けいちゃん的な日々

昭和56年4月に、第8回専門部技術化電話班に入園した。


27歳だった。


3回目の挑戦での合格だった。


仕事をしながらの挑戦で、酒の味を覚えたり、大人の遊びの中で苦手な数学や電気物理の勉強を続けるのは誘惑に弱い私には、結構辛かった。


しかし、晴れて入園。



けいちゃん的な日々
電話班8組、教官達を含めて入園の記念撮影


電話班の他、線路、土木、電力、搬送、無線、データのコースがあり全国から800名?くらいの若者が集まって来ていた。

電話班は1クラス25名前後で8組編成の200名くらいだった。


その頃のわが社職員は30万人ぐらいいて、毎年1万人くらいの採用と退職があり、健全な新陳代謝をしていたと思う。


専門部は高卒が対象で、入社4年目から、入ることが出来る。


ですから、22歳が最も若い。


私のクラスにも数人いた。


30過ぎの人も、偶にいる。


我クラスでも2名いた。


女性も数年に若干名いる事があるという。


その年、岐阜から1名の女性の園生がいて、我クラスに、在籍していた。


学園の気風は、戦争中の鈴鹿航空隊があった場所ということもあって男くさく、質実剛健であり女性の入園生がいる年は、いろいろ考慮しなくてはならず、大変だったろう。


年齢は22歳から32歳くらいで、殆んどが独身であるが、我クラスには妻帯者、夫帯者がいた。


家族を、それぞれ地元において来ている。


私は、全体では年配組の方だった。


同年は3名いた。


これから、12月25日の卒業まで、寮生活を共にすることになる。

4人部屋でプライバシーのない9ヶ月が始まった。