がる、大歓迎のショーかもしれない。

これは日本にとってはいたたまれない、いじめ・虐待に等しいので

日本選手は泣いてこの窮状を訴えたいくらいだと思う。

日本を困らせて勝とうとしても、そこには競技としての意義がない事を

実際に日本が負けない事で示さねばならないという構図なので

悲壮な覚悟、激しい緊張、重苦しい重圧に長期間責められます。

詩さんの号泣によってその立場が

私たちの目にもあらわになりました。

本物の柔道の本質を日本が守り抜くためには

詩さんら日本選手の「柔道」が「JUDO」を上回って余りある、

破格の強さで圧倒せねばならない難しい現状なのです。

 

詩さんも日本発祥の「柔の道」で世界一強い選手になりたい。

日本の素晴らしい伝統、日本の素晴らしい精神性を復興させるべく

海外のルール、海外の審判、海外の「JUDO」がどうであれ、

詩さんはそれらをはるかに超えてしまうような「柔道」で勝利して

日本の柔道を代表する大きな怪物になりたい。

日本の柔道の精神性こそ柔道の本質であり

それが最高に強くて素晴らしくて尊い事を世界に示したい。

日本の柔道で勝ってこそ、本当の意味での世界一だとわからせたい。

そこに日本柔道の今後の活路があります。

 

世界の組織が支配勢力を強めて日本柔道の精神性が軽視され、

いろんな方向へ暴走する他国との違いにも苦しめられる、

日本柔道の厳しい状況は、ずっと前からそうだったと思うし、

烏合(うごう)の衆の一般人の私がテレビ見て

あれこれ勘ぐることくらいは、柔道問題のごく一部分でしょうね。

ですから、詩さんら日本選手が抱える苦悩や葛藤は

単純なものではないと改めて思い知ります。

そんなことは承知の上で畳の上に上がってきたのですよね。

全部が全部、私たちにはわからないかもしれないけど、

改めてそのご苦労を察したわけです、詩さんの号泣から。

 

詩さんもふだんはさわやかなスポーツマンで

まわりに弱みなんか絶対に見せない、

強烈な負けず嫌いを自認しています。

その克己心の鉄壁の牙城(がじょう)というか、

感情を抑える頑丈な堰(せき)が、一瞬にして崩壊するほどの

敗退だったのです、詩さんにとってこんな事はあってはならないというほどの。

私たちはただ、この、それぞれの組織が複雑に入り組み、

いろいろなルール、いろいろな審判、いろいろな選手が込み入ってせめぎ合う、

利害がからんで錯綜(さくそう)する柔道界の事情を察する以外にはありません。

多少、察し方が的を得ず、察し方が足りなくてもいい。

とにかく阿部詩さんは日本選手なので

日本選手のこれだけの苦しみ悲しみには

日本国民が寄り添わないでどうするって感じです。

 

人は人の悲しみに寄り添う事で今の世の中が

ちゃんと見えてくるんじゃないでしょうかね。

詩さんの敗退に寄り添えば、柔道という「のぞき窓」から

そこに日本や世界の全体像をうかがい知ることになる。

そういうところから、立場は違えども、選手も私たちも、

実は世界中のみんなが同じ問題や課題を

共有して奮闘している仲間だって事にも気づく。

同じ空の下にいる同じ人間だなってわかる。

そうすることで初めて世の中をどうより良くしたらいいか、

みんなの幸せのためにどうすれば一番いいのか、

みんな同じ所に立っている同じ仲間の認識があってこそ

私たちはみんなの事を考えて思いやる哲学が進み、

解決策が出てくるようにも思う。

 

今回、私のように、詩さんの涙に思わず寄り添ってみて

いろいろと考えさせられた人は多く、日本柔道には日本柔道の

抱える問題や課題が山積していると知ったはずです。

その重圧をいつも一身に背負いながらも詩さんは

果敢に試合に挑んできた日本を代表する選手なのです。

それは柔道以外の、柔道とは全く関係のない、私たちの社会の、

様々な部門、部署が抱える問題や課題とも一致しており

みんながその重圧に負けまいと今を生きている。

だからこそ詩さんを初めとする日本選手の戦いぶりには

多くの人が共感するし元気をもらってきたわけですよね。

 

詩さんの悲しみは詩さんだけの悲しみではなかった。

詩さんの悲しさは私たちみんなが知っている悲しみと同じ。

立場も規模も何もかも違うようでいて、本当は

つながっていて分かち合えています。

詩さんの悲しみは私たちの悲しみなのです。

人の気持ちは人でしか寄り添えません。

みんなで分かち合えてこそ物事は、善処、解決、終息へと

至る道がだんだんと自然にできてくるように思います。だから、

そういう意味では、詩さんの号泣が私たちに与えた

悲しみのインパクトって、奇しくも、図らずも、

今後の私たちを励ますお手柄になったのではないか。

詩さんも私たちも、みんな心のどこかで悲しみながらも、

それでも共に希望へ挑み続ける日々だと思うから

「幸福になるのは今悲しんでる人です。

その人たちはなぐさめられ、満たされる時が必ず来る」

私たちは詩さんの号泣する姿にそう願いながら同時に

実は自分の人生にもそう言って励ます力強さをもらっている。

オリンピック競技の選手から伝わる、人生を生きる強さ、たくましさ、

美しさ、素晴らしさの、生きて行く連帯感がそこにあります。

だから、これは、メダル獲得よりも尊い。尊い涙になった。

勝っても負けてもすごい選手にはそういう力がある。

それに何よりも、詩さんは日本の選手なんでね、

日本の国民が一番に寄り添うのでなくてはと思いますし、

こういった、人が人に寄り添う、人が人を思いやる、

人間性豊かな意識を持たせてくれる機会って、

この一事が万事につながって、全体に波及していきます。

結局私たちは、お互いがお互いを思いやって寄り添う事でしか

あらゆる部門、部署の復興も発展も見込めない。

 

前代未聞の、これだけ激しくも大きな号泣がなかったとしたら、

私たちは何も気づかされず、教わることのない大会だった気もします。

なので、この号泣を責められたらちょっとモヤモヤです。

詩さんは、情けない姿を見せたとお詫びなさったけど

柔道界の困難な現状を全部背負った責任感、使命感を思うと、

激しい緊張と重圧から来た涙だから止められない。それでいい。

こんなに泣くくらい命がけでがんばったし、がんばってくれた。

複雑に錯綜(さくそう)する、混迷を極めたオリンピック柔道において

勝つ事の何たる至難の業か。だから全然情けなくなんかない。

努力して努力してやっとここまで来た、

精一杯やった人のとりつくろわない本物の熱い涙ですから。

 

敗退した詩さんが大きく取り乱したとはいえ、

この号泣が大会の進行妨害とみなされたわけでもなく

各国選手団から抗議もありません。

選手同士は了解し合っていると思います。

「中断」とも言えないし、ロスタイムともハプニングとも思わない。

そんなごくわずかな時間を、たとえ待たせられたとしても、

それで体調が変化するような、あるいは心理的におかしくなるような、

そんなやわな選手たちならオリンピックまでに脱落してます。

もしも「詩さんのせいで調子が狂った」と言えば、

そんなバカな言い訳のほうが恥ずかしいと思うはずです。

だから詩さんの事は何の支障もない範囲内。

決して恥でもなんでもない。それくらいの判断は

あの激情の中でも本人さんが一番よくわかってる。

私たちの想像を絶する前人未到の恐るべきプレッシャーを

はねのけながらやっとの思いでたどり着いたパリ五輪。

今さらこんな阿部詩さんに、どなたが何を言いたいかは知らんが

かえって釈迦に説法じゃないですかね。

阿部詩は国際大会の常連であり、百戦錬磨の超大物選手。

むしろ、この、世界的に有名な、

知名度の高い、人気のある素晴らしい実力の

阿部詩という名選手がこんなにも泣き叫んでいたのを

運営スタッフ、審判団、大会側が放っておかないほうがよかった。

次のプログラムで忙しいったって、そんなのは、

もしも万一、阿部詩の事で大会側に落ち度があったとしたら

危機管理としてはパリオリの名折れになってしまいます。

だったら一応の事情聴取にどなたか担当者が

すぐ駆けつけてもよかったのでは。

それが本来のセオリーなのでは。

 

選手あっての大会ですもの。しかも各国からお預かりした

トップアスリートばかり。選手ファースト〈選手は宝物〉なればこそ

泣き叫ぶ選手をそのままにしておく法はありません。

全世界が注目の中、さらし者のように放置するのは

一国の代表者たる選手を辱めるようなもので得策ではない。

柔道大会の礼法が何たるか、それを言うなら選手よりもまず、

大会側が尽くすべき、選手を思いやる礼法があったのでは。

もしもこれからも泣き崩れて動けない選手が出ても

すぐに走ってきた大会関係者がコーチや選手本人と話し合いながら

みんなでかたまって選手を保護する体(てい)で

徐々に移動して退場して行くなら誰の目にも安心だし、

もっとスムーズに選手を運べるはず。

選手ファーストでやってくれれば見た目にも温かい大会です。

負けたのはお前のせいなのに何やってんだ、

甘えず早く引っ込めよなんて、そんな印象は大会側も不本意なはず。

それでなくても負けたかどうだかわからない疑惑続きなんですから

ここはもっとデリケートに対応したほうがいいです。

「詩コール」よりももっと先に四方八方から

大会スタッフが何人か集まって来て

阿部詩の顔をちゃんとそばまで見に行って

事情を確認してもよかったのではないかと思います。

コーチに任せろ、だけでは済まないですよね、大会側は。普通は。

負けて泣こうが勝って泣こうが

選手の事情に少しも寄り添わない、人間性のない、共感のない、

単なる勝ち負けの流れ作業で選手を出し入れする、無表情で冷たい、

機械的なスケジュール消化の進行のみ最優先の五輪なら

見ていて世界の幸福と平和の祭典と思えません。

 

どうもすみません。

ど素人でにわかファンの私が偉そうなことばかり書いて、

ごめんなさい。指導100個くらいもらっちゃうかもね。

以降もこんな感じなのでね、おイヤな人はこれ以上は

お読みにならないでください。

 

阿部詩さんが2回戦敗退は残念。

絶対に勝つと思ってたんだけど

絶対100パーセントなんてないのが勝負の世界でしたよね。

詩さんも自分が弱くて、相手の技がうまかったのだと、

試合を振り返っています。

柔道って難しいと、改めてこんなセリフを

詩さんに言わしめるほどでした。

今回、テレビ解説やキャスターを務めておられた

日本柔道界トップクラスのOBたちが口をそろえて

この対戦は100回試合をしたら

99回は詩さんが勝つと言っていたそうです。

山口香さんは、詩さんがほんの一瞬のスキを狙われ、

出会い頭の事故のようなところがあるとおっしゃった。

 

どさくさにまぎれた、と言ったら失礼ですが

相手の選手がとっさの出し抜けに繰り出した技に

してやられた気がするんです、私も。

そしてそういう出し抜けの技でも見事にヒットするような

トリッキーな荒れた動作を相手選手は執拗に繰り返していました。

詩さんの気が散ってスキができるように仕向けたかも。

それが相手側の作戦なら、その戦術が的中した。

その後、詩さんを負かしたこの選手が金メダルも獲得。

彼女には武運があったのでしょうね、詩さんよりも。

それはきっちりお祝い申し上げないといけません。

勝者はウズベキスタンの選手、ディヨラ・ケルディヨロワさんです。

詩さんとは対照的に、勝っても表情一つ変えなかったこの選手には

賞賛の論調が集まりました。前年の世界選手権では

ディヨラさんが詩さんに負けています。今回も途中までは

詩さん優位のペースで、詩さんが圧倒的な攻勢に出て技ありも取った。

ディヨラさんは指導2つであとがない。そこにまさかの起死回生で一本。

これほどの大敵に勝利できた後には、

試合直後の詩さんもまだ泣く前の呆然とした状態だったし、

このタイミングでならディヨラさんも少しは笑顔がこぼれるかと思ったら

何とも言えない複雑な固い表情を浮かべていましたよね。

世界女王の詩さんに対して厳粛な自制心が働く一方で、

さすがにご本人も会心の勝利まではいかないと知ってる。って

何かを耐え忍ぶお顔に見えるなと、私はちょっと思いました。

 

勝ち負けが確定してしまったら仕方ありません。

しかし阿部詩さんがあんなにも悲しまなければ誰もが

詩さんにも、日本の柔道にも、深く寄り添うことはなく、

「残念でした」で淡々と見終わってテレビを消して

何一つ考えさせられる機会にはならなかったかも。

オリンピック柔道は目の色変えてメダルを追い求める、

きな臭い空気が立ち込めています。

確かにメダル授与のセレモニー自体は見るの好きだし、

興行的にもそのほうが盛り上がる。でも競技中は

メダルの事はあくまでも副産物として脇へちょっと置いといて、

勝てるなら選手は何をやってもいいんだという、

「必死さ」でカモフラージュした反則行為はやめないと。

胸を張れる正々堂々の、正当な競技姿勢を貫いて、

その上でのメダルなら誰も文句ないし、疑惑も生じない。

試合での実力の差を確実に判定されての事なら

勝っても負けても納得がいきますし

勝った相手を尊敬してほめたたえる事ができる。

 

ところが今回もまた「JUDO」と「柔道」との違いを見たと思います。

昔から日本は本家本元の、一本を取りに行くスタイル。

それに対して「JUDO」はメダルのためなら手段を選ばない、

姑息な攻撃や戦術を交えてくる。

この2つは違う競技ですので、同じ畳の上で戦うことはできません。

詩さんは「柔道」をしている。対戦相手は「JUDO」をしている。

違う競技をしているのに勝ち負けは判定できません。

柔道が日本から海外へ普及していくときに、

だんだん「JUDO」になっていった。それが是正されないまま

柔道よりも大きな顔をして出回るようになり、

「JUDO」が助長、増長されていったと思います。

でも、元々の柔道発祥の国の日本は、

海外の流行が勝手に何を取り入れて勝手にどうなっていこうと

あくまでも一本を取りに行くのが本物の柔道であるから

その精神性を絶対に変更する事はできません。

だから、ちゃんとした「柔道」でなら無敵の詩さんでも、

そこに最先端の「JUDO」で挑まれたら勝ち負けはわからない。

相手国は「JUDO」を研究して「JUDO」で対抗してくるわけですので

この非常にやっかいな「JUDO」に対しても

日本の柔道で勝って乗り越えてゆかねばならない。

「JUDO」を上回って余りある一際(ひときわ)上の、

格段の強さを求められている日本選手の受難を思います。

あれだけの詩さんの号泣は、その悲しさ苦しさを物語る象徴。

選手は涙ぐましい訓練と研鑽を要求され、その過酷さは

号泣しても足りないくらいでしょう。

 

負けても言い訳はなさらない詩さんのスポーツマンシップ。

そのぶん、それほどスポーツマンでない私が、

どこにでもいる一市民の私なんですけど、

今さら見終わった事をくどくどと蒸し返して

あれこれ自分独自に察したことを

独断と偏見の自己流で述べたいです。

ただただ察する事、察する力を発揮する事、

それが観戦する者の務めであり、共感する喜びでしょう。

まあ、そんな大げさな事でなくてもね、

オリンピックは世界のスポーツのお祭りで

昔から家族みんなで見てきたわけですから

誰もが期間限定のプチ批評家、プチ解説者になって

わいわいがやがや楽しむことが許されていますし

この時とばかりにいろいろな種目についてあれこれ

あーだこーだと議論してかまわないはずです。

そうしながら日本選手をひいきして寄り添う。

それがうれしいわけですので。

 

試合中は実況解説者の穴井隆将さんも、

試合後は柔道家の小川直也さんも、異口同音に

阿部詩さんの対戦相手の「偽装攻撃」が指摘されており

もしこの反則を審判が的確に取っていたら

その時点で阿部詩さんの勝利でした。

審判が取らないのを日本の実況席が疑問視したまま

詩さんの敗退となりました。

 

偽装攻撃? こんな戦術がはびこるなんて

やはり、日本の柔道と海外の「JUDO」とは違っており

選手各自の考え方や戦い方にばらつきがあります。

審判員の質も日本と海外とで異なります。

また、日本のルールと国際ルールとがあるそうです。

つまり、全てがバラバラで統一されていません。だから、

疑惑、不可解、不条理、理不尽などなどが、常につきまとい、

オリンピックの柔道でトラブル多発は毎回の事。

武道が大きく掲げる「心技体」の先頭には「心」。

先頭で引っ張る「心」がみんなバラバラの混乱では

いい大会にするのは無理な話です。

メダルのために蹴落とし合う戦略の利己心では

毎回しこりを残す後味の悪いオリンピック柔道になります。

 

一説には、「偽装攻撃」みたいな、

せこい反則のポイントで詩さんを勝たせるよりも、

詩さんは華々しく一本取るだろうから

その一本を待ったほうがいいと審判が思ったんだと、

そういう意見もどこかで見ましたけどね、

審判の判断の中にそのような私心が横入りして

大会の演出まで考えるなんてありえなさそうなんだけど、

でもあながち真っ赤なウソと言えないのが今どきの大会。

あんなルーレットにしても憶測を呼ぶだけなのに。

 

ボクシングのストレートパンチを思わせるような、

相手が鋭く伸ばした手先が詩さんの目を直撃してました。

とても痛がっていたし、その痛みに気を取られ、

詩さんの集中力が途切れたように見受けられた。

この瞬間から視聴者の私は詩さんの目が大丈夫かどうか

そればかりテレビの前で心配になって

目の無事を祈り続けていた。そしたら急に負けた。

だから、敗因は目のせいかもしれなかったし、あるいは

誤審かもしれなかったし、詩さんが号泣した理由は、

いずれにしても不本意な試合だったからではないかと

泣きだしたときに私はいろいろ疑いましたよ。

 

暴れたり逃げ回ったり、トリッキーな動きばかりして、

詰め寄ると目を突かれて痛いし、偽装攻撃も多々仕掛ける。

これは戦術と言うよりも、詩さんにまともに組まれたくない、

詩さんを拒否して威嚇する、激しいけん制と考えます。

故意の狙い撃ちでなくても

相手の顔や目や鼻や口を鋭く突いてしまうほど、

たぶん自分でもコントロール不能な暴れ具合。

こんなのは、組み手争いの概念を超えてます。

でもメダルのためには手段を選ばない、これが「JUDO」の戦法。

悪気などなく海外の選手はそれを普通に教わって育てられた事でしょう。

兄の一二三さんも準々決勝の試合中だったか、途中で鼻血を出しました。

それで試合が二度も中断して、止血の治療に向かいました。

もしも試合中に三度目の出血をしていたら一二三さんは失格だったそうです。

それくらいひどい出血になったのは

暴れ馬のような相手の猛烈な抵抗を受けてそれが顔面に当たったからです。

このケガは、団体戦の時にも出血しましたから、かなり深手の重症です。

 

阿部兄妹は、東京五輪のチャンピオンだから

挑戦者の当たりが多少きつくても

仕方がないよと言うわけでしょう? あるいは、

柔道やレスリングに多少のケガはつきものだと?

阿部兄妹も人の子ですよ。

眼球がどうにかなったとか、鼻が骨折したとか、もう、

そんなオリンピックなら痛々しくて見たくありません。

一二三さんが鼻血の治療をしている時の、

観客席にいるお父さんのVTRときたら

一二三さん以上に苦悶の表情を浮かべておられた。

家族にしたらたまったものではありません。

この時の解説者が大野将平さんで

これはもちろん故意ではないので

相手を責めるわけにもいかないとおっしゃっていて、

確かにそれはそうだと思ったんですけど、

この反対に、日本の選手が外国勢にケガをさせた場面は

私は見たことがありません。

それは、一本を取りに行く柔道だからでしょうね。

一本を取り合う柔道の素晴らしさ、尊さ、大切さ、美しさを

大野将平さんは提唱しておられます。

そこに武道の本来の安全性も高まると思う。

ケンカじゃないんだから、何度も出血するなんて。

 

柔道ってケガが当たり前の悲惨なスポーツなのでしょうか。

「試合でケガしても当然」が通るなら、日本の子に武道を

勧める親はますますいません。

流血がつきものだなんて、はるか昔の野蛮な文明の事で、

そういう死闘を娯楽にしていた、

殺戮(さつりく)と虐待を好むひどい時代と、

幸福と平和を分かち合うための

現代オリンピックスポーツとは、まるきり違うのですから、

殺し合いの流血に喜んで手をたたく、

精神性の低い人たちが存在した原始時代に逆戻りするような、

血を見るのが当たり前の競技大会にしてはならんでしょう。

いくらメダルが欲しくても相手を思わず傷つけてしまうような、

暴力的なものにならないようにすべきですよね。

柔道の原点「精力善用」「自他共栄」に戻ってほしいです。

 

東京のスタジオから

試合が終わったパリの詩さんに

松本薫さんが語りかける放送がありましたけど

薫さんはいの一番に「ケガしてない? だいじょうぶ?」って

気遣ってましたよね。そしたら詩さんが「だいじょうぶです」と答えて

「よかったあー、それだけでいいんだよー」って薫さん。

ほんっとにそうだよなぁーって思って安心しました。

とにかくそれが一番大事ですよね。

幸福と平和の祭典なんですからね。

 

相手を敬う礼儀の気持ちで対戦して、お互いに

鍛錬して来た一本を取る技をかけ合うのが「柔道」。

そのためにしっかりと相手と組み合う。

大野将平さんの言うように「正しく組んで正しく投げる」。

そしたらどちらかがきれいにくるっと倒されます。

とても鮮やかな、芸術性さえ感じる美しさがあります。

どこにもケガする要素はありませんし

一本を取り合う柔道をしてこそ

ケガをする割合も少なくなるんじゃないでしょうか。

柔道は何も社交ダンスではないのだから

全くの無傷でいろとは私も言いません。

しかし、一本を取る、柔道の基本を無視して

メダルに目がくらんだ暴力みたいになるとたちまち

ケガする割合もケガの重さも増大するのではありませんか。

それはケンカをふっかける非人間的な攻撃なので

少なくとも日本選手は絶対にやらない。だから不憫(ふびん)ですよね。

反則を疑われるような卑劣な行為は一切慎んでしない、

というハンデみたいなのを、生まれつき課せられているのが、

日本柔道界を背負う日本選手なのですからね。

日本のその精神性って、柔道の理念として昔っから

「精力善用」「自他共栄」を日本がうたっているわけですから

なんとしてでも柔道を通じて広く示してゆきたいわけですよね。

 

自分の組み手を一方的にいい形にもっていけないうちは

相手の組み手を避け続けて暴れて逃げ回る。

それは柔道を拒否した行為。

棄権するのと同じで、対戦資格を捨てるに等しい。

相手と組まないでは柔道にならないのだから

組むのを怖がってイヤがって避けた時点で負けたのと同じです。

一二三さんや詩さんと組んだら必ず負けると思う選手は

対戦する前からすでに負けているのです。

だからその、試合から逃避した姿勢を審判が素早く的確に

反則として取らないといけない。

ちなみに、山口香さんのブログから引用すると

「そもそも自分だけ良い組手で柔道をやろうというのは

『自他共栄』の精神ではない」

相手に組まれたくなくて、その組み手を阻止して

あからさまに組み手を避け続ける膠着(こうちゃく)状態は、

今の柔道が「自分勝手な柔道」になったからだと指摘しています。

自分さえよければいい、利己的な柔道になっている。

それが海外の「JUDO」の傾向だと私は思う。

香さんいわく「柔道は相手があっての柔道である」と。

組み手の多少の不利・有利にはかまわず、

そこからの工夫次第で勝つチャンスを生むのが柔道だから

お互いにそこそこ持てる所を持ってすぐに技を仕掛ける。

見る側もやる側もその攻防が柔道の楽しさ、面白さだとおっしゃる。

「山口香の『柔道を考える』から『自他共栄』」より

 

男子柔道の解説をなさっていた大野将平さんも実況で

今後の世界の柔道に対してたくさんの提言をされました。

「正しく組んで正しく投げる」はその重要な一つ。

柔道があらぬ方向へ行ってしまう危惧を感じての事でしょう。

また、将平さんは、世界の柔道を良くする進歩のためには

やはり、一本取る柔道を目指しましょうと言っています。

 

暴力まがいの戦術や、わざと相手を不利に仕向ける

卑怯な戦法や姑息な手段を使って勝とうとするのではなく、

鍛え上げた正当な技できれいにくるっと相手をひっくり返す、

一本を取りに行く美技を競うのが柔道です。

その流れで寝技も展開される柔道の面白みがある。

それにはまず正しく組み合って正しい投げ技をかけ合う。

これは対戦相手を敬う礼儀であり、相手への最低限のマナー。

基本中の基本のはずです。でも「JUDO」って勝てば官軍の、

勝てればなんだっていいズルさが横行してしまうので

それを取り締まる審判も「指導」の連発になってしまいます。

指導3つで何人も選手が敗退してましたよね。

自分が指導を取られないように、そして、

相手が指導を取られるように仕向けるのが

偽装攻撃らしくて、そういう計略に満ちた試合だから、

とにかく指導を次から次に取ったり、またそれを取り消したり、

審判が一番忙しくて、審判が常時目立っていて、

審判の動きばかり目についてしまい、競技どころではない。

いつ指導を取られるかと思うと、冷や冷やして、

これでは、選手の戦っている相手は審判ですよね。

だからその審判の判定に「?」のジェスチャーする選手も続出で、

権威のない、信頼感のない、頼りない審判団こそ

無数の指導が必要なのでは。

 

みんなでちゃんとした一つの柔道をしていないから

指導だらけのみっともない、ズルい疑惑の試合ばかり。

審判のほうで選手がズルしないように監視するから

その審判の目を盗んだ、もっと巧妙なズルの腕を選手は磨く。

そんなのは研究とは言えませんよね。

またそこからは、感動的な素晴らしい試合は生まれません。

すごいすごい、かっこいい、すてき、誇らしい、素晴らしい、

と拍手喝さいの大きな感動で、思わず涙が出て胸熱くなるから

子供たちの柔道人気にも火がついて

次代を担う選手が育ってゆくことになります。

この点では、阿部兄妹は、ここ数年死に物狂いの

厳しい練習漬けの合間にも、いやな顔一つせず

極力できるかぎりメディアに露出して

いわゆる広報としての役割にも尽力なさってきたと思います。

それは柔道界からもぜひにと託されたものでしょう。

多くの指導者が高齢で引退するし

少子化も手伝って近年の柔道人口は減少。

スポーツ危機とも言われて久しい。

お家芸衰退の危機ですから、世界のトップに立つ

若くて華のあるお二人がマスコミをにぎわすことも必要です。

お二人は畳の外でも大へん魅力的なお人柄ですから

テレビや新聞や雑誌、ネットなどでそれを見た子供たちが

柔道に興味を持つきっかけになるやもしれない。

そう思って、公私共にがんばっておられます、柔道界のために。

もしかしたらその折々に出会った

多くの子供たちや柔道ファンの人たちに毎日毎日

メダルを約束したかもしれませんよね。

ですから、負けたときの詩さんの悔しい心持ちは

私たちの想像をはるかにこえたものだったでしょう。

あの号泣は、思えば、あのままメダル獲得へ進んだよりも

千倍も万倍も大きな衝撃を国民に与えた。

これほどまでに自身の全てを捧げていたかと、胸打たれた。

 

阿部兄妹のように、ひたむきに真摯に、

柔道に人生を尽くす選手たちのためにもオリンピックは

全日程が終了した時にせめて、「五輪」の名の通りに、

一度は各関係者が集まって仲良く輪になって

今大会の良かったところ悪かったところを総括して

次の大会につなぐという事を真剣にやらないと

柔道の苦々(にがにが)しい問題はいつまでもなくなりません。

選手団、審判団、協会理事、運営スタッフなどなど

みんなで意見を出し合ってより良い大会にしていかないと

ただでさえ「利権ばかりむさぼるための」「品位のかけらもない」

「選手を食い物にするだけの」と、しきりに揶揄され馬鹿にされる、

ぼったくりの「見世物興行」になりかねません。

ひどいコロナ感染でも、大きな戦争やってる最中にも、

オリンピックを律儀に励行(れいこう)しなくては、

ビッグマネーの流れを当てにした関係各所は困るんでしょう?

だったら、よけいに価値あるものとして磨き上げ、

世界中の全ての人が賛同して、オリンピックを待ちわびるような、

それ相応の質の高い内容を充実させることがよけいに必要です。

 

予想が大きくひっくり返るような、番狂わせの、

勝ち負けの大波乱が起きると

オリンピックの魔物が出たんだとよく言われてます。

選手の競技を取り巻く大会の運営側が

問題を放置したままにしている、その努力不足を

「魔物が出た」と言い訳しているケースもある。

それは人為的に作られた魔物なので減らしていかないと、

もともとは神聖な、神々をあがめる体育や芸術の競技祭であり、

人類の幸せと平和が目的のオリンピック大会なのに

そこに魔物を出してしまってはどうにもなりません。

 

せっかくの武道の格式高い神聖な柔道が今、

無頼(ぶらい)がケンカをふっかけるような、

勝ちに目がくらんだ損得合戦の、醜い小競り合いになっています。

「JUDO」はまだまだ日本の柔道には程遠いもので

本来の崇高さがちっとも感じられない。

特に日本は柔道発祥の国として

柔道が何たるものか、その高い精神性を知らしめて

本家本元の伝統を世界中に広める義務がある。

そうしないと、日本の伝統芸を継承した日本人選手には

流す涙も枯れてしまう、つらい受難の時代が続きます。

その大きな苦しみと悲しみに耐えながらも当面は、

「JUDO」を超える「柔道」で立ち向かうしかないのでしょうね。

矢面に立つ日本人選手はその責任を背負って挑んでいます。

痛々しいくらいの、悲壮感あふれる柔道界の現状です。

阿部詩さんはそのトップグループをひた走る、

柔道界を引っ張ってゆく日本の中心選手です。

本当に頭が下がります。私の励みにいたします。

だって、詩さんは、また、もう一度、こんなにも大へんな

オリンピックに挑んでゆくのだと、勇猛果敢に宣言なさった。

一二三さんと共に日本の柔道をやり切って

日本の柔道の素晴らしさ、日本の精神性の尊さを

世界中に示したい。そのためのリベンジに燃えています。

頭が下がります。励まされます。

 

世界と日本の現状。私たちの人生と社会。それは、

パリオリの柔道を語ってどうなるものでもないと

言われるかもしれないし、また、それを語れるほどに私が

柔道に精通しているわけでもありません。

だから今回のオリンピック柔道について

こんな記事書くのは難しいな、やめよかなと思いました。

こんなにも、阿部詩さんの号泣に衝撃を受けたのだけど。

 

しかし「一事が万事」とよく申します。

一つの事象をよく見れば、すべての事象に通じていて、

結局すべての出来事の原因は同じ。

物事が別々にたくさん枝分かれして

別々のたくさんの葉をつけているかのように

はた目には別々に分かれた物に見える事も実は

その出どころは、同じ幹の同じ根っこというわけです。

阿部詩さんの悲しみも苦しみも一事が万事、

私たちに通じるところがあるのではないだろうか。

みんなが抱えている苦しみ悲しみと同じではないだろうか。

その同じ苦しみ悲しみを国民を代表して

国民の代わりに泣いてくれたのではないか。

なんだかそのように感じましたので

そうだとしたら、国民みんなのために頑張ってくれた

阿部詩さんは大会裏のMVP選手と考えられます。

 

遠いパリの空の下で日本選手が背負ったものと

私たちが日常で背負っているものは案外似通っていて、

問題も課題も同じものかもしれない。

敗退した詩さんが呆然と立ち尽くし、激しい号泣に至ったことも、

それはオリンピック柔道という特殊な場で起きた別世界の話ではなくて

それは、私たちみんながふだんから抱えているものと同じで、

あの日の詩さんの動向の、その一部始終を多くの視聴者が、

自分ごとのように共有して感極まって

寄り添っていたように思います。

 

同じ悲しみって何でしょうか。

前からずっと思っては来た事だけれど

このところは特に

「世の中に哲学がないな」と、そう感じています。

一番なくてはならない哲学がないのが大きな原因の一つで

だからみんな悲しくて、その悲しみが積もり積もっている。

 

人間とは何か。人間の幸福とは何か。

人間らしくより良く生きるとは何か。

こうしたことを自分に問い続けて

真剣に考えるのが哲学なのですが

その先に釈迦やイエスの説いた真理があります。

なぜ哲学なんかするのかと言えば私たちには

自分と自分のまわりの人を全部幸せにする使命がある。

この使命は曲げられない、各自に備わった共通の使命です。

誰一人悲しませたり苦しませたりできないからです。

それをあきらめたら種の死滅につながる、本能的な使命です。

もっと言うと、天地万物万人の全てが幸せでないと

人類一人一人の幸せも実現しない。だから全体の幸せを求めて

私たちは哲学をするようにできています。

 

本来そうできているのに、その自分を妨害して

何らかの縛りを設けて、哲学しないという事になると、

人間の道とは言えないので、これは自己否定・人間否定となって、

否定した者が否定される、そういう不幸な問題や課題が山積します。

それを長く放置したままにすると今のように被害と犠牲の絶えない、

地球規模の危機的状況を加速させます。

自己否定・人間否定の勢力はそういう破滅のシナリオを描いて

突き進む悪夢の中に入り浸っています。

その悪夢を見ないで、その悪夢から目覚めて、悪夢から離れて、

悪夢を共有することなく、人間らしく自分らしくあることが

一人一人に求められています。

そうすればその哲学が人間らしい自分らしい幸運をもたらし

その人なりに人間らしい自分らしい生活環境を

創り出して自分を救うことになります。

戦争体験の寄稿が数多(あまた)あるこの時期に、

漫画家のちばてつやさんの言葉が刺さります。

戦争はどんなに優しい人も鬼にするとおっしゃったからです。

鬼にふさわしいのは地獄です。

いったい今どんな世の中であろうとも、

人間らしい自分らしい、その人間性の輝きを

自分から捨ててしまって鬼のような戦争行為に走れば

自分で自分の人生を地獄にしてしまう不幸を招く。

これが自己否定・人間否定の末路なのです。例えば、

お金が全てで、お金のために争い、お金さえあったらいいと思うし、

そう思わせられてきた、経済先進国にはありがちな、

子供の時からお金だけあればいいと育ってきた低い意識が、

まったくその思い込みの通りに実現しており、結局お金のこと以外、

天地万物万人を全て失ってもいい運命を進行させてきました。

天地万物万人の幸福には無関心、無頓着な、金権社会で育てられた、

お金が人よりも一番偉いとする、人間否定・自己否定のなれの果てです。

これを今から回避するには、人間の原点に立ち戻り、人間とは何か、

哲学の入り口をくぐって高い理念の、高い精神性〈真理〉を回復する事です。

私たちは常に今何が自分らしさ人間らしさなのかを問うて、

哲学を失っている社会で起きる他人の苦しみや悲しみにも

寄り添える人間的な意識でありたい。

より良く生きる哲学を共に考えながらお互いが寄り添い続ける事で

そこにお互いの天国をこの地上に必ず見いだせる。

 

そしてそれはオリンピックにも言える事です。

人間らしさ自分らしさの躍動する真善美を前面に押し出して

人類に生まれてこれた素晴らしい幸福と平和の感動を

スポーツによって伝える哲学的な目的を見失ってしまい

品位の感じられないショービジネスになり果てて

目先の勝ち負けだけに熱狂したメダルの奪い合いでは

地球規模の危機的状況に巻き込まれて今後は途絶えるかもしれません。

非人間的な物事は否定される摂理が働いているからです。

非人間性で築いたものはすべて失われる時が来ます。

 

経済戦争〈お金さえあればいい、儲け主義〉は、

バラバラにお金を取り合う競争であり、私利私益を争って儲ける以外は、

衣食住も学問も教育も何もかもバラバラになり、精神性の統一は皆無です。

精神性が人によって違う、価値観がバラバラな社会は無責任社会です。

お金さえあればそれでよくて、他には何にも考えてこなかった、

全体の幸福を考えて行き届いた哲学〈人間性〉がない、

全体の幸福にみんなが責任を持たない、無責任は破滅の入り口です。

私利私益さえ確保すればそれだけで良しとする近視眼的で狭小な価値観です。

だから地球危機と言われる事態まで迎えてしまいました。

オリンピック上層部が急いで降りてきて「今の柔道の試合はおかしいよ」と

日本選手団みたいなことは言わないんです。疑惑だろうが不可解だろうが、

柔道の常勝国が負ける番狂わせのほうが盛り上がって興行は成功する。

全員の幸せと繁栄に寄与するようなオリンピック精神とか、

自他共栄の柔道の精神性とか、そんなことはどうでもよくなっている。

最初からそういう哲学で一つにまとまるくらいなら

人類はとっくに幸福と平和を実現してます、オリンピックが開催されなくても。

そこに早く気づかねばならないのです、人類は。

人間には人間の原点、柔道には柔道の原点の、理念がちゃんとある。

その理念の道具として、肉体も社会もお金もあらゆる物資も使う時のみ

天地万物万人は健康健全にいられるのです。

そこに戻って一丸とならない限りは多くの被害と犠牲と、号泣もなくなりません。

 

オリンピックのたびに柔道は誤審騒動が持ち上がる。

審判の質も海外と日本とでは違う。

メダル狙いの「JUDO」と「柔道」とは大きな差異がある。

日本と世界とではルールも異なっている。

日本発祥の伝統的お家芸であるのにもかかわらず

オリンピック柔道のあり方に是非を問うような

主導権、発言権すら日本にはない。などなど現状は

みんなバラバラに違ったほうを向いてしまい、

関係各所が自分勝手に暴走する混乱をきたしています。

選手の立場には立たないで、バラバラなままでごり押しする、

統一された調和を欠如した、非人間性を強いるものです。

特に日本柔道を継承する日本選手にとっては困難な情勢です。

選手をしっかり支え、この状況に立ち向かわせるには、

日本の組織力にも陰りがあるようですが、そこは批判しすぎても

詩さんら日本選手から逆に怒られそうですけどね。

でも、まず、アスリートファーストが尊重され、

何よりも競技をする代表選手みんなが幸福でなければ、

人類の幸福と平和に寄与する良い大会など実現せず、

それを見る観客も視聴者もオリンピックに意義を感じません。

こういう正論は、ずぶの素人の私がいちいち書かなくても

監督・コーチらスタッフの皆様が一番感じておられるでしょうね。

8月15日朝刊(読売)は「お家芸 組織力不足」と題して

阿部詩さんの敗退を柔道界の反省材料に据えています。

試合で対戦するときに露出しているのは選手だけで

詩さん一人で立ち向かっているように見えるけど

その後ろには日本の大きな組織があって

詩さんもその組織の一員と言う事ができるわけで、

選手はその組織の代表として試合に出る形で

試合には組織全体の威信がかかっています。

 

だから、いい試合をしてもらうには

組織全体が詩さんの心身を損なうことのないような

優れた調整と充実した支援を進めてこそ成果につながる。

その支援には私たち国民の応援の仕方も入るでしょう。

それらを総合した力が詩さんの追い風になれば

詩さんの持っている実力が十二分に発揮されます。

ですので、組織力不足で選手を支える事ができない場合

選手単独の一人相撲になってしまって

早々にあっけなく敗退する原因にもなりかねない。

そのことも私たちは知らねばならない、という事でしょう。

簡単に敗退するその要因として

選手を支える国民全体の力不足も挙がるのです。

 

個人個人の誠実で真摯な取り組みとは裏腹に

職場や上層部の体質改善など、働く環境整備がなかなか

遅々として進んでいない経験は誰にでもあるのでは。

今、亡くなった人も出たという事で兵庫県知事のニュースがひっきりない。

上からの法外な圧力やハラスメントなんて、もってのほかですけどね。

会社の上から下まで、みんな考えていることがバラバラで自分勝手で

まとまっておらず、社内の問題点や改善点を解消できない。

というのもよくあることで、その中で苦しんだり悲しんだり

悪戦苦闘を強いられて、それでも懸命に人間らしく自分らしくあろうとして

難しい状況と日々精一杯戦っている。だから、

それは柔道の選手も一般の国民もみんな同じ苦境だと思います。

同じ人間の悲しみとして痛切にその事を察したなら

詩さんの号泣に思わず胸が詰まる人もいたはずです。

みんな同じ空の下、同じ問題と課題を共有しているのです。

哲学がそこに欠けている社会なのですから

その共通の問題と課題に打開策を見いだすためには

まずはお互いに寄り添って進む姿勢が求められます。

欠けた哲学を補充して人間らしい自分らしい運命を創り出すには

まずは人間性豊かに寄り添う姿勢が先決です、何よりも。

できるだけ大勢の幸福を願う人だけが

自らも浮かぶ瀬を授かるというのが

この世の摂理なのであって、

分断、分裂を自分から生むような、寄り添えない姿勢の、

非人間的な性分では、その人自身が明日をも知れぬ運命になり、

明日をも知れぬ金権主義の経済戦争社会に巻き込まれてしまう。

 

日本選手の置かれている立場とかその背景とか

知ることの深い浅いは人それぞれであっても

多少でもそこに思いを寄せてゆくなら

自分たちと何ら変わることのない同じ人間同士の

悲しみ苦しみが察せられることでしょう。

だから、はるばる海を渡りその困難に挑んでいる

勇敢な選手の皆さんには、負けても勝っても

ねぎらいの言葉しかないのでは。と思います。

 

なので、もしも詩さんの号泣がなかったら、

いつものように私個人は軽い気持ちで淡々と

つまみ食いのようにあちこち観戦してそれで

過ぎて終わってしまうパリオリになったと思うので

詩さんの号泣が与える大きなインパクトによって

柔道の見方が一新された気がします。

人は人に寄り添ってこそハッとするような

気づきが多いと思うので。たかがオリンピック観戦、

されどオリンピック観戦。だと思いました。

 

「さいわいなるかな、悲しむもの。

その人はなぐさめられん」(マタイ伝5の4)は、

偽我(ぎが)で慢心(まんしん)しない人の事です。

偽物(にせもの)の低い弱い自分で満足してしまわない人です。

柔道の借りは柔道で返さないといけないので

絶対リベンジすると阿部詩さんも言っています。

負けた責任を全部背負う、けなげなコメントでした。

そういう人を周囲はほっておかない。だから次回は

チーム阿部詩の快進撃が見られるかもしれません。

国民がその中に参加して応援する気持ちを忘れない、

寄り添う心はいつも一緒だよと、

温かな人間性の意識を寄せて観戦する、

テレビの前の柔道ファンもいっそう増えればいい。

 

本当の自分、真我(しんが)は、こんなものではないので、

こんなこと〈2回戦敗退〉になった今回の自分のことが

非常に悔しくて悲しくて苦しくてたまらなかった。だからこそ

今回の負けをバネにして、次回に大きく飛躍したい詩さん。

 

だから、悲しむものはさいわいです。

現状にひどく悲しむ人だけが

飽くことなき改良、改善、改新に挑み続けて

本当の自分に向かっていって

本当の自分の実力をもっと発揮できて

本当の自分の幸福を達成できる人生になっていって

その人は本当になぐさめられる。満足する。

多くの人もその姿に感銘を受けて励みにするでしょう。

その幸福への扉はもうすでに開いており、

詩さんは歩き出しています。さいわいなるかな、詩さん。
 

金メダル第1号の角田夏実さんはそのお名前の通り

大会期間中の真夏にお誕生日を迎えました。        読売8/7

8月6日、角田夏実さんの横に阿部詩さんがいます。

7月28日の競技2日目で早々に敗退した詩さんでしたが

団体戦に向けて調整しているみんなの練習風景を見て

いつまでも下を向いていてはならないと思ったそうです。

その中に先輩格の角田夏実さんがいます。

二人の関係がどうなのか、実際のところまではわかりません。

ですが柔道個人種目で金を取った唯一の女性として

詩さんも何か啓発されるやり取りがあったかもしれません。

 

道着姿で立っている角田夏実さんの姿は

ものすごく強くてかっこいい、新・女三四郎を思わせます。

気性も考え方もポジティブ一辺倒(いっぺんとう)の人のようです。

試合後のコメントには、ここまで乗り越えてきたすべては

何事も自分の成長につながっていると、

大きな感謝をあらわす言葉が並びます。

何があってもそれが自分に必要な成長に必ず

役立ってくれるから、ありがたく祝福して、

すべてを自分の幸運へ、勝利へと、向かわせる

エネルギーに変えて進む強さ、たくましさ、賢さは、

これは、素晴らしい人生の哲学です。

そういう頼れる先輩が詩さんの近くにいた。

詩さんにとっては、山あり谷ありの、人生の先輩でもある夏実さん。

その夏実さんのフェイバリットソングが

サンボマスターさんの「できっこないをやらなくちゃ」です。

曲名からして強力な前向きのメッセージ性です。

その歌詞の一部は

「どんなに打ちのめされたって悲しみに心をまかせちゃだめだよ

君は今逃げたいっていうけどそれが本音なのかい?

僕にはそうは思えないよ」

「何も実らなかったなんて悲しい言葉だよ

心を少しでも不安にさせちゃだめさ 灯りをともそう」

「やはり自分じゃだめかなんて無駄な言葉だよ

心を少しでも不安にさせちゃだめさ 灯りをともそう」

「君ならできない事だって 

出来るんだ本当さウソじゃないよ

今 世界にひとつだけの強い光をみたよ

アイワナビーア君の全て!」

こういう歌詞の音楽をパリオリ目指して聴いていたであろう

夏実さんですから、敗退した時に詩さんは夏実さんから

何かしらのエールを受け取っていたかもしれない。

同じ選手団、遠くからでも近くからでも支え合ってると思う。

 

帰国後に出演した、8月17日の「Going」(読売テレビ)で詩さんは

次から負けた相手と対戦するのは怖さもあるけれど

その怖さを乗り越えて戦うことで成長できる。とコメント。

これからは一回り成長した自分を目指すと言いました。

「成長」発言連発って、夏実さん効果かな?って、

私の勝手な想像。でも、さいわいなるかな、阿部詩さん。

 

さいわいは、その前からありましたよね。

妹の詩さんが試合を終えた、そのすぐ後に

自分の試合が始まった兄の一二三さん。

妹のためにも自分がやらねばならないと固い決意で挑みました。

穴井隆将さんいわく「他を全く寄せ付けない、

圧倒的に完璧な柔道」で金メダル。

あれだけの号泣で取り乱し、激情をあらわにした、

妹の最大級の悲しみを一挙に挽回するためにも、

徹頭徹尾、自分たちが鍛錬して来た

日本の柔道をいつも通り冷静にやり切って、

礼法の所作一つ一つまで完璧なふるまいでした。

詩さんのこれからのためにも、詩さんを強く励まして、

兄妹の柔道を明日へと盛り立ててゆくためにも、兄の一二三さんは、

自分たちがとても大切にして来た、日本柔道の魂で挑んでいました。

堂々の結果をたたき出した一二三さんの頑張り。

勝利した試合後は、自分の事よりも常に妹に寄り添い

「詩は世界一強い。胸を張ってほしい」とのコメント。

2連覇を果たした王者の言う事に間違いはありません。

こんなにも妹を思う兄のかけた言葉が奏功しての事か、

詩さんは敗退のショックからきちっと切り替えて

自分の柔道をもう一回前向きにとらえ直します。

雨降って地固まる。詩さんの目に希望の光が戻ってきた。

団体戦を銀メダルへと導く一本勝ちで貢献しました。

さいわいなるかな、阿部詩さん。

 

ご家族が試合会場にいてくれたのも大正解でしたよね。

パリオリの前にNHK番組ファミリーヒストリーを見た私は

家族が一つになってこの兄妹の戦いを支えてきたことを知りました。

日体大進学のため故郷を離れて一人で

上京した詩さんがホームシックで泣きながら母親に

電話したエピソードも微笑ましい。

これまで世界一強いモンスターみたいに注目され

絶対女王の肩書を背負ってきたとはいえ

詩さんの中身は末っ子の、等身大の普通の女の子です。

それが、競技に必要な強い気迫を持ち続けて

猛烈に大きな期待も笑顔で背負いながら

昼も夜もストイックなほどの練習漬けで

何もかも柔道に捧げた日々を過ごしてきたでしょう。

他の同世代が楽しんでいる事も全部お預けにした、

明けても暮れても柔道一筋の生活でしたでしょう。

だから、まさかの2回戦敗退という、今までの自分が

粉々に壊されてしまう、受け入れがたい悲劇でした。

でも、兄の一二三さんがそばで自分の分まで頑張り抜いてくれた。

ご両親やご長男も一緒にいてくれたし

練習パートナーの森さんもしっかり支えてくれた。

試合後は、こうした身内、仲間内に温かく囲まれながら、

詩さんが観客席でおにぎりをほおばるシーンも

すぐに見られて視聴者はみんなホッとしてグーでした。

 

さいわいなるかな、悲しむもの。その人はなぐさめられん。(マタイ伝5の4)

 

この日の涙が報われる時が来ます。

 

悲しむのは、それを乗り越えるもっと強い本当の自分が

次に控えていることの証明で、その自分こそ本物の自分なので

そこには至っていない今の至らぬ自分を深く悲しんでいるわけです。

そういう、偽我で慢心しない人は、いつか真の自分を出してきて

なぐさめられる日が来る。これで良かったと、満ち足りた日が来る。

 

幸福(さいわい)なるかな、悲しむもの。

悲しみは、もっともっと幸運で素晴らしい次の未来が待つことの

証明みたいなもので、悲しみは喜びの前触れです。

悲しみとは、幸福を指さして、幸福へと道案内している、

幸福へ行かせたい道しるべなのです。

 

詩さんの号泣は、今までの自分自身が全部崩壊して

粉々になってしまう大きな悲しみでしたが

何倍もそれを上回るような、新しい大きな幸せに

めぐり合える新しい自分になるでしょう。

 

詩(し)を一つ、この記事の最後に捧げたいです。

詩さんには詩でお返しを、というわけで、この詩と一緒に

パリオリに挑んだ日本選手すべての健闘をたたえて

深く感謝して、選手の皆々様の幸福を信じております。

 

パラリンピックもどうかいい大会になりますように。

 

何もかも粉々に砕け散って壊れるような、

自分が溶けて崩れて流れて消え去ってしまうような、

そういう切実な、ひどく大きな悲しみは、誰にとっても

人生の大寒波とも言える、人生の真冬と言ってよい。

しかし同時に冬は、春の前触れともとらえられます。

 

 

越冬蛹(えっとうさなぎ)

 

朝日に照らされて

金色に輝く冬枯れの野を行こう

 

きしきしと芳ばしい匂いさせながら

落ち葉を踏みしめて歩こう

 

息も白い寒さの中で

命の力の充満を聴いてみよう

春の音に似た

 

あの低木の枝の下でひっそり

北風に耐えるちっぽけな身一つ

越冬蛹の中身はどろどろの液体

にもかかわらず訴えてくるのには

「私は立派な蝶です」の一点張り

きっと青虫の幼い時から彼女は

変わらずそう言い続けてきた

そしてそうなる

 

この冷たい地面の下に

誰にも知られない暗闇の中

越冬種(えっとうだね)が埋もれている

にもかかわらず力説するのには

「私はすてきな花です」の一本調子

きっと青空に旅した時から彼らも

変わらずそう思い続けてきた

そしてそうなる

 

どろどろと崩壊してしまう自分

誰にも相手にされない孤立した自分

人の世にも越冬人生がある

それはなりたい自分になる前触れ

だからだいじょうぶ

春が来たらお会いしましょう

新しく変身した姿で

 

きものと