車内で百合と恋バナをのほほんと交わしてから、ちょうど24時間後。それなりに楽しい気持ちで己の恋愛に向き合ってからたったの一日しかたっていないというのに、蓮は背中にブラックホールを背負っていた。

仕事中はなんとか「敦賀蓮」の仮面を被りとおしたが、さすがに帰宅中の車内ではもう無理だった。運転もいささか乱暴になってしまう。

百合との熱愛報道は、蓮にとっては失敗でしかなかった。撮影中のドラマはこれからも脚本がどんどん面白くなるし、今回のスタッフ達なら、このまま頑張れば必ずいい評価、そして数字が取れると自信があった。それなのに、内容とは全く関係のないところでドラマの名前が囃し立てられてしまった。

それだけでも蓮が落ち込む原因に十分なりうるが、極めつけはキョーコと悟のお泊まり。

昨夜百合は、キョーコへの一方的なヤキモチは我慢して、元通りとはいかないまでもキョーコとの関係を修復すると言ってくれていたのに。
今日の百合は、取りつく島もないといった様子だった。あの二人を感情のままに糾弾してしまわないように、空間無視かという程、全く見ようとしなかった。


蓮は、ギリギリと音を立てて携帯を握りしめた。力を入れすぎた指の先は白くなっている。

今すぐにでもキョーコに電話をしたい。「さと君のマンションでのお泊まりの真相」を問いただしたい。そんな鬱積した気持ちが、行き場を求めて蓮の中で暴れ狂っていた。

(最上さん、君は、杉山君とはプライベートでは会わないと、家に行くほどの仲ではないと言っていたじゃないか。一人暮らしの男の家で一晩じゅう一緒にいて、一体何をしていたんだ。監督には、やましいことはないと言ったそうだが、女友達じゃあるまいし、おしゃべりに花を咲かせていたわけじゃないだろう。)

昨日の現場で、キョーコの太ももを悟が揉んでいた映像がフラッシュバックする。蓮がいつかはその感触を味わいたいと願うキョーコの柔肌に、悟が触れた。その瞬間、蓮は怒りが沸き起こるのを押さえることができなかった。
その後その怒りは演技に昇華させたが、自分はキョーコの恋人でもないくせに、勝手なことにいまだに許せていない。

今日のテレビ局のロビーでのキョーコとのやり取りも、思い出すだけで胸が痛い。心臓がぎゅうと絞られているようだ。百合との、他の女性との関係を応援するだなんて、キョーコの口からは冗談でも聞きたくなかった。

気をもんでいることは他にもある。今まではどんなに牽制しても全く興味の無さそうな反応をしていた悟から、今日は攻撃的な空気を感じたことだ。一晩一緒に過ごして、キョーコに今までとは異なる感情を抱いてしまったのではないか。焦燥ばかりが募る。

(ただの先輩でしかない自分がプライベートな領域のことを聞く権利は無いだろう。せめて自分の身辺がクリーンな状態なら、ドラマの現場の風紀を乱したことを言及するという、先輩の特権を使えたのかもしれない。だが、今回は間違いなく分が悪い。風紀を乱した点で言えば、自分の方がマスコミまで騒がせて、ドラマの存在そのものに影響を与えてしまい、ひどい有り様だ。)

蓮は携帯を見つめたが、話し合いの手段として電話は本望ではない。電話は声の演技で騙される可能性があるし、電源を切られればそれでおしまいだ。だから理想としては直接顔を見て話せたら、と考え…しかしすぐにその考えを打ち消した。

(…いや、それだけはだめだ。俺が完全にマスコミにマークされてる今、最上さんとプライベートで会うことは許されない。万が一その情報がどこからかリークされた場合、三角関係などと、あることないこと言われるに決まってる。

そんなことになったら、ドラマに与える悪影響は計り知れないし、最上さんに迷惑がかかる。それで嫌われたりなんかしたら、もう絶対の絶対に立ち直れない。)

本当は、蓮は頭では理解している。熱愛報道に沸く外野のほとぼりが冷めるか、共演者という枠が外れてドラマに影響を及ぼさなくなるまでか。いずれにせよ今は我慢するしかないということは。

(はあ〰。我慢できるかなぁ、俺。
……できなくても、するしかないんだけど。
ドラマの共演が決まった時は、こんなことになるなんて思ってもみなかったな。最上さんを馬の骨共から守れると喜んでいたのに…。)

蓮は、本日何度目になるかわからない盛大なため息をついた。

せめて彼女の尊敬する先輩という立ち位地は守れるように、明日撮影の内容を頭に入れるために台本を手に取った。



それからしばらくして、モデルの仕事の撮影現場にて。
今日は百合との絡みもあるが、最低限の会話しかしていなかった。そんな百合と、二人でセットに入る。

「京子ちゃんに弁解できてないみたいね。」

カメラマンの指示待ちでセットの中に立っている時、視線をこちらに寄越さずに、走り回るスタッフをぼんやりと眺めていた百合が話しかけてきた。

あえて「何の」弁解かは言わない百合に、蓮は小さく答えた。

「…まずは仕事のことを落ち着かせないとね。俺がどれだけ連絡を取りたくても、こっちのゴタゴタに彼女を巻き込むわけにはいかないし。嫌われないためには、どれだけでも我慢するさ。」

「…我慢も限界って顔してるけどね。」

百合がポツリとこぼしたところで、カメラマンから声がかかった。二人は返事をしてモデルとしてのスイッチを入れた。

あれから百合もずっと元気がない。お互いに仕事だけは全力でやっているつもりだが、プライベートには明らかに支障をきたしていた。

その最たる例が、蓮の食事事情だ。
もともと壊れている空腹中枢は、完全に機能を停止していた。

キョーコが蓮の食育に力を入れていたために、 体に優しくて美味しい食事が最近は当たり前のように提供されていた。そのせいか、ケータリングや外食ではどうしても食指がのびない。
そして、キョーコのごはんが食べたいというのもあるが、それよりも、キョーコと悟のことが気になりすぎて、もともと蓮の脳が優先順位が低いと認定している食事に対して、さらに優先順位を下げているらしい。

食べろと社に注意されるが、本当に食べたくない。こればかりは蓮自身でもどうしようもなかった。社は事情を知っているだけに、一通り説教したあと、ふぅ困ったな、とつぶやいてそれ以上は何も言わないのだった。

(最上さんの作ってくれたごはんを、俺のマンションで笑顔で向き合って食べたいな。いや、そうでなくても。最上さんとなら、きっと外食も美味しく食べられる。せめて…せめて早く元の関係に戻りたい…。)

蓮は切実に思った。


蓮は耐えに耐え抜いて日々が過ぎ。そのおかげか熱愛報道もなりをひそめて、ドラマの評判も好調だ。蓮も胸を撫で下ろしていた。

そしてついにキョーコの撮影の最終日となった。昼頃現場に合流すると、意外な光景があった。キョーコと百合が楽しそうに穏やかに二人で会話をしていた。以前ほどきゃぴきゃぴとはしていないが、昨日までの他所他所しさが幻かのようだ。

状況がつかめずに凝視している蓮と目が合った百合が、ふふっと笑って目配せしてくる。

(なんなんだ、いったい。北園さんのあの嬉しそうな顔は。最上さんも楽しそうだな。まあ、よくわからないけど、よかったな。

今日は撮影が終ったら俺も仕事があがりだから、必ず最上さんを捕まえたい。今日こそ絶対に想いを伝えるんだ。)

蓮は撮影を巻きでいこうと決め、なぜか百合も心得たとばかりに、周りを引き込んでテンポ良く進めていった。