「ベリーが言うように、もし我々が食べず、飲まず、また呼吸もせずに生きることを学んだのでないかぎり、脱農業社会などというものは存在しない」
ウェンデル・ベリーの環境思想―農的生活のすすめ
ウェンデルベリー 著 まえがき より
グローバルな金融の荒波が押し寄せる中、ローカルな農的な生活の価値が改めて見直されています。
同著には、こんな一節も、
「ウィリァム・アレン・ホワイトによると、一九一二年において、「アメリカ合衆国で最高の評価額を有する郡は、カンザス州マリオン郡だった。……マリオン郡はたまたまアメリカ国内の他のどの郡より多くの一人あたり貯蓄を持っていた。……けれどもマリオン郡で富豪と評価された者は一人もいなかった。しかし刑務所と救貧院は事実上空っぽだった。大きな一人あたりの富は、それを働いて稼ぐ人々の間で実際に分配されていたのだ」という。もちろんこれは、しばしばジェファーソン派の夢と呼ばれるものの実現である。
しかし実際上これは、ジェファーソン派ばかりでなく、人間の歴史全体を通して経済的に圧迫された人々の夢である。またマリオン郡は農村地帯であるから、ホワイトは銀行預金についてだけ話していたのではない。
彼は、真の資本、すなわち使用可能な資産について話していたのだ。ホワイトが語っているような時代と夢は、いまはもう遠い昔である。今日の国家経済は、ますますグローバル経済になりつつあるが、もはや国土と国民の繁栄によって栄えるのではなく、国土と国民を搾取することによって栄えている。南北戦争は、田園地帯から自由に利益を搾りとりたいと願っていた鉄道や鉱山、木材産業の大物たちにとってアメリカを安全なところにした。いまでは彼らの産業と後継者たちの仕事はほぼ完結した。彼らはほぼ全住民から土地を奪い、相続権を取り上げ、都市経済の中へ移動させた。彼らは田園地帯の外観を傷つけ収奪した。そしていま、この巨大な企業組織は完全に土地から遊離し国際化して、「グローバリゼーション」「自由貿易」「世界新秩序」などの合い言葉のもとに全世界から利益を搾りとる動きを見せている。提案されているGATT(ガット)の改訂は、ひとえにこの搾取の推進を意図するものにほかならない。目的は単純、露骨に地球上の生産力を有するあらゆる土地の切れ端とすべての労働者を企業組織の支配下に置くことである。」
では、ローカリズムを実践するにはどうすればいいか。
それは、やはり、地域の雇用の問題になり、食料とエネルギーの自給という話に…
テクテクノロジー革命―非電化とスロービジネスが未来をひらく (ゆっくりノートブック)
で、発明家の藤村 靖之
氏はおっしゃいます。
「長距離を運ぶためにはたくさんの車が必要で、車が走るための石油と道路が必要で、道路をつくるためにはまたエネルギーが必要なんです。こういうふうにしてそろって仲良く、経済を大きくしてきた。車をどうするんだという議論の前に、経済のありかたを変えることが先のような気がします。社会資本という言葉がありますが、お金を道路をつくることに注ぎこんで、そのための借金が膨大に残っている。
そんなものに使うのはやめて、新たに鉄道をつくりましようって言ったら、大喜びする人もいるかもしれない。また工事が生まれるから。でも、今の日本の借金だらけの経済を考えると現実的ではありません。だから、道路はそのままにして、交通量を少なくしてしまえばいい。それにはどうすればいいかというと、本来の唯一の課題である、地域レベルで環境と雇用を両立していくというところに戻るんですね。食料とエネルギーをローカルで生みだすほうに雇用を上手にシフトしていく。ついでに言えば、衣料品や材木から日用雑貨品に至るまで、なるべくローカル化していく。そうすると車の使用量は大きく減っていくんですね。ローカル化では国際競争力に勝てないという意見もあるけど、消費者との共感があれば話は変わってくる。」
そもそも、グローバルの罠の前に、消費の罠にはまっているということを、
先進国と途上国の関係は浮き彫りにします。
藤村さんは自身が関わるアフリカでの話をこう伝えます。
「たとえばナイジェリアにはすごいところがある。人口は日本より少し多いくらいですが、日本に重症のストレスを抱える人が3000万人いるそうだけど、ナイジェリアには私の推定では一人もいない。自殺する人もいないだろうし、学校でのいじめもないだろうし、登校拒否の子もいないだろう。人びとはいつも明るくて、陽気で、親切です。暖かいから1年中バナナがなっていて、失業率6割だからって飢え死にする人はほとんどいない。だから、ベースはこのままでいいんです。ただ、部分的に取りだすと不幸なことはある。その困っている部分だけを直すために、地域で産業化し、雇用を生みだし、困っている人を助ける。全体構造は変えないために、地域ベースで自立型持続型の産業をおこして、環境と雇用を両立させていくんです。そのためのビジネスモデルをプレゼントするのが、私がアフリカでやっていることです。
ナイジェリアで、イギリスの会社が新しく建設中の巨大なショッピングモールとホテルや会議場がある数億ドルのビッグプロジェクトを、現地の人が私に見せてくれました。イギリス人の責任者が自慢げに案内するのはわかるけれど、なぜ、私たちを迎えた人たちがそこへ連れてきたかったのかがわからなかった。どうも彼らは、そのプロジェクトを自慢したかったらしい。後で「お金は誰が出すんだ」と聞くと、全部イギリスの企業で、国際金融機関から借金して巨大なショッピングタウンをつくるんだそうです。誰がこんなものを買うのか、と聞くと、ナイジェリアの人にきまっているじゃないかと言うから、そのお金はどうやって稼ぐんだ、と聞いたんです。彼らは、私が説教しはじめていると感じて、だんだんしどろもどろになっていきました。
こういうふうにして、消費をあおり、そのためにより多くの収入を稼がないといけなくする。たぶんこのプロジェクトの脇では、いろんなものを製造する施設を移し、大企業が雇用を生みだすのかもしれない。新しい経済のシステムに乗っけようとしている。大企業は、これを借金でやるわけだから、借金を返して余りある利益をあげないといけない。こういうふうに、アフリカのいろんな国が経済支配され、ますます不幸になってきたんだ。それをなんとか別の選択肢を示していこうということで、我々は活動をしているのに、私たちのパートナーになった人たちでも、うっかりするととりこまれてしまいそうになるんです。
ビジネスのこわさというのは、もっと売れる、もっと儲かるという磁場に吸い寄せられるように動いていくことです。生産性の高い機械を導入すれば、人より安くつくって売ることができる。つまり市場を独占できるわけですね。市場を独占するというのは、その人にとってみれば、収入が増えて、欲望を満たせるかもしれないけれど、マーケットには限りがあるから、ほかの人の雇用をうばってしまう。機械で生産性を高めること自体は悪いことではないのだけど、生産性を高めすぎることがいいかというと、かえって高めないほうがいい場合もあるわけです。」
また、藤村さんは、先住民族と征服型民族、もしくは、競争を好むものと好まないものという別の視点も示されます。
「競争が好きな人ときらいな人が同居すると、必ず競争が好きな人が勝ってしまう。この問題のほうが大きい気がします。平和主義の先住民族は、征服型民族という競争主義者に、いともかんたんに征服されてしまう。競争が好きな人が武器と武力を磨いていくわけですから、武器と武力がきらいな人が、たちうちできるはずがない。では、こういう人たちが同居したときに、自分たちの平和を守っていけるシステムがほんとうに存在するかどうか。これはポイントのひとつだと思います。
私は可能性はあると思います。民主主義と情報が発達しているという前提の上ですがね。今、世の中を動かしているのは、政治よりもどちらかといえば経済ですね。経済を動かしているのは集合体ですが、あえて言えば、企業と言っていいでしょうね。大企業をはじめとして企業が一番怖いのは、消費者です。政治家が一番怖いのは、民主主義が発達していれば、選挙ですね。そうすると、女性と若者だけで、消費者の過半数、選挙民の過半数を得ているのだから、じつは経済と政治を支配できる可能性は残っている。つまり、消費者という立場の人が、安いものであればなんでも買う、消費をあおられれば、それに乗つかっていくというのではなく、知性をきちんと身につけて、生産形態を変えていくということです。消費者であり、選挙民であるということが同居して、民主主義が育っていくならば、可能性が残っていると思います。
競争の定義の中には、同じゴールに向かうということがあると思います。たとえば徒競走でも、同じゴールに向かわなかったら競争が成りたたない。これがまず大きな問題です。競争が好きな人ときらいな人がいるというのも大事な指摘だと思います。また、たとえば、一人の人間の人生でも、競争に向いている時期とそうでない時期がありますね。それから競争というのは、勝つ人がいたら、必ず負ける人がいるでしょう。障がいのある人や、いろんなハンディキャップをもった人もいる。こんなふうに競争にはいくつもの大きな問題がつきまとう。」