38年前の古い昔話で、ごく個人的な高校生活の事です。

興味のある方はお読みください。

 

ドラマ「早春スケッチブック」は、山田太一・脚本、山崎努・主演。

1983年(昭和58年)1月~3月放送。

当時高校二年の私はその脚本を本屋で買って読みふけりました。

確かあとがきに、来日したある外国人から、

手厳しい批判を食らった山田太一さんの体験が書かれていました。

お前たち日本人は何という情けない暮らしをしているんだと指摘され、

精神性の薄さ、低さに、驚いて目を見張り、憐れんでいたという一幕です。

「経済大国」という見かけ倒しのからっぽさの上に

あぐらをかいた日常が見透かされています。

そのあとに、山田さんはニーチェの言葉を続けます。

「自分自身を軽蔑する事ができない、最も軽蔑すべき人間の時代が来る」と。

 

私はこの「軽蔑」こそ人生のターニングポイントだと思う。

自分で自分を軽蔑して、「このままじゃだめだ」と分析して、

心機一転、幸せな生き方へと奮い立たせるのが、軽蔑のなせるわざです。

軽蔑とは、ご縁のある他人に対しても、あえて心を鬼にして、勇気を出して、

軽蔑したクールな指摘をていねいにする。それはお互いの礼儀。思いやり。

現状が本当の相手の姿ではないから、

その嘘偽りを指摘して否定してあげることは、相手のためになります。

そういう神経(神の道)は、神様がそう仕向ける聖なる軽蔑で、相手を生かします。

放っておいて相手が不幸せになるのが見え見えなら、

こちらの軽蔑する態度は相手にとっては値千金です。

それをそうありがたく感謝して生かせる相手もいれば、

ぐずぐず反論してすぐには生かせない相手もいます。

軽蔑された直後には腹を立てて反発しても、

あの時言ってくれて、教えてくれて、本当に助かったと、

後々感謝して生かされる事が多いのが、聖なる軽蔑の矢です。

一度刺さったが最後、じわじわと効いて人生の転機をもたらします。

 

しかし、指摘されたら聞かん坊のように激高して反抗し、

余計にこれ見よがしに暴走していく場合もあります。

それくらい、聖なる軽蔑の言葉の矢が相手にショックを与えた事になります。

相手がニセモノの古い自分から脱出して、

新しく生まれ変わるのを緊急促進する浄化作用を果たしたのです。

「言わなければよかった」ではなくて、

相手が丸裸にされるような、図星を突く的確な軽蔑を

相手に与えてあげる事は、相手の人生に劇的な自浄作用を促します。

相手の再生再建を願って、その後の経過をしばらく見守りましょう。

相手が困った事になっても、それは聖なる軽蔑の矢が命中したおかげで、

悪運を反転させるブレーキがかかった現象なので、相手の恩人になる事です。

派手にこけて止まる事は、相手にとっていい勉強になるリセットなのです。

嘘偽りで積んだ砂の城は、軽蔑の言葉の波で崩れ去る運命で、

軽蔑によって素晴らしい転機をもたらした幸運と見るべきなのです。

 

軽蔑って、他人が本来あるべき姿の実相(神性・仏性)を見ています。

その実相と、現状のだらしない見苦しい姿を冷静に比較するなら、

相当に遠くかけ離れた落差がある。

そこに気づくのが聖なる軽蔑であり、どうしてそのような落差が今できているか、

それを相手に教えて知らせる事は、軽蔑が愛の範疇(はんちゅう)であるからです。

ソクラテスはそれを「魂の世話」と言って、人間愛の任務としています。

他人にしたらそれが転機になって、本当の自分に成長していくきっかけになります。

軽蔑する側の激怒も冷笑も、感情の調味料は、それぞれに軽蔑を彩る演出です。

相手の事を思えばこそ、自然に巧まず相手にとって最も良い演出が可能です。

あの時あなたのその表情があったからこそ、転機になって乗り越えたと

そう言ってもらえる時が来るはずです。言ってもらえなくても、

聖なる軽蔑の行為はやがて必ず相手に生きてきます。

そういう、相手の幸せを思ってやり遂げた勇気は、

元々神々が差し向けたものです。だから動じないのです。

 

この世の真理とは、自他一体で、みんなが一つの存在であるという事です。

例えば指先一つケガをしても、その影響は体の全体に及んで、

生活全体の不便と不調をもたらします。

だからこそ、体全体が指先を直そうと、総身の血液を一本の指先に集めて、

体全体の細胞が一本の指先の治療に専念します。

でないと、その指先の故障が原因で、体全体に危害が及ぶからです。

一時期の激しい痛みも腫れも熱も、それは治している証拠で、

修復工事中の騒音や振動にも似た、救急治療中のサインです。

人類も一つの体ですので、たった一人の不幸でも

人類全体の痛みとして連帯責任を負わなければ、人類の平和も幸福もありません。

ですから、どんな問題が起きても、私たちは一つですから、全員の責任です。

問題は大きな鏡であって、それを起こした全員の姿が映りこんでいます。

どんな問題でも全ての問題は、全員が原因であることを映しているのです。

誰がやったとか、誰が悪いじゃなくて、一人でも問題を起こしたら、

それを許すような環境を全員で作ってしまっているという責任があるわけです。

だから全員総がかりで修復と解決に乗り出す。

民主主義ってそういうのが鉄則です。どんな事でも全員に責任がある。

だから主犯だけを死刑に罰しても、世の中は「めでたし」になりません。

問題が出てくれば、問題という鏡に私たち全員が映っているのだから、

その意識で自分と自分の人生や環境を徹底的に見直す、起きた問題は全て鏡です。

少しでも見苦しい身だしなみや乱れた着衣がないか、気がついて直せばいいんです。

問題が出るたびに、その鏡をくまなく調べて、全員で改善するのが民主主義集団。

そのためには、時として聖なる軽蔑の的確な批判や鋭い指摘も欠かせません。

自分で気づかないで痛みの傷口を広げていく相手のためには特に。

 

だから、この世の全ての問題は、誰かを許すも許さないもない。

この世の全ての問題は、自分の姿を丸写ししているからです。

どんな問題も、問題とは、私たちの姿そのものです。

だから問題が起きてきたら、自分の軽蔑すべき改善点を調べて、

自分が変わる事を第一に求められています。

変わるとは、小手先の間に合わせなのではなくて、

人間が丸ごと変わって、新しい自分になる事です。

枝先や葉っぱの異常を気に病んで、切り貼りしているだけのごまかしでは、

人生の樹木は枯れるのを待つばかり。

諸悪の根源である根(心根)を丸ごと健全なものに変えなくてはなりません。

そうしないと、ごまかしだけでは問題は去りませんし、

ごまかしだけで済まそうとすると、問題もどんどん大きくなったり、

もっと深刻なものに変形したりして、ごまかして逃げる事を許さないのです。

要するに、何が起きて来ようとも、

この世の全ての問題に対して解決済みの自分になりなさいと、

起きて来た問題は今、総がかりでそう言っているのです。

見えざる心の根っこ(信念・信仰)が健全な人には、

その人の人生の目に見える枝葉には無限の幸せと繁栄しかありません。

問題を抱える理由はただ一つ、自分の心の根が無いか、根が腐っています。

健全な心の根を持ちなさい、心の根を健全なものに置き換えなさいと

問題は、問題に苦しむ人に毎日訴えかけています。

すでに全ての問題を解決している自分が本当の自分(神性・仏性)だから、

そういう自分にしてくれる精神性、

そういう自分になれる心境を早く見つけなさいと、

あらゆる全ての問題がそう言ってせかしているのです。

ですからそういう自分にみんなで成長していく事が必要です。

 

次々起きて来た問題は、心の根を替えないせいで解決しない借金のように

苦しみ、悲しみを支払い続ける人生になっています。

真理と信仰に目覚める事だけが、莫大な借金を棒引きにする唯一の策。

すでに解決している本当の素晴らしい自分。

すでに幸せになっている立派な真の自分に気づく事だからです。

起きて来る問題は本当の自分に気づかせる成長をアシストする味方。

 

問題は、全員に成長する余地がある事を知らせているのです。だから、

自分のほころびとか、乱れた格好とか気がついたら、恥ずかしくてたまらなくて、

「あ、ごめん、ここがおかしかった」と喜んで軽蔑するでしょう。

「ああ、ほんとね。私もいい勉強になった。ありがとう」とみんなで喜べる。

「ほら、ここ直しただけであなたとってもきれいね。さらによくなった」と祝える。

「私もあなたのおかげで直せた。うれしい」と感謝できる。

それが「聖なる軽蔑」なのです。軽蔑するから解決できるのです。

軽蔑は、本来あるべき美しい姿と現状を比較した落差を感じることで、

その落差を感じない人なんて本来はいないけれど、落差に気づけないで、

このままでいいやと放り出している状態が最も恥ずべき軽蔑に値する行為。

ニーチェはそれが最も軽蔑すべき人間だと言って、

そういう時代が来たと言って警告しているわけなんです。

 

落差を見ていないなら軽蔑にはなりません。

軽蔑には神の見地に立って相手を見る無敵の高見が必要だからです。

もはや勝負の決着ならとっくについているのです。

だから、同じ土俵に上がった言い争いやケンカの泥試合とは違います。

 

軽蔑するような汚れやゴミが自分に付着しているなら、

さっさと取り去って捨ててしまうと、

前よりも自分が美しくきれいになって本当の自分に近づく。

だから問題が出てくるって、

自分や他人が美しくきれいになっていくチャンスなんです。

自分も他人も素晴らしくなるのだから、軽蔑という手続きは

幸せになるすてきな前触れになります。

 

で、軽蔑する事ができないのは、自分と問題を切り離してしまうからです。

それが最も恥ずべき軽蔑すべき人間だとニーチェが言うわけです。

自分勝手な自由に放任された、利己的な個人主義の末路でしょうね。

せっかくきれいに鮮やかに今の自分の姿を問題という鏡が見せてくれても、

自分は映っていない、自分とは関係がないと言い張る無責任ですから、

解決する機会はチャンスロスになって幸運を逃し続け、

問題は先送りにされてへそを曲げ、ますます厄介な問題に変身します。

だから、自他を軽蔑できる事は、とても重要な事で幸せな事です。

何を基準に軽蔑するのか、それは生まれつきの神性、仏性です。

神様の立場で神様の見地に立って、恥ずかしい問題、いたたまれない問題には、

はっきり自他を軽蔑して、嫌だ、違うと感じてこそ、解決のきっかけになります。

日本は恥の文化と言うくらいですから、本来は神性・仏性が高く目覚めた国でした。

でもいつからか自他を軽蔑しない、臆病でびくびくの、なまくらになってしまった。

何でも「これは人それぞれだ」、何でも「これは人の勝手だ」と見て見ぬふりをして

そういう利己的な生き方を正当化して利権を与えてしまった。そのせいで

何が起きても自分には関係ないと言ってバリケードで分断して、

知らんふりで無関心を決め込んでいます、自分さえ良ければいいと。

自他一体の真理に背いた自他分断の利己的な世の中なのです。

起きている問題に自分がしっかり映り込んでいるのを無視しています。

ですから、知らんふりによって、この世の未解決問題は次々に増えます。

そしてその結果、結局、地球上の問題はどんどんふくらんで、

嫌でも全員を巻き込む連帯責任になっているではありませんか?

だから知らないではもう済まされないのです。

それなのにまだ、自分には関係ない知らないと高をくくっている、そういう、

自分を軽蔑できない人間が最も軽蔑に値する人間だとニーチェも言うわけなのです。

どの問題の鏡にも映り込んでいるのに、自分の姿を見ようともせず、

無関心でいる顔ぶれはだんだん決まってきて、

それはまるで手配書のように神々の掲示板に貼り出されています。

そのうちに何か特別待遇が用意されるでしょうね。

 

問題になる出来事と言うのは、大勢の想念の結集によるものです。

大勢が思っている事が形になって、問題になって表れているのです。

問題とは、大勢の心がどんな心か、映している鏡なのです。

「人間なんて卑しくてつまらなくて不完全なものだ」とさんざん言って、

自己否定の心が巣食っている以上は、

その通りに自分の存続が否定されてしまい、破壊や破綻の危機はなくなりません。

心を直しなさいと迫られているのです。問題が起きてくるわけは、

自分を見損なっている自己否定の心こそ、軽蔑して唾棄すべきだと気づかせたい。

人間が神の子、仏の子である自覚を取り戻しなさいと催促されているのです。

 

高校生活を軽蔑していながら、その軽蔑している中にいなければならない事ほど、

私にとって苦しくみじめな事はありません。

私には義務教育から疑問も違和感もありましたが、

高校になってはっきり鮮明になりました、学校には教育がないと。

1981年、昭和56年の春、入学した高校は、

地域でも一番歴史のある進学校という事で期待していました。

しかし私はすぐに幻滅。1年もたたず大きな軽蔑、絶望へと変わりました。

教育がない箱の中に思春期の子供たちがいるって、動物園と同じ。

放置された未熟な動物の群れの中にいるって、いたたまれません。

性欲、物欲、見た目の優劣、見た目の競争、そればかりがどんより占めています。

教師は授業で受験知識を切り売りする以外、全く姿を見ません。

実はそれ以外の事ができない人たちだったのです。

学歴尊重主義で受験知識に偏重している学校教育の実行責任者は教員。

その教師が家庭や世の中を洗脳して振り回していながらも、

子供に起きる問題はほとんど家庭の責任にされます。

そういう矛盾の構造に守られて、変わらなくてもいい無責任が教員です。

生徒はあと数年で成人するし、早い子なら卒業してすぐ社会人です。

それなのに、まだ人間になっていないし、全く大人になっていない。

放っておかれたままでは、自分で人間になる事はできない。

自分で大人に成長する主体性など持てないのが日本の公教育の結果です。

高校もハローワークみたいに、単なる進学や就職の斡旋所になっていて、

高校は世渡りのために行くところになり下がっています。

成人手前の、大人になっていく最も大切な時期にもかかわらず、

高校は人間性を養う所ではなくなっています。

この世の中で人としていかに生きるべきか、学校が問う事さえないのなら、

私にとっては何の意味もない、身の毛もよだつ動物園です。

私には教育を受ける権利があるのに、それを保証しない所には

何の用もない。一日席に座り続けるのは苦痛でしかない。

入学早々、個人的に本当にしんどくて、苦悩の日々が続いたのです。

 

高校三年間には知らぬ間に友達が退学していたり、自殺していたりがありました。

私は、彼らを引き留めて生かす教育が学校にないせいだと考えました。

もし学校に教育があれば、学ぶ意欲や生きる気力が奪われる事なんてありえないと。

男子トイレの中で「○○とやりたい。やりたい」と女子の名を盛んに連呼する者や

休み時間に他クラスから来て、女生徒を物色しては声をかける者たちも現れました。

合宿などで何やら夜遅くまでこそこそ起きる男子たちも、

目をつけている女子と早く肉体関係になるための相談事で、

そのまま興奮して辛抱ができずに自慰行為に及ぶ者の声もふすま越しに聞こえます。

級友が大学合格を決めた直後、彼の鼻息荒い切迫したセリフは

「あとは女や。女が欲しい。やりまくりたい」でした。

学校に教育がないという事は、生徒の人間性が低迷するという事です。

子供たちの前には、学歴や経済を争う戦場しかなくなってしまうわけですから、

人間らしいまともな神経でいられるわけがない。

人間性が満足に養われないせいで、一番丸出しになる獣性はケダモノじみた性欲。

学校は社会の縮図。

教育のない事によって人間性を見失い、絶望と欲望が渦巻くのです。

当時、高校の現国の教科書の論説作品に、

現代の若者は何もない焼け跡に取り残された、

精神的な難民のようだという表現があったと記憶しています。

一見、物は豊かそうでも、精神面は難民のように寄る辺なくさまよっている。

焼け跡に立ち尽くしてどこに踏み出せばいいかもわからない、

大勢が途方に暮れる心のままで来た事が、その通りの

途方に暮れて頭を抱えるような問題を量産する世の中にしたのです。

 

神様の授けた本能を鉄則として従っている生き物たちは、

まだ未熟な幼いうちから繁殖行動に出る事は絶対にあり得ません。

小魚でさえ自分が立派に成熟した大人になった上で巣を作り上げます。

そこまで着実に整えてから、初めてメスに呼びかけ、

自分の実力をしっかりと見てもらうのです。

小魚にも劣るのが現代の人間社会です。

人間が人間になる教育がないために、人間とは言えないものになっています。

神様は本能によって人間が型通りに動くだけの存在ではなく、

自主的に人間性(神性・仏性)を無限に引き出す存在にしました。

そのために学校教育があるのです。

教育がその目的を失えば、お互いを非人間的な私利私欲でしか見なくなる。

本来は大人の夫婦生活で粛々と生かして使うはずの性欲も、

もう十代から暴走させて、女と見るや幼かろうが未成年であろうが見境なく、

自分が快感をむさぼるための性欲処理のはけ口にしようとします。

自分をケダモノに貶めるから、相手の事も否定して破壊する事になります。

女子が男子の自分勝手な動物じみた欲望に安易に身を任せてしまい、

自分を安売りしてしまった時に、互いの自己崩壊は止まらなくなります。

簡単に手軽に利用して都合よく欲望を果たせる相手はすぐに飽きて、

使い古しの価値のない人形に変わり、捨てるのもかまいません。

これに味をしめて、新しい快感を求め、

複数の女性を渡り歩いて被害者を増やします。

妻や婚約者の存在を隠して他の女性と関係を持つ詐欺師もいます。

結婚しない相手を妊娠させたり中絶させたりする事は殺人と同じ。

 

同種の植物の赤色と白色の花。

そのお互いの花粉(生殖細胞)で交配させる実験で、

赤と白のまだら模様の花が咲くのは、

互いの遺伝の特徴が出た当然の結果です。

この花の交配実験では、接ぎ木によっても、同様の結果が出ました。

接ぎ木では花粉は関係がなく、茎を流れる栄養細胞が交じり合っただけ。

この事から、生殖細胞であれ、栄養細胞であれ、

体液は互いに影響を確実に与える事がわかったわけです。

ある種の鶏の卵から黄身(生殖細胞)だけ生かして残して、

白身(栄養細胞)は全部抜き取ってしまう。

そこへ別の種類の鶏の白身に置き換える実験では、

替えた白身の鶏の特徴を持った雛が生まれています。

 

また、2013年にヨーロッパの学会で発表されたハエの研究。

産卵して生まれて来たハエの姿形を見ると、

その産卵に関わった当のオスではなくて、

それ以前に交尾させたオスの特徴が色濃く出ています。

つまり、これら生物学的な実験の事例から、

互いのどんな体液も、相手の皮膚や粘膜などから吸収されると、

それはいつまでも自分に深い痕跡を残すのはもちろん、

子孫に遺伝的な影響を与える事を示しています。

2012年までに、医療機関や大学の研究により、

人間の母親の体内にも脳内にも

妊娠した胎児のDNAが残ることが明らかになり、

それはその後に妊娠した胎児の中にも入る事が指摘されています。

 

こういうのは昔からテレゴニーと言われて、

童貞と処女の重要性を説く根拠の一つとなっています。

童貞、処女を守ってきた者同士が結婚を決め、

生涯連れ添って愛し合い、不倫も浮気もない事が

安心で健全な性生活を続ける道です。

神仏の見地に立てば、元は一つの人間の魂が、

この世では男女に分かれてしまっているのであって、

それが元通りに一体になる働きが結婚です。

昔は「貝合わせ」と言って、たくさんの二枚貝をバラバラにして

どれとどれがぴったり合うか、見つける遊びがあったそうです。

二枚貝のように元は一つだったから、自分のもう半分と一つになりたいし、

出会って一つになる喜び、一つになる幸せが結婚にはあるわけです。

二人の魂が一つに戻った結魂の表れが、肉体の性交です。

誰でもいいわけではないし、複数人いるわけでもありません。

だから、人間はこれと決めた半身伴侶が現れて結婚するまでは、

その運命的な待ち合わせまでは、そのお相手のためにも、

その相手に恥ずかしくないような、その相手にふさわしいように、

清い孤独の中で立派な素晴らしい自分になっておくのが礼儀。

その心構えがただ一人の運命の相手を見極めて探し当てます。

その決意と覚悟のない所には一家が安住する安泰はなく、

幼稚な男女の軽はずみな結婚による離婚が多発します。

もしも何回も離婚歴のある人たちで国中がごった返すとしたら、

もはやその国は一夫一婦制ではないのと同じになります。

それは、不定住で群れる野生動物の世界です。

内緒にして隠し通さないといけないような複数の性的過失は

自分の半身伴侶に対する裏切りです。

不特定多数の性交渉は性感染症の病原体保持につながり、

夫婦同士の健康を危険にさらす事になります。

固い一夫一婦制は病理学の観点からも人間のあるべき姿なのです。

 

人間の男女が、夫婦になって子供を作るためではなく、

ただ欲望のままに性交渉をして、複数の相手と交わって、

自分の中に複数の人間の特質、要因、要素、

遺伝的な情報で混濁させてしまう。すると、

いろんな人間の血が混じったような子供が生まれてくる。

そういう人間の親や子供の心身に

何か不自然で異常でアンバランスな事態が

起こりはしないかという心配があります。

不特定多数との行きずりの場当たり的な性交渉では、

お互いの性的な履歴がわからないまま性行為に及びます。

相手からどんな病的な危険因子が伝染するかもしれない、

性感染症はその最大の危険です。

エイズやクラミジア、HPVによると考えられる子宮頸がんも

思春期の若年者にも増加傾向である事が

日本学術会議などで問題視されてきました。

 

性交渉の経験人数に比例して、HPVやB型肝炎ウイルスの感染で

がんリスク、慢性疾患リスクが高まる事が指摘されています。

HPVの持続的な感染をもたらす大きな原因の一つとして

人間の性行動と過去の性履歴が深く関わっています。

例えば、夫が妻以外に性交渉の相手を持ったり、

過去に夫の性行為の開始が低年齢であったりすることも、

妻の体調を崩して健康を損なう原因になりうるのです。

夫婦互いの性行動、性履歴が互いの健康に無視できない。

 

エイズが出て来た時に人類は思い知ったはずです。

人間が欲望のままに何をしてもいい存在ではないと。

本来あるべき姿を見失って、神の道を外れたら、

必ずしっぺ返しを受けて、自滅する事になります。

そういう時には、生まれ持った良心がとがめて、

道ならぬ道へ行こうとする自他に歯止めをかけるような軽蔑が

必ず心の中にわいてくるはずなんです。

その聖なる軽蔑に従う事が今求められています。

 

性欲に引きずられて複数の異性と性交する事は心身の純潔を汚染します。

それが自分の心身に悪影響を及ぼしていて、

その時に人間らしい結婚も人間らしい親になる資格も捨てるのです。

そういう人が子供を作っても、何か先天的、後天的な問題が

子供に出てくる可能性が高い。と私は考えます。

それは、神様が設定した道から外れた自己否定だからです。

性欲優先の暴走は、自然の摂理、神の摂理に反しています。

目先の欲望を優先するセックスマシーンは人とは言えない代物で、

神様はそんな物を万物の長として作っていません。

我が身、我が子が否定される出来事が起きても当然の報いです。

 

野生動物の群れとは違い、人間は一人一人が誰も代わりのいない、

この世にその人しかいない唯一無二の存在です。

その唯一無二を大切にする事は

お互いを深く敬って、絶対に侵害、蹂躙(じゅうりん)しない事です。

自分が特別な唯一無二の存在だからこそ、貝合わせのように

自分に合う結婚相手も特別な唯一無二の人として存在しています。

その相手と巡り会って、夫婦という一つの完全体になることが

結婚(結魂)であり、性交も一つの夫婦になった肉体表現です。

ですから自分の半身伴侶だと確信する相手と結ばれない限り、

みだりに簡単に誰とでも性交渉を持つなんて事はできません。

もし不特定多数の遺伝子などの侵入を勝手に許してしまうと、

もうそこで唯一無二の自分とは言えなくなってしまいます。

性暴力で自分がまるでドブのようになってしまったと、

そう言って苦しむ被害女性の証言記録からも、

むやみやたらな性欲の利己的な暴走が

人をひどく汚染して傷つける侵害と蹂躙である事を物語ります。

 

女性が複数の相手と性交、もしくはそれに準ずる性的接触をして、

相手から分泌された唾液、精液、血液など、

相手のさまざまな体液を皮膚や粘膜から吸収して、

その痕跡は、いつまでもその女性の体に残り、体内を循環しています。

その女性の中に相手が土足で踏み入った形跡がしっかりと残ります。

それは精神的にも肉体的にも取り返しのつかない痕跡です。

これをもって「純潔が汚された」と言うのであって、

結婚する気もない相手とのむやみやたらな性行為を戒めています。

その後に大切な運命的な男性に巡り合えたとしても、

彼との性行為で出来た子供が彼だけの子供とは言えなくなり

その家系の継承者とは言いがたくなります。

しかもそうやって生まれた子供の心身に

どんな難解でアンバランスな問題をはらむかも知れないのです。

自分が不確かで何者かわからぬ苦悩を背負い、

その事を親に向かってつきつける子も出てくるでしょう。

安易に多くの異性と性的な関係になることは、

自分の中に複数の絵の具を無造作に注入するのと同じです。

複数の色が混ざるとどす黒くなっていきます。

もう何を混ぜても黒い。元の光彩を消し去るのが黒色。

そのどす黒さが、親子にどのような心身の異常や

人品に隠せない雰囲気を醸し出すか、計り知れないのです。

人はそうやって、人柄、家柄、町柄、国柄へと築いていくのです。

軽はずみな無責任の影響は、自分や自分の周囲の運命まで

黒く塗りつぶしてしまいます。

あの世の空の上から、子供になる候補の魂たちがのぞき見て、

複数の男のたくさんの手あかのついた、汚された体内を見て、

そんな異常な母親のおなかを自分の家にしたいと思う子がいるでしょうか。

個人の体内に複数の遺伝子がかく乱して、

もはや自分が何者なのかも特定できない。

自分が自分でなくなっても平気な自己否定、自己破壊の極み、

その状況を破廉恥(はれんち)と言うのです。

 

男性にしても同じです。唾液、膣分泌液、血液など、

皮膚や粘膜から相手の体液を吸い込んで、相手の情報が、

複数人分ぐるぐる体内を駆け巡っています。まるで異様な多重人格者のようです。

いくら口で偉そうな事を言い、偉そうにふるまっても、信用できない怪しい臭いが

体中から発散されているのは、まるで遊んで捨てた女性たちの怨念です。

過去に傷つけた女性との性体験を、まるで略奪した戦利品のように考えて、

逃げ得した儲けのように感じてほくそ笑んでいるのが人の顔したケダモノです。

その人間否定、自己否定の罪を償う時がやって来ます。

だから、そんな男性がさんざん遊んだ挙句に結婚しても、

あの世の空の上から子供候補の魂たちが観察して、

こんな気持ち悪い男を父親にしたいなんて、まともな子が思うわけがありません。

また、こういう男性が娘を授かると、男性は複雑な心境になります。

自分が傷つけた女性たちにも親がいたのだとわかるし、

自分が親になって親の心境に初めて気づく。

将来、自分がしたのと同じような目に娘が遭う事を恐れて悩みます。

親の報いが子にたたるということが実現してからではもう遅い。

実際に親になってみるまで、自分の悪逆非道な行いがわからないようでいては、

この国にはやはり何の教育もない。そう言い切ってよいのです。

後悔するようなひどいことを他人様の娘にしておいて、

自分の娘は幸せになってほしいなんて虫けらが考える虫のよい話です。

 

若年者に対して、性交するなら避妊しなさいと言う風潮ですが、

性交と妊娠は切っても切れない、分かちがたい一つの事です。

それを粘膜の快感だけをむさぼりたくて、快感だけを目当てにして、

性交と妊娠を切り分けて考える事は、

お互いを快感だけが目的の性処理人形としか見ていません。

これは人間否定、自己否定の最たるものです。

避妊処置によって妊娠しないことを理由にして、

いくらでも相手の女性の肉体をもてあそぶことが正当化されます。

気違いみたいに利己的な性交、私欲の射精だけに突き進む暴力は、

真剣に相手の人生を考えないで、結婚なんてうわの空で、

私利私欲で性交を無理強いする非人間的な行為です。犯罪です。

避妊具でもピルでも、避妊したからといって、

相手は性処理目的の奴隷には変わりがなく、

自分勝手な都合で相手を虐げて、傷つけることに変わりがない。

まだ結婚など眼中にない、学生など若い人たちは、

一時の欲望に目がくらんで性交することで、

自分も相手も親などのまわりも確実に傷つけて不幸にする。

性交はあの世のベルを鳴らすお知らせですから、

神様と子供候補の魂たちがいっせいに下界を見下ろして、その瞬間、

ものすごく躊躇(ちゅうちょ)します。不幸が目に見えているからです。

まだ幼稚な子供の男女の所へ行って、大切にしてもらえるわけがない。

そこへ降誕するのは、自分を虐待するような自己処罰ですから、

自己処罰を欲する魂が降りてくるケースが多くなります。

罪深い性交へ、それにふさわしい罪の意識を持った魂が来るのは、

類は友を呼ぶ、同じ穴のムジナ的な親和の法則です。

妊娠や出産で子供が起こす悲惨な問題に苦悩させられて、

人としての成長へ無理矢理にお尻をたたかれるのは、

精神面を置き去りにして欲望に突っ走った自業自得。

 

立派な人格になって、人間性の豊かな大人になって、

それなりに社会的、経済的実力もつけていく事が先決で、

初めて結婚は視野に入ってくるし、結婚する環境(愛の巣)も整ってきます。

何一つとして整っていない、欲望だけで突き進んだ子供同士の性交では、

天も地も人も祝福する者はどこにもないという事を肝に銘じるべきです。

結婚後の成熟した大人の夫婦の間で正しく扱われるのが性欲という神聖な道具。

それ以外に生かす道のない道具ですから、それまでの管理が重要です。

家庭でも学校でも充分な性教育がないと管理ができず、凶器に早変わりです。

要するに欲望は、性欲でも何でも子供たちの勝手にさせて、

自分たちをひどく傷つけるような、

自己否定や自己破壊の手段に使わせたいのでしょうか。

人類は今そうした憎悪で凝り固まり、

お互いに自己破壊願望の坩堝(るつぼ)なのです。

互いに傷つけあって不幸になればいいという潜在意識が動いています。

そこに自分や自分の子供をゆだねたいでしょうか。

 

心にあるものは実現化しないでは消えて行きません。

過去に激しい性遍歴がある人たちは、

それを秘密にして黙って隠しているから、まだ形に表して済ませていない。

だから再婚してもすがすがしく新しい気持ちになる事が難しくて、

心の中で重たい罪の意識として持ち続け、やがて現実化して、

新しい人との夫婦仲や出産や育児に、問題を作って浮上させる事が多い。

例え何かの拍子に過去の不始末や隠し事を打ち明けて懺悔(ざんげ)しても、

それを聞いてくれる相手がよほどの器(うつわ)でない限り、

たいていの人間は動揺して受け止める事ができず、離婚の危機になります。

だから昔の事は全部秘密にして、苦しみながら墓場まで持って行こうとする。

だからこそ内緒の性遍歴も異性間トラブルもないに越したことはない。

もしも過去の罪に押しつぶされそうなら、生まれ変わるしかない。

「色即是空(しきそくぜくう)」とは、全ての物質が心を表すという事。

心によって全ての事物が変わるのだから、

過去も過去の自分も、今の心を入れ替えるときに、生まれ変わるのです。

過去は変えられないと思うのは、今を生まれ変わる気がないからです。

今、神の見地に立って、神によって新生するのです。

私たちはもともと神の子仏の子。今その輝きへ立ち返ることができれば、

その輝かしい今を中心にして、未来も過去も照らされて見違えます。

罪の闇は消える。罪などないからです。

それくらい、神の子仏の子へ劇的に生まれ変わる強い自覚がないと、

過去の罪の意識はいつまでもくすぶり、災いを起こし続けます。

初婚であれ再婚であれ結婚式が尊いのは、

神前、仏前であれ、神仏の前で二人が自分の過去をリセットするような

心の底から生まれ変わる決意を覚悟するからです。

神仏によって新生して、互いのために新しい人間になって、

新しい家庭を作り、新しい家族の一員になる。

その、生まれ変わって互いのために生きて、

新しい家の新しい幸せのために自分を捧げるのだという、

その浄化されるような決心がなければ、結婚とは言えません。

結婚式とは、単なる上辺だけの通過儀礼ではないわけです。

人間が丸ごと生まれ変わるのでなくては、愛を誓った事にはならない。

最高の愛とは、真理を知って、信仰心を持つこと以外にありません。

神仏を何よりも愛する事が、生まれ変わったことの証明です。

神仏を愛してこそ、神仏から授かった奥様や子供たちを

かけがえなく神聖化して大切にすることができる。

神聖化する神聖視とは、神の見地で物事を見る事。

自分も他人も神聖視できない、神仏によって何一つ新生できない、

不浄の罪の意識のままでは、結婚式を挙げようと、何を挙げようと、

俺はどうせこんな人間なのさと自己否定の泥沼から抜け出さずに、

奥さんも子供も苦しめる利己的な欲望へ走ってしまうわけです。

 

高校の先生も変わった人が多くて

数学の先生が授業中、一番こわい物が何か教えてやるって言うのです。

「ヤクザはこわいぞ、ぷちゅっと刺されるぞ」と真顔で言ってました。

生徒の誤答に「お前はバカか」と怒る言い草も印象的でした。

英語の先生はタバコ臭く、ポケットのじゃり銭を片手で鳴らしながら、

時折さだまさしさんをけなしました。

現代人気歌手の書く歌詞は、口先の甘っちょろい詩ばかりで価値はないと。

さだまさしファンクラブ会員の筋金入りのファンだった当時の私。

何かしら先生に思惑があったにしろ、

さださんをこき下ろす必要があったでしょうか。

社会科の先生は、私たちに天皇制の無意味を論じ、廃止を訴える人。

先生が授業で皇族を身振り手振りで非難し続けます。

要するにどれもこれも個人的な感想で、教材としては昇華させておらず、

これからの私たちに何の感銘も感動も起こせる内容ではなかった。

常に国民の幸福を考え、戦争に反対のご意向を昭和天皇が持たれていて、

軍部の勝手な暴走に葛藤して苦慮していた事は、

調べる気さえあれば充分にできると思います。

軍人でさえ戦争責任から逃げて無実を主張する中、

天皇が国民に詫びて頭を下げようとするのを

時の内閣政府が阻止した事も今はわかっています。

自分はどうなってもいいから国民だけは助けてほしいと懇願し、

マッカーサーを驚かせた天皇のご姿勢も事実だと思います。

普通は保身ばかり望むのが敗戦国のトップだから、マッカーサーはびっくりした。

いや、そんなことより、そもそも、なぜ数千年も天皇制が維持されてきたか、

他国には見られない、この天皇制の意義を掘り起こして説明してくれるような

教育者をこの国は全く欠いているから、「君が代」も論争の種にしてしまう。

そのうち日本の天皇が世界のトップリーダーになると言ったのは、

人類の英知と言われたアインシュタインですが、外国の人です。

なぜアインシュタイがそう言ったのか、日本人にはわからない。

いつも日本の事や日本人である価値や役目について無自覚で、

わかっていないのが日本人で、自己存在意義が欠如しています。

日本の独特の文化さえその意味が分からず、ないがしろにする学校の先生。

だから、それは一方的なヘイトスピーチ同然の騒音です。

自由憲法だから、何を言ってもいいというものではなくて、

研究を尽くした上での責任を持った意見でなくてはならない。先生は特に。

しかし、どれもこれも酔っ払いが路上で何回も繰り返す愚痴に似て、

「また始まったよ」「先生、また言ってるよ」と

私たちは是非もなく、ただただあきれていました。

あきれている子はいいとして、正しいと思い込む子もいたはず。

 

報道の数字は、氷山の一角との意見もあります。

頭でっかちの勉強だけで資格を与えて、「先生」と呼ばれてしまうからです。

先生が人間になっていないのに、人間の子を育てられるわけがない。

特に教師は聖職であって、神の見地に立てる人でなくてはなりません。

子供を教えて育てるという事はそういう事なのです。

教師が生徒に性被害をもたらすなんて、その教師を作っている

高校や大学に教育が全くないことを露骨に物語っているわけです。

 

昭和57年、高二の私は中退も視野に入れて担任に相談します。

学年主任でもあった担任は、簡単に学校から中退者を出したくない。

また、中退後の行き先が私には確定していなかったせいもあり、引き留めます。

何か特殊能力があるわけでもない私が、公教育に背くような真似をして、

先の将来性を閉ざすようなことをするなと。

嫌だからと言ってすぐ逃げないで、嫌な状況を変える努力を何かすべきと、

よくある、まことしやかな文言を並べ立てます。

伝統校が長年それでいいと思って続けてきた、その閉鎖的な教育体制に対して、

生徒一人に何とかしてみろと丸投げするなんてその場しのぎの詭弁です。

私に中退後の行き先が何かあれば、間違いなく行ったでしょう。

でも当時、高校以外に特別な選択肢なんて思いつきません。

苦痛でも我慢して行かなくてはならないのが学校の現状です。

高校くらい出ておかないと、就職先もないのが経済社会の現実。そのためには、

奴隷のような服従が美徳に思われている。だから高校には、

黙って寝ていても毎年子供たち(客の入り)はたくさん集まるので、

そこに現場の教師があぐらをかくと教育も何もあったものではない。

 

だからと言って、安易に中退や登校拒否はすすめません。

目の前の選択肢が学校なら、卒業までは自分を生かしてみるべきです。

だから私の担任の説得も一理はあったと思っています。

人の間にいるのが「人間」です。人が学ぶのは人の中です。

自分たちの子や孫も通う事になる学校教育に対して、

何がもっと必要で、どこをもっと改善すべきか、学ぶ権利の充実のためには、

自分が最後までそこにとどまって体験して、改善点を見届けなくてはなりません。

それは国民の義務です。

それなのに、特に他に優先するような行き先の希望もないのに、

自分の勝手な好き嫌いで人間を避けて閉じこもってしまう事は

自分が人間をやめることに等しいと私は考えます。だから、

世捨て人のように避難して引っ込むのは偉いと思いません。

私たちは神様の見地にみんなで立って、みんなと関わる中でお互いに

イヤな事はイヤと言うべきで、違うなら違うとはっきり軽蔑して見せなければ

世の中は成長しないし、良くなっていきません。

 

引き留められる理由は何であろうと、

学校にとどまって私なりに何かしなさいと言う、

私が生まれつき持っている、責任あるその役割を

自由に行使してみなさいという、神様からのお達しだったと思います。

そういう自由がぽっかりと私の目の前に用意されて授かったのです。

そしてもうその時には、ホームルーム(学級活動)を統括するような、

生徒会組織の一部署を担うリーダーでもあったので、

「生徒総会」を希望できる立場的なお膳立てもできていたわけなんです。

 

生徒総会は1983年、昭和58年1月のことです。

私は登壇して、在籍する教師と生徒全員に向けて、

自分の抱えた問題を見せるような話がしたかったと思います。

言いたい事を言いたいように言えばいいのです。

そうです。イヤをイヤと言い、違うを違うと断言して引かないために私はいました。

当日は受験直前だった三年生を除く、千人近い在校生を講堂に集めました。

生徒総会は5時間くらいだったと思います。

今で言う「大炎上」総会だったにもかかわらず、

ほとんど退場者はいなかったそうです。

1月の寒い中、体調を崩した子もいたとかで、38年後の今も気にしています。

上靴を忘れ、靴下のまま壇上に上がりかけた私に、

靴を貸してくれた子も忘れていません。

よく4、5時間も、ほぼほぼ一人でしゃべり続けたと思います。

途中、質疑応答があって、私に意見、質問したい人が列を作りました。

それに応じるという形でも長々と話し続けたと思います。

この生徒総会の1週間後に、改めて私の考えを文書にして各クラスに配り、

B4サイズの紙に意見や感想の提出を生徒全員に願いました。

その私の文書なら今も残っています。しかしそれに対する当時の反応にしても、

それもまた「大炎上」と言うべきで、まじめに書いて寄越したのは20名程度です。

あとは無記名の文句や不満や言いがかりもあったし、

無記名の誹謗中傷が多かった。その何百枚を何日もかけて読み通しました。

そういう不評の責任を問う声も生徒会組織内にもあったと思います。

自分たち役員が八方手を尽くしてせっかく段取りしてあげたのに、

大勢から反発された生徒総会になった事は不本意だったはずです。

私の総会を開くのを手伝った自分たちまで敵視されて悪者になり、

私が原因で生徒会組織全体の評価を下げてしまった。

要するに自分たちの頑張りを私が全部台無しにしたと。

それに対してはお詫びやお礼を言って、ねぎらいもしたと思うのですが。

でもこの総会の意味などわかるまい、わかるまいとずっと思いました。

だいたい、学校に教育がないという批判を私はずっとしてきているので、

生徒会(教科外の教育活動)だけがまともであるはずがない軽蔑がある。

今台無しになったのではなくて、すでに台無しになっているのです。

ただの例年通りの惰性で生徒会活動も進んでいるにすぎなかった。

そんな無意味なものは直ちに停止するか、

壊してしまった方が、かえって後進のためです。

学校に教育があるのか否か、それが最大の注目点であるべきです。

そこに通う子供には人として学ぶ権利が保障されており、

ホームルームも生徒会活動もそのための教育活動なのです。

そこに立脚点のない人とは話が合わないのは当然です。

教育がないのなら、もしくは不完全なものであるなら、

リセットして学校教育の立て直しを叫ぶのは、これは国民の義務です。

 

陰で「あの生徒はいい事言うてたけどね」という先生も数人いたそうですが。

また、直接言われたわけではありませんが、裏に回って、

二度とあいつにあんな集会を開かせるなと、

お触れをお出しになった先生もいたとか。

私に私なりのアクションをすすめた二年の担任は開き直るしかなくて、

「もっとやれ」と私に言ったので、きっと職員内でもいろいろ分かれていたんです。

 

私がもし高校生活をやり直すとしても、この総会だけはまたするはずです。

自分にも周囲にも大事な事をしたと思っています。

もう一度繰り返しますが、何か問題を広げて見せるという、私の軽蔑は、

大きな鏡を持ってきて全員の前に置く事なんです、軽蔑する事とはそういう行為。

「これはなんだ」と問題をつきつけられて、動揺しない人はいません。

腹を立てたり、困ったり、反発したり、ちゃかしたり、リアクションがあります。

それが私に対するもので、私に向けたものだと思っていたら、誤解です。錯覚です。

問題をつきつける軽蔑は、鏡を広げている事だとくれぐれも申し上げます。

その鏡を見てみんなが反応したのだから、その反応は、どんな反応であれ、

間違いなく鏡に映った自分自身に対して向けられたもので、自分を見た反応。

自分を見て感じている事が、私に対するリアクションとなって表れているのです。

だからそれは自分に対して思っている事なので、

その通りの人生になっていきます、そのままでいたなら。

脳科学でも示している通り、脳は人称判断しません。

「あいつが悪いねん」と言った時には、自分が悪いと判断して、

自分は悪い奴だと潜在意識に刻み付ける事になり、それを償う運命になります。

いろいろな問題が起きて、全ての問題を見せられてつきつけられて、

どんなに自分以外を攻撃してたたいて、責めて責めつくしても、

それは全部自分の事として自分の運命に返ってきます。

それは、結局私たちが一つだという、自他一体の真理を裏書きしているのです。

だからこそ、お互いに学び合える姿勢と感謝をもって、

どんな時も互いに相手のためを祈り、互いに相手の幸せを願う事が、

実は自分を助けて救い出す運命にもつながるわけです。自他一体だから。

相手が軽蔑して言う事には、必ず自分にとっての気づきが含まれていて、

互いにそれを大切にすることは得ばっかりで、とてもありがたいのです。

 

私がみんなにつきつけた問題の中に世界の戦争がありました。

私はホームルーム運営委員長という肩書でしたので、

生徒総会もホームルームの改善を呼びかけるものに相違ない。

ところがその私が、世界では今戦争が起きていると言い出すわけです。

それなのにお前たちは高校生にもなって

一体何をしているんだと言う私の態度です。場内騒然です。

「あほか。ホームルームと何の関係があるんだ。

世の中に文句があるなら、お前が総理大臣になれ」と

質疑応答のマイクに向かう一人が反発し、場内は拍手喝采です。

この侮蔑は、私に向けられたものでしょうか。違います。

国際情勢がホームルームと無関係だと思ってしまうほど、

ふだんのホームルームの時間は遊びやゲームばかりです。

幼稚園児並みの面白おかしい事しかやっていない。

ちょっとでも何か話し合いの場になると無関心でそっぽを向いて

意見の一つも出てこない。出せない。

そういう苦渋の報告は毎日各委員から聞いてます、私は。

だから世界の戦争なんて、発作的に自分に関係ないと判断します。

そういう、お楽しみ会ばっかり開いている幼稚園児のような

幼い自分たちの姿が瞬時によく表れていて、

自分たちの事を明確に言い当てている発言だと確信しました。

最近は小学生でもみんなで世界平和について真剣に考え、

たくさんのレポートをまとめる子たちもいる時代です。

ホームルームと何ら関係ないと言う高校生はもう通用しないのです。

 

フォークランド紛争(1982)、イラン・イラク戦争(1980~1988)、

ソ連のアフガニスタン侵攻(1979~1989)などなど、

世界各地で数えきれない戦争が、私たちの高校の時にも

リアルタイムで起きて、たくさんの人が毎日死んでいました。

その、山積みにされた死者の残酷極まりない映像が、

日本に送られてテレビで映し出されました。

イラン・イラク戦争は湾岸戦争とも言われていて、

タンカーや石油施設の破壊による海洋汚染も深刻になりました。

海も空も世界は一続きになっていて、日本だけ関係ないなんて言えません。

米国が各地の戦争に関与したなら、

その同盟国・日本も影響を受けて自衛隊派遣で浮足立ちます。

自分たちのそばに自衛隊の親の子がいるって、考えないでしょうか。

少なくともあと数年で成人して、この社会へ、世界へ、

大人の人間として生きていかねばならない私たち高校生が、

世の中の戦争について話し合ったり、討論や議論を先生も交えてする、

そういうホームルームを一切持たずに遊び惚けてばかりで、

「ほっといたらええねん」と先生も職員室にこもってくつろいでいる。

だから、「ホームルームと何の関係があるねん」は、

そういう平和ボケの姿を指摘されて、その通りだと認めている発言ですね。

人間とは何か、人間の幸福が何か、それをみんなで突き止めて、

その通りに生きていかなくては、兵器戦も経済戦も戦火は拡大するばかりで、

戦争がなくなっていくことはありません。

人を人として育てる学校がその役割を放棄するなら、戦争に加担するのと同じ。

だから「ホームルームと何の関係があるねん」じゃなくて、

ホームルームこそ密接な関係があるんです。

平和や幸福について話し合う事は、戦争をなくす最も重要な活動です。

教育者ならそういうホームルームを組織できないといけない。

そういう人間的な実力が教師にないわけです。責任感もない。

 

「お前が総理大臣になれ」は、もっと深刻な事です。

民主主義の根幹を揺るがしにしていますね。

誰かに丸投げして涼しい顔をしている日本国民の依存症を見ます。

国の事は全部誰かが責任をかぶってやればいいのであって、

自分たちは指示待ちの横着な身分。お得な提案だけ欲しがる現金主義。

その分高い税金払ってるんだからちゃんとやれと言う、横柄な態度。

よく日本の国民性が出ているなぁと感心させられています。

自分たちの事を本当によくとらえていると思います。

だから、一つ一つのクラスも社会の縮図と言えるわけです。

ホームルームは面白おかしい、得になる事はするけれど、

肩の凝るような面倒なまじめなことはリーダー任せにする無責任、無関心。

 

討論も議論も話し合う能力を磨くのは、民主主義には必須の科目です。

校内のいじめも虐待も互いに発言し合わない悪習が発端です。

討論、議論が子供同士に定着していないなら、これを深刻ととらえて、

教師が意見を出し合う習慣をつけさせなければなりません。

そしてね、意見を出したり持ったりするために、勉強の必要が出てくるのです。

何冊も名著、良書をかたっぱしに読破するうちに、それが血肉になっていって、

その愛や知恵を自分の言葉として使えるようになる。それが人格です。

エロ本や漫画の本しか読まないのは、

校内で人としての意見を求められていないからです。人扱いされていない。

生徒はただ黙って言われた通りに受験知識を暗記しておればいい。

家畜のように言いなりにして言う事を聞かせて、

家畜のようにエサだけやっておけばいい。と

子供たちの事を放し飼いの動物のように思っているから、子供たちも

人間性の品性のかけらもないような、低レベルの精神性のままで、

動物のようにただ食って寝て、性行為ばかり考えている。

 

だから総会の私の軽蔑によって、生徒も教師もどこか気恥ずかしい。

私に向かって悪態をついてみても、なんだかいたたまれないし、うしろめたい。

それで面目なくて、あいつにはもうしゃべらせるなと言う先生も出てくる。

あんな総会開かせて、恥ずかしくて、よそに言えないわけです。

それは全部、鏡で見た自分の姿がみっともないと感じているのです。

だから、いろいろ言われた私のほうは一つもへこんでいない。

行列を作った質疑応答でいろいろと言われ、その後も

何百枚も中傷する内容をじっくり読んでどんなに罵倒されても、

発言も文章もそれを出したご本人の人柄を表しているだけであって、

なんで私が傷ついて落ち込む? 傷つくなんてあり得ません。

読めば読むほど、生徒たちの人柄がよく出ていて、

ああ、大成功だったなと感じます。

「なるほど、なるほど」が連発する人間観察の貴重な資料になります。

人間の言っている言葉から、今の世の中の事が詳しくわかります。

私にはありがたいと言うしかありません。あんな質疑応答に巡り合えて、

こんな資料もたくさん読めて、退学してたら学べなかったことですもの。

あの時の在校生はみんな私の恩人でしょう。

 

みんなに自分と向き合わせる事は、非常に大切な経験をしてもらう事です。

相手が怒ろうが何しようが、何を書いてきても、それはご自身の姿です。

それに気がつくか気がつかないかはその人自身の人生設計によるのです。

とにかく言葉の表現で出したものはもう元には戻りませんからね、

その言葉の創化作用で出てくるものを確実に受け取り、

自分の姿に気づく時がひんぱんに訪れるのが、自業自得の素晴らしさ。

自分の表現って、どこかでそれをその通りに身に沁みて認める事に必ずなる。

そうなるための、少なくともみんなが自分と対決する自己対面の鏡は、

私はしっかり用意してあげる事ができたわけです。

人生のターニングポイントになる軽蔑の場を作った。

だから20名のまじめな感想の中には、その感謝もありましたよ。

自分と向き合う機会をくれてありがたかったという生徒もいるのです。

自分の事としてちゃんと受け止められる人もいたという事です。

わかる人にはわかるわけです。

 

この生徒総会の前の月は、1982年(昭和57年)12月。

さだまさし「夢の轍(わだち)」がリリースされ、もちろん買いました。

このアルバムに「前夜~桃花鳥~(ニッポニア・ニッポン)」という曲があり、

歌詞を全文書いてみます。

 

 

イラン・イラク戦争で子供を抱えたまま死んでいる家族を

写真で見たのがきっかけで、さださんはこの曲を作り上げました。

こういう歌も私たちの日常の問題を映す大きな鏡です。

聖なる軽蔑を自分に向ける事ができる作品(アラーム)は、

偉大な芸術家の素晴らしいお仕事。「前夜」という歌は、

さださんというプロの手腕にうなってしまう、神業のような歌詞の世界。

さらにこの曲のメロディーによってその歌詞が心の中に染みて来ます。

すると、どんなに忙しくても、今どんな目に遭っていても、

1日に5分でもいいから、世の中みんなが幸せである事を

心から祈ろうと思わせます。そしてそれは相手のためだけでなく、

必ず自分の人生のためになります。

それは自分の人生に幸せな明かりをともしていく行為です。

再三言う通り、脳は人称判断せず、人の幸福を思い描いて喜ぶ言葉を

自分が幸せになったと信じて潜在意識にインプット。そのために、

他人の幸せを思い描く喜びは、自分の身に健康と幸運を招くのです。

だから「情けは人の為ならず」なのです。

私たちは自他一体の真理で一つにつながっており、

世界を滅ぼす利己的な考えでは、自分の居場所まで滅ぼします。

他人の事なんて関係がなくてどうでもいいと思うのは、

自分が孤立してどうにでもなれと命じる事に等しいわけですから

世界の幸せを信じて思い描く祝福が、自分を幸せにする唯一の道です。

しかし日常の卑俗な自分を軽蔑できなければその道は開かないでしょう。

自分なんて卑俗な存在だと思う卑下そのものが卑俗なのです。

日本の今の教育ではこの自己卑下を助長する事ばかりです。

 

自分や周囲を低俗で卑俗な存在と思いこめば、その通りの

不完全な状況を招き寄せるのは当然の結果です。

神の見地に立てなければ、招いた不幸を軽蔑する事すらできません。

不完全とは、そこにまだ完全が一つも現れていない事を指します。

不完全は光の差していない暗がりみたいなもので、

光が現れたらすぐに消え去ってしまう、初めから無い物です。

無い物を勝手に怖がって絶対的な力を与えてしまっている事を

低俗、卑俗で、軽蔑に値すると申し上げたいのです。

不謹慎のそしりもあるかもしれませんが、

ここに一つの可能性について申し上げます。

例えば、進行性の難病にかかっている患者さんの中に割と

元は医師だった人たちも見受けられます。

しかも多くがまじめで誠実で献身的なタイプの医師です。

病気の患者さんに親身になって寄り添う、患者の身になって

患者と一体になってしまう親切な先生方です。

そういう診療を20年も30年も続けてきた医師が難病になり、

身動き一つ取れないようになってしまう。その原因の一つには、

長年多くの病気に寄り添うばかりに、人間が病気になる不完全な弱者だと

そう繰り返し強く潜在意識に印象付けてしまい、

だから助けなくてはならない、救わなければならないと日夜絶え間なく

人間のかわいそうな不完全さばかり見て意識し続けたからです。

四六時中手のかかる不幸でダメな存在だと焼き付けてしまった。

それは、病という低俗卑俗の迷妄に全面降伏した事になり、

その心理的事実を自分の身体で表現してしまう事になります。

本当に寄り添うべきは、神の授けた人間の神性・仏性であり、

自分や患者の中に、病などない完全な姿を見る事が本当の医療です。

神性・仏性の強烈な自覚が、間違った思い込みの障壁を打破して、

自然治癒能力を活性化して健康復活に至らしめるのです。

ですから、人の幸せを思い描いて祈るという事も、

神仏から授かった人間の完全な姿を心で見る事ができないと、

かえって自分や相手に良くない状況を招く要因になると私は思います。

 

さださんはご自分でご自身を炎上歌手だと笑っています。

それだけの勇気がない人は、歌わない方がいいとも言っています。

「口先だけの甘っちょろい歌手」ではない覚悟だと思います。

奇しくも生徒総会に立つ直前にこの曲が発表されて、なんだかシンクロですよね、

高校二年の私は追い風の力をもらっていたと思います。

 

この世の真理は自他一体であって、私たちは一つの身体なのですから、

自分たちの国さえよければいいという理屈は成り立たないわけです。

他国から出たコロナが世界中に蔓延したように、

他国で起きている事も全部私たちの身体の一部なのですから、

私たちに影響しないという事はない。地球は一つなのですから。

身体の一部で起きたことも、全体に責任があって、

全体の改善を求めないと、部分部分もよくなっていきません。

その事を意識したところに教育がないと、それは教育とは言えない。

全世界の幸福と平和のために今もっと

人間とは何か、いかに生きるべきかということについて考えないと、

日本や日本人であることの役割もどんどん見失っていきます。

 

「前夜」では日本のトキの野生絶滅と日本の国の行く末を重ねました。

日本特有の種がなくなる現象は、日本が日本らしさを失っていく表れです。

日本各地で固有種、在来種が存続危機にある事は、

池の水をぜんぶ抜くテレビ番組でもよく紹介されており、

トンボの聖地と言われる新潟県糸魚川市の池でも

生き物を見境なく食い荒らすブラックバスやブルーギルが大繁殖。

多くのヤゴが捕食されて、在来種48種のトンボが28種に激減。

青い悪魔、外来種ホテイアオイも日本各地で問題になっています。

古来、日本の自然を支えてきてくれた、

日本の自然に必要だから棲んでいた生き物たちがいなくなり、

日本の生態系も自然の風土(生命力)も衰退します。

自然界は、お互いが頼り合って生かし合っている間柄なので、

1種類でも何かいなくなると、連鎖的に全体を滅ぼす事になります。

これは、日本らしい日本特有の美しく豊かな自然を壊す事を

日本国民が自らの手で進めている事例で、一事が万事です。

自分の娯楽、快楽のためには手段を選ばず、後始末もできない。

むしろそれを個人の自由な権利として主張して収拾がつかない。

バレたら何でも法律やお金でかたをつければいいと考える。

そういう非国民的な、どう猛な外来種のような人間を

たくさん作って放して泳がせています。

日本を守るべき日本の国民が日本を荒らすのなら、

日本はもう滅びるしかない、現代はその「前夜」というわけです。

 

先に述べた「天皇制」についても私なりに申し上げたいです。

日本は古代から神仏を敬ってまつり、心の信仰を大切にしてきた民族です。

何もかも神仏の意に添うように、神仏にお伺いを立てながら、

畏敬の念を払いながら、神仏と共に一つになって暮らしてきたのです。

それはもう、遠い遠い過去の事かもしれませんが。

長く心の中心に大切にしている事、信じている事が、

目に見える現実の世界に姿形になって表れるのが心の法則です。

そうです、思考は現実化するからです。

であるなら、ひたすら心に神を思い、心に神を立てて来た民族には、

国民のその心象風景が、現実社会に形になって表れてくるわけです。

日本国民の自然な心の実現化が天皇制だったのです。

だから天皇は、選挙や契約などの利害関係で生まれたのではなく、

日本国民の心そのものとして、日本国民と一体の存在として生まれました。

常に神仏を立てて拝んで感謝する生活が、その心の表れとして、

目に見える現実の世界にも、自分たちが心を尽くして

崇拝できるだけの中心的リーダー、その偉大で絶対的存在を

発生させて確立させて数千年も続いてきたのです。

このような国は日本以外にはない特別な事です。

アインシュタインが地球上のトップリーダーと讃えた所以です。

それが日本という国の先祖代々からのアイデンティティーです。

日本を支える永住者は全員その子孫ですが、戦後の非教育に毒されて

真理も学ばず、信仰心もありません。心の中心には利害打算の競争しかない。

今のように国民の心の真ん中に神仏がいなくなっていったら、

神仏の国日本のアイデンティティーは、影も形も引っ込んでしまいます。

その勢いで、天皇制に意味がないと言い始める国民も出てきます。

皇室が今〝象徴〟という御立場に甘んじているのも、

皇室のせいなのではなく、国民の心象風景がそうさせているのです。

貴い日本文化のその神聖な意義も、損得勘定の天秤にかけられて、

あっさり捨ててしまうのが今の日本人だからです。

それは、古来から継承してきた日本人の価値を自分に問う事で、

自分の事を見て、日本人として全く意味もない生き方だと言うに等しい。

だから、天皇制の問題も、自分を映す鏡なのです。