窓を開けると、何処からか藁を焼くにおいが漂ってきた。風がそよと、僕の頬を撫でる。表の通りでは、黒と赤のランドセルが二人並んでリコーダーを吹いていた。曲はなんだろう。聴いたことがある気はするけど、なんという曲だったかまでは思い出せない。
君からの手紙を、たぐり寄せる。
君は知っていたのかな。
この曲の名前を。
「手術は、そうだね。一週間後を目途にしておこうか。簡単なバイパス手術だから心配は要らない。少し時間はかかるけどね」
生まれつき心臓の悪かった僕は、中学卒業を間近に控えたある日、病院のお世話になることになった。高校に行ったら、これまで参加できなかった学校行事にどうしても参加したかったから。
それから検査と投薬のために早めに入院することにした。具合が悪いわけじゃないので、準備はほとんど自分でやることにしたけど、お母さんはなにかと世話を焼いてくれた。少し恥ずかしかったけど、嬉しかった。
ある雨の日のこと。何処からか歌声が聞こえてきた。
窓を開けてみると、声は隣の病室から聞こえてくるみたいだ。何気なく僕は、窓から首を出した。
女の子だった。歳は僕と同じくらいかな。淡い水彩画の様な、風景に溶け込んでしまいそうな感じがした。
その子は僕の方をチラッと見た。少し笑った気がした。
高く澄んだ声が、雨の音に溶け込んでいく。
雨樋をはじいた雫が、霧になってまた空気に溶け込む。
やがて雨粒は歌声を包み込み、ここから見える家や、通りかかる人の傘、丸くなって眠る犬の屋根に、静かにそっと降りそそいでいった。
「雨が好きなの」
歌い終わったその子は、恥ずかしそうにそう言った。
それから僕と彼女は、窓越しに話をするようになった。時々手紙のやりとりもした。彼女の手紙は、必ず最後に可愛らしいイラストが描かれていて、一人の時も、それを眺めているだけで暖かい気持ちになることが出来た。だから僕は、寂しいと思ったことは一度もない。
「海、行ったことある?」
「あるよ。お母さんの田舎、海が近いから」
「いいなあ」
「君は行ったことないの?」
「ずっと入院してるから」
「そうなんだ……」
「━━━━でもね」
そう言って彼女は空を見上げた。
「ほら」
紫色に焼けた夕焼け空に、オレンジ色に反射した雲が浮かんでいる。
「海に見えない? 空が海で、雲は島」
「ああ……」
本当だ。海に見える。まるで、空の上から夕焼けに染まった海を見下ろしているみたいだ。
「これがわたしの海。きれいでしょ?」
「うん」
それから二人、看護師さんに注意されるまで、ずっと海を見ていた。
手術が終わり、三日ほど集中治療室で過ごした。その間僕は、手術の前の日に、僕の似顔絵と「がんばれ!!」と書いてくれた彼女の手紙をお守りにしていた。
その日は朝から雨だった。歩けるまで回復した僕は、窓を開けてみた。少し待ったけど、彼女は顔を出さなかった。
退院の前の日、看護師さんに一枚の手紙を渡された。
そこには海と、空と、雲が色鉛筆で描かれていて。一言「ありがとう」と書かれていた。
僕は看護師さんにたくさんのことを話した。
高校に行ったら部活をすること、修学旅行にも行くこと、体育祭にも文化祭にも出ること。友達もたくさん作って、たくさん遊びに行く。夜遊びだってするし、ひょっとしたらお酒を飲んじゃうこともあるかもしれない。夏休みには、一人で旅にも出てみたい。知らない街を歩いて旅するんだ。テントと寝袋、飯ごう炊さんなんかしたりして。そして一杯、一杯勉強して、お医者さんになりたい。そんなことを、とめどなく話した。
全部話終わった時、看護師さんがそっと、
「もう泣いてもいいよ」
と言ってくれた。
手紙を置くと、外はもう夕方になりかけていた。
君が最後に見た海も、きれいだったのかな。
ごめんね。
僕はまだ、まっすぐに君の海を見ることが出来ないんだ。
こんなにきれいなのに。
風が頬をそっと撫でた。
君の声が聞こえた気がした。