「お邪魔します…。」

蓮のマンションのドアをそぉっと開ける。さすがに朝が早すぎるだろうと気を遣って、キョーコは小声で挨拶した。

蓮の昨夜のメールによると、ワケあって、モデルの仕事を急遽自宅マンションで行うことになったらしい。あるシリーズものの撮影で、今回が最後となるため、クルーも白熱していると。スタートが遅がけだったため、撮影が終わるのは間違いなく日付が替わってからだろうとのことだった。

蓮はまだきっと夢の中だろう。

ドアを閉めて、ふっと、見慣れぬ靴が視界に入って、キョーコは入る家を間違えたのかと一瞬思ってしまった。一目でハイブランドだとわかる女性ものの上品なパンプス。ローヒールで動きやすそうだ。その向こう側には、カメラ等の撮影機材とおぼしき荷物が玄関の上がり口に置いてある。


「最上さん、おはよ。」

蓮の眠そうな声で、キョーコはハッと我に返った。

「あ、お、おはようございます。起きてらっしゃったんですね。」

「あ、うん。最上さんが来てくれるんだから、そりゃ起きなきゃね。ふふ。」

蓮は、キョーコの様子がおかしいのは、自分がいきなり声をかけたからだと思ったのか、くぁ〰っとあくびをしてのんびりと近寄ってくる。

キョーコの視線がチラッとパンプスに走ったことに気付いたようで、

「あ、それ?今、ゲストルームでお休みされてるんだ。朝ごはんは食べないでひと眠りしてから帰るんだって。だから、最上さんは気にしなくていいよ?」

するり、とキョーコの手を繋いで、指を絡めると、台所まで一緒に歩いていく。

「ふぁっ。……ふふっ。あくびし過ぎ?」

蓮を見上げたキョーコの少し強張った視線を感じて、ふにゃっと笑う蓮。

「あ、無理して起きたとかじゃないからね?俺が勝手に最上さんに会いたかっただけだから。」


(………私に、会いたかった?)

キョーコは、なんだかおかしいな。息がしづらいよ?と思った。

(…それは…私を制して、修羅場にならないようにするために?)

「最上さんには関係ないんだけど〰昨日が三ヶ月最終日で。俺も彼女もついつい夢中になっちゃって、ね。でも、彼女にはずいふん負担かけちゃったなあ。癒しどころの話じゃないっていうか。でも、彼女はもともと今日は仕事がないってわかってたから。ん〰でも。やっぱり何事もほどほどにしないとだね?…ふぁっ。」

蓮のふわふわと夢見がちな声を聞きながら、キョーコは、あれ?息ってどうやって吸うんだっけ?とりあえず私ここを出た方がいい?と考えていて……

「…あれ?最上さ…ん?」

目の前にいるはずなのに、ひどく遠くで、慌てたような蓮の声が聞こえる。

「ちょっ、最上さん!?大丈夫!?最上さん!俺のこと見えてる!?」

キョーコは、蓮に揺すぶられているのがわかってはいるが、返事ができない。

「ど、どうしたの?蓮。大きな声出して。」

台所に入ってきた誰かが、慌てたように蓮に声をかける。

「あ、綾子さん。彼女が…。急に真っ青になってきて。」

「え、大丈夫…?って、ほんと真っ青!蓮、その子、なんか持病とかある!?」

聞き慣れぬ大人の女性の声が、キョーコの頭の中で、ぐゎんぐゎんと反響してうるさい。

そして、見たくもないのに、見えてしまった。ひどく疲れたようなその女性は、どう見ても、お風呂上がりのていだった。蓮の服を身に纏っている。柔らかそうなシャツを一枚ラフに着て、生足がスラッとのびて、綺麗な太ももも膝も剥き出しで…。それがうつむいたキョーコの視界を埋め尽くす。近づいてきたその女性から、ふわりっと蓮の匂いがした。

「……だ、大丈夫です…!!す、すみません、すみません、すみません…。」

キョーコは、このままだとこの場に倒れると確信した。でも、この部屋の外に行けば、蓮と彼女から離れさえすれば、なんとかなると冷静な部分が判断している。

「大丈夫って…。でも、あなたすごい顔色悪いわ。冷や汗も。ね、蓮、寝室に運んで休ませてあげた方が…。」

「そうだね、最上さん。とりあえず俺のベッドで休もう?」

蓮の大きな手が、キョーコを抱き上げようと、するりと絡みかけた。

(し、寝室……?

って、ベッド…………………………

…い、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!)


「も、わ、たし、帰ります、帰ります、帰ります、帰ります…」

壊れたおもちゃのように、帰りますと繰り返す。キョーコは、とにかく足を引きずりながらも廊下を引き返した。壁づたいに進む。キョーコは、もう必死でもう必死で、ただ必死で!!






気が着くと、キョーコは自転車をゆっくりと押しながら、自宅へ向かって歩道を歩いていた。


なんとかキョーコをなだめて抱き上げようとする蓮を、非常識な力で振り切って、玄関をズルズルと出てきたところまでは覚えている。


きっと、意味不明なキョーコの行動に、蓮はさぞかし腹を立てただろう。明らかに具合が悪そうなのをせっかく介抱しようとしたのに、その手を振り払って、顔を見ることもなく、退去の挨拶もせず。


(もう、8番目の彼女どころか、後輩の立場も危うくなっちゃったな。)

キョーコは溢れる涙で前が見えなかったが、それでも脚は、ただ前に歩き続けた。





キョーコは、本日は昼前には仕事の現場に入らなくてはいけなかった。ものすごくありがたいことに、仕事の打ち合わせだったので、泣き腫らした顔は、映像に残ることはない。思案顔の椹と、外部の担当者には、「ちょっと家族のいざこざで。」と誤魔化した。


LME事務所の廊下を歩いていると、遠くに社の背中が見えて、キョーコは息が止まるかと思う程びっくりした。


実は、蓮からの着信と、メールが携帯に届いていることはわかっていたが、蓮からの嫌悪の言葉に向き合うことが恐ろしくて、携帯をタオルでぐるぐる巻きにして見ない振りをしていた。

だが、中途半端にテレビ局などで偶然会ってしまうこともないとはいえない。それは困るだろうと思い、ラブミー部部室の鍵をかけ、腹を括ってメールを開く。それは今朝、キョーコがちょうど帰宅した頃に届いていたものだった。


『無事に家に着いた?
綾子さんが、若い子に早朝によくある、自律神経失調の症状じゃないかって、言ってたけど…。
最上さん、最近忙しかったんだよね?俺の食事のことでも無理させたのかな。ごめんね。
気をつけて仕事に行くんだよ?』


おそるおそる読んだメールには、蓮の優しい言葉が並んでいた。


(どうして?敦賀さん。どうしてそうなのですか?私、あんなに失礼なことをしたのに、どうして怒らないのですか?

……私が、逆恨みをしないように?私が、上席の大切な彼女さんを…綾子さんを傷つけないように?綾子さんを守りたくて、私に優しくするの?)


キョーコは、蓮が知っていることをわかっている。
キョーコが、付き合ってもいない幼馴染みに尽くしに尽くしたあげくポイと捨てられたこと。そのことを恨んで、復讐を誓って芸能界にまで追いかけてきたということ。

そう。蓮は、キョーコの感情が向かう矛先の強さを知っているのだ。

(きっと私、敦賀さんに牽制されてるんだ。綾子さんにとって、危険だって思われてる…?)


キョーコは、グッと歯を食い縛った。そうしないと、ここがどこであるかも忘れて、大声で叫んでしまいそうだったから。

(…だって、だって、だって!シェアリングがこんなに辛いものだなんて知らなかった!あんなふうに私のことを近い距離まで近づけてくれたのに、もっと大切な人を私に見せつけるなんてひどい!ひどいよ、敦賀さん…。私、もう耐えられない…。シェアリングなんて無理だよ…。)

キョーコは、あの夜にシェアリングを受け入れてしまった自分の浅はかさを呪った。