昨日、小さい頃(昭和30年台、前半)のことを、少し書いたら、
その頃のことが、どんどん思い出された。
今日も、思い出に浸ります。
5歳(昭和33年)の頃、母が病院に結構長い間、入院した。
私には、2つ下の弟がいる。
母がいない間、父が私たちの世話をすべてしなくてはいけない。
それまで私は幼稚園に通っていた。
幼稚園は早く終わる。(藤花幼稚園-南町あたり?)
藤花高校という女子高と一緒だったので時々、けばくない清楚な女子高生が
遊んでくれた記憶がある。
保育園の方が長い時間看てくれることと、3歳の弟も預けることができることから
保育園に変わった。橋場町あたり、逓信病院(当時)の近くだった。(佛願寺保育園)
管轄が、今で言う文科省から厚労省に変わったわけです。
幼稚園にしろ、保育園にしろ当時は、親の送り迎えなどなく、小さな自分だけで
徒歩で通園した。幼稚園へは、連れもいなかった。
保育園へは、3歳の弟を連れての通園した。
保育園に行くには橋場から武蔵が辻の通りを横切る必要があり、今では考えられない。
タイムマシンで当時に行って、見てみたい。
保育園に代わった頃、小さな子供達の話題に、当時巨人に入団した
長島茂男のことが、ありました。
「長島は背番号が3で3塁手、でも打順は4番だ」ということを園児
達が言っているのを、聞いた覚えがあります。
王が打者として出てくるまでは4番です。
今でも、テレビの、特番で「昭和のヒーロー」・・・「昭和はこんな時代だった」みたいな
番組で、よくやっているから、刷り込まれて自分の記憶にしているかも知れない。
でも、自分の記憶ではそうなっている。
「サンヨー」の洗濯機の長島のCMを見た記憶がある。
当時、まだ家庭に普及しておらず、電気家や街頭がしかなかったテレビを5歳の私が
見れるチャンスはなかったのに。
洗濯機や冷蔵庫などが、これから普及しだす時代だ。
家にはまだ無かった。
昭和34年以降の記憶が重なっているのだろう。
家にテレビが来たのは昭和34年で、「皇太子のご成婚」の中継をみんなで見た。
家は木造3階建てで、昭和の初期に建てられたものだろう、当時少し傾いていた。
ビー玉を畳の上に置くと、ひとりでに転がった。
水道はあったが、台所に手動の井戸があり生活は殆ど井戸水だった。
3~4部屋を貸して、素人下宿をしていた。
家計の足しにしていたんだろう。
下宿人達や隣の「ゆきちゃん」も見に来ていた。
次の年には、ゆきちゃんの家にもテレビがきた。
月光仮面(大瀬康一)や実写の鉄腕アトム、バス通り裏(十朱幸代)
とん馬天狗(大村崑)、ジェスチャー(柳家金語楼)、私の秘密、お笑い3人組
などが記憶に残っている。
大相撲は、NHKの他、民放も中継していた(若乃花、栃錦)
そして、一日のうち、番組放送のない、時間があった。
その頃は私も、母も、祖母も健常者でした。
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2008年のMRI画像(SCD確定時)
私も朝のスクワット、仕事からの帰宅時バス停の1区間の歩行
などで、右肩下がりの運動能力のカーブをなるべく緩やかに、なるよう
にしよう。