田口線を訪ねる旅もいよいよ田口駅です。
田口駅跡はダムに沈む事が決まっており、現在は跡形もありません。
私たちが訪れたときはかろうじて人が入れる建物の形を呈していましたが、21世紀になって訪れたときはすでにつぶれており、残骸でしかありませんでした。
田口駅
道路公団の工場を越えると、そこが終点、田口駅である。
25年間放置されたままの田口駅は、こけむした屋根のあばら屋にしか見えなかった。中にはいると、それでも改札口・切符売り場・待合い席などが残っている。
中に掛かってる「名倉屋」外の電柱の「丸物」の看板などに往時を偲ぶ事ができる。
ここではまず写真やビデオを撮ったが、特にビデオは勝手がわからず、悪戦苦闘した。それでも何とか形になる事はできた。(このビデオ、残念ながら残っていません)
我々が悪戦苦闘している中、生徒たちは童心に返り、切符売り場や川に降りて遊んでいた。そんな彼らが駅舎から出たとkは蜘蛛の巣だらけであった事は言うまでもない。駅の横には宿直室か何かが残っている。当時の生活を感じさせる1962年のカレンダーが残っていた。
駅舎、詰め所のところは現在倉庫と気象観測所があるのみであった。
田口駅では海老駅の時と同様の感動の出会いがありました。
が、この様子は次回の後半に述べたいと思います。
田口線の思い出
田口線と言っても、僕が小学校の頃に廃止になったのであまり覚えていません。僕が田口線と言って思い浮かぶのはリンゴ飴のことです。
小さい頃、僕の周りで大きなお祭りといったら鳳来寺のお祭りしかありませんでした。それで、田口線に乗ってお祭りに連れて行ってもらったのです。
お祭りといったら楽しみはいろいろなものを買ってもらう事でした。その中でもお祭りでしか買う事のできないリンゴ飴は一番の楽しみでした。リンゴ飴を食べながら田口線に乗る、というのは幼い僕にとっても年に一度の楽しみだったのです。
小学校になって自転車に乗れるようになると電車代を浮かし、そのお金でたこ焼き(当時のたこ焼きは3個が串で刺さった団子のような形でした)を買ってもらおうと思い、自転車で山を越すようになりました。でも、その道は大変なもので、電車が僕たちを追い抜いていくごとに後悔したものでした。
(当時田口高校教諭 I先生)
追記
文中に出てくる「名倉屋」は私が田口高校に勤務していた頃まではまだ経営していた田口の町中にある旅館。そこの一人娘も当時田口高校に通っていました。
「丸物」は昭和50年代まで豊橋駅前にあった百貨店。丸物百貨店は当時豊橋最大のデパートで屋上には遊園地があり、6階には東宝の映画場がありました。以前述べたゴジラ映画も昭和ゴジラはすべてここで観ました。小学校の頃、丸物に行く、というと前の日からわくわくしていた事を思い出します。
丸物はちょうど西武ライオンズができた頃、西武デパートに変わりました。映画館はありましたが、遊園地があったかどうかは覚えていません。
大学時代たまたま西武デパートのところを通りかかったら、ちょうど西武ライオンズが日本一になった瞬間で、振る舞い酒をいただいた事もありました。
その西武デパートも今では跡形もなく、ココラフロントとして新しい豊橋駅前の
顔に変わっています。
時代の移り変わりと共に大きく変わりましたが、若者、学生、家族連れの憩いの場所である事は変わりません。