今日の、「紺美」さんのブログを読んで、感じたことを書いてみます。
我々の病気は、進行速度が比較的緩やかな場合が多くて、真綿で首を絞められながら、死に向かっているようです。
自分が、どのような死に方かと想像するに、そのうちベットから起き上がることもなく、場所は自宅ならいいが、病院のベッドで一日の殆どが夢うつつの状態が想像されます。
僕の血筋の同病の人たちの生き様や死にざまをを見てそう思いました。
ただ、息をしているだけでは、生きているとはいえません。
人の世話になりながらでも、自分の意思が表現できて、目標を持っていたい。
あと、どれだけそんな時間が残されているのか、考えない日はありませんが、絶対に右肩上がりにはならない、段々命の灯が弱くなるのが肌で感じます。
そんなことは、感じたくありませんが、人間は早かれ、遅かれ浄土に行くのです。
ですから、今のうちに出来ることを、と思って外に向かって行動しています。
しかし、人の望みには際限がなく、一つやり遂げても、別の望みが生まれてきます。
それを煩悩というのでしょうか?
そのうち、体は動かなくなり、諦めることが殆どになった時、自分の大脳は耐えられるだろうか。
大脳が、呆けてしまえば色んなことを感じなくてすむ様になる。
そうなれば、自分の存在意義も感じなくなるので幸せかもしれない。
しかし、周りに迷惑をまき散らすことになるだろう。
本意ではない。
自分で、その線を引く判断が出来れば、まだ時期ではないのだろうし、線を超えてしまっては判らないだろうし・・・
堂々巡りです。
結局、「しゃぁ、あんめい」なるように任せるしかないのです。
時々哲学的に蒟蒻問答をしているうちは、生きている価値があるのかな。