波乱含みで、始まった学園生活。
お国自慢などを交えた担任教官、副担任教官、それぞれの自己紹介で、どんな人間なのか想像しながら、名前と顔を覚えていった。
担任教官は、四国の松山出身で、クラブ活動では軽音楽を担当していた。
K教官といいます。
ポケットからマッチ箱を出して、これを指で弾いて、箱とマッチ棒がぶつかる音でも音楽が楽しめる、授業後は音楽で楽しみましょうと、勧誘していたのが印象的でした。
そして相手を呼ぶ時、××さんとか○○君、なんて呼ばないで「かずやん」「うえちゃん」「しゅうやん」など、自分で決めた愛称で呼ぶことが多かった。
私は、同室のHSが、めいじん(名人)呼ぶので、クラス全体から「メイジン」と呼ばれるようになった。
今でも、くだけた席ではメイジンと呼ばれます。

副担任は愛知出身の、管理者養成のためにあった、中央学園の大学部コースを卒業した人です。
愛知出身のドラ狂でした。
M教官といいます。
学園生活後半にM教官のワンボックスが私を運ぶ、救急車になりました。
そのエピソードは、後に書かれるでしょう。

寮生活で、お互いを知り合うには、酒を酌み交わすことが手っ取り早い。
鈴鹿学園には、我々専門部生のほかに、短期で電気通信技術を習得するためのコースがいくつも走っており、常時2000人ぐらいの訓練生が寮生活を送っていた。
それらを、狙って学園周辺には、飲み屋、スナック、焼肉、中華などの店が、いろいろあった。
学園正面を出て、右側には「ホームラン」、ここはホルモン焼きの店で、上等ではない内臓を中心とした焼肉を出していた。
昔、食中毒を出して、営業停止になったこともあったらしい。
学園の前は国道23号が走っており、スピードを出した車が、四六時中走っていた。
学園生が被害者の交通事故間発生したと聞いている。
そのため、少し遠回りになるが、横断陸橋を渡るように、注意がでていた。
しかし、国道を横切る者は後を絶たなかった。
記憶が交錯しているかもしれないが、中央分離帯(あったかな)の植木が、学園生が横切るので、そこだけ、生えていなかった?かもしれない。
国道を渡った学園の向かいには、蓬莱軒という中華料理屋というか、ラーメン屋というかがあった。
そこで、ラーメンを食べるものはいなく、一皿48個の餃子の大皿を頼み、餃子で酒や”サッポロソフト」という
味も、匂いもしないアルコール度数の高い焼酎を飲んでいた。
そこの、名物はこの餃子の大皿を2枚、30分で完食したら、餃子代はタダで、そのほか、サントリーオールドが一本商品でもらえた。
その挑戦で、完食した人たちの写真が、何枚も貼られていた。
この、成功の裏には、その数十倍の人の失敗があったのだろう。
毎日、ホルモンも、餃子も満員だった。
「ドクタースランプ あられちゃん」が始まった年で、ホルモンを突きながら、テレビを見た記憶がある。
学園内にも「オアシス」という学食の夜版みたいな場所があり、冷奴や、枝豆をつまみに、お互いを知り合っていた。

後年、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した1985年8月12日は、交換機のソフトの勉強で、 再び鈴鹿学園に入っていた。
ホームランはあったが、蓬莱軒は無くなっていた。