HONMOKU JACK - Honky Tonk Gang.

HONMOKU JACK - Honky Tonk Gang.

ジャンルに拘らず 昔懐かしい音楽動画を貼り付けたりしたいと思います。

 

 2025 / 9 / 20 更新.

 

amebaブログで、やっていた音楽ブログを徹底的に掘り下げて、再発進したブログです。 

 

HonmokuJack - Honky Tonk Gang 1961 Western music nostalgic melodies trip.

HonmokuJack - Honky Tonk Gang 1961 Western music nostalgic melodies trip.

 
 
100年分のPopularリストをyoutubeを使って展開しようと思っています。
 
2025年 9月 20日現在 11,978件の記事を掲載。
 
 注 ディスコ系の曲では「邦楽」も有りますが「洋楽」と表記させて戴きます
また年号についても「だいたいの目安」として見てください。
 
同カテゴリー内で「同名曲」が重複しないようにしていますが、歌手が変われば「同名曲」の重複も有ります。
 
 
毎日UPしたいと思いますが、土日祝祭日、撮影旅行中はお休みします。
 
通常毎日 30曲ずつ更新 ( 2025年内に引っ越しも控えている為、残置物の整理等々で記事のupが不規則になる日も御座います。)
 
 
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George Winston - Winter into Spring (8)

George Winston - December ( Full Album ) (1)

George Winston - Summer ( Full Album ) (1)

 

 

 

 

こちらは「お墓マイラー」ブログ 

本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑 

 

現在2028年10月まで予約投稿済みです。

 

 

 

 

犬養 廉(いぬかい きよし、1922年10月31日 - 2005年5月7日)は、日本文学者お茶の水女子大学名誉教授。 東京生まれ。1952年東京大学国文科卒。北海道大学助教授、中央大学教授、お茶の水女子大教授、88年定年、立正大学教授。93年退職。万葉集研究の第一人者である犬養孝は実兄。

著書
・『万葉・古今・新古今新解』新塔社 1991 (要所研究シリーズ)

・『平安和歌と日記』笠間書院 2004

共編著
・『小倉百人一首新釈』小高敏郎共編 白揚社 1954

・『古典和歌論叢』明治書院 1988

・『後拾遺和歌集新釈』上巻 笠間書院 1996 (笠間注釈叢書) 
 

校注
・『更級日記 日本古典文学全集 18』小学館 1971

・『百人一首 兼載』有吉保,橋本不美男校注 新典社 1974 (影印校注古典叢書)

・紫式部『帚木』奥出文子と校注 新典社 1978 (影印校注古典叢書)

・『山家集(鑑賞日本の古典)』尚学図書 1980

藤原道綱母『蜻蛉日記』 1982 (新潮日本古典集成)

・『小倉百人一首』創英社 1985 (全対訳日本古典新書)

・『新日本古典文学大系 平安私家集』共校注 岩波書店 1994

・紫式部『源氏物語 須磨』おうふう 1995

・『蜻蛉日記』學燈社 2006

参考文献
・文藝年鑑2004
(wikiより)

 

 

 

 

 

 

大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - 2013年1月15日)は、日本映画監督脚本家演出家、著述家。フィクションだけでなくドキュメンタリーも制作した。

生涯
生い立ち
1932年昭和7年)3月31日岡山県玉野市で生まれた[注 1]。父方は長崎県対馬、先祖は対馬藩士。母親は広島県呉市出身[1]。父親は農林省水産学者。仕事の関係で瀬戸内海を転々とし、カニエビの研究をしていた。

「渚」という名前もそこから付けられた[2]。6歳の時、農林省の水産試験場の場長をしていた父が死去し[注 2]、母の実家のある京都市に移住した。その後、旧制京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学したが、学制改革とその後の学校再編に伴い、京都市立洛陽高等学校(後の京都市立洛陽工業高等学校。現在は移転の上京都市立伏見工業高等学校と統合し京都市立京都工学院高等学校)に移った。


1950年京都大学法学部に進学。同窓には推理作家和久峻三、建築学者の上田篤俳優辰巳琢郎の父親がいる。在学中は猪木正道に師事した。また、京都府学連委員長として学生運動に携わり、全日本学生自治会総連合米田豊昭委員長とともに京大天皇事件1951年)や松浦玲が放校処分になった荒神橋事件1953年)などに関わった。法学部助手試験は不合格となった。その際、猪木には「君に学者は向きませんよ」と諭されたという[3]。また、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。
 

「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手
京都大学卒業後、1954年(昭和29年)に松竹に入社。大船撮影所大庭秀雄野村芳太郎などの元で助監督を務めた。1959年(昭和34年)、長編『愛と希望の街』[4]映画監督としてデビュー。同作のタイトルは当初『鳩を売る少年』であったが、松竹幹部から「題名が暗くて地味」だと指摘され、妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という改題を提案したが、公開時には本人の知らないうちに『愛と希望の街』へと変更されていた。翌1960年(昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、篠田正浩吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として知られるようになった[5]。しかし、自身はそのように呼ばれることを望まなかったという[注 3]


1960年(昭和35年)10月日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた『日本の夜と霧[6]を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、1961年(昭和36年)に同社を退社。同年に大島と同時に松竹を退社した妻で女優小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立した。その後、同社には俳優の渡辺文雄らが加わった。


1962年(昭和37年)の『天草四郎時貞』の興行失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げるようになった。1963年(昭和38年)の元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』は話題となり、翌1964年に脚本を務めたテレビドラマ『青春の深き渕より』は芸術祭文部大臣賞を受賞した。また、60年代には大島渚が南ベトナム軍を取材したTVドキュメンタリーも放映された。戦争の悲惨さを伝える内容だったが、放映後に寄せられた視聴者の声は、よくやったというものが圧倒的に多く、批判的なものは皆無だったという。その他にも『日本映画の百年』(1995年)など20本以上のテレビドラマやドキュメンタリーを手がけた。テレビでの仕事を通じて親交を深めたディレクターの一人に実相寺昭雄がおり、後に映画監督として創造社系の脚本家と多くコンビを組んだ。大阪釜ヶ崎にのりこんで撮影した『太陽の墓場』[7]でも高評価を得た。


1960年代後半には『白昼の通り魔』(1966年)や『忍者武芸帳』(1967年[注 4]、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など政治的・社会的な作品を矢継ぎ早に発表し、国内外での認知度も急速に高まった。1971年(昭和46年)には創造社時代の集大成とも言われる『儀式』を発表。同作はキネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。翌1972年(昭和47年)の『夏の妹』の発表後、「創造社」は翌1973年(昭和48年)7月に解散した。その後は映画製作の資金を稼ぐためにテレビ出演などの活動を行った。1975年(昭和50年)、新たに「大島渚プロダクション」を設立。『愛のコリーダ』の製作に着手した。
 

世界進出
1976年(昭和50年)、阿部定事件1936年)を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた『愛のコリーダ』を発表。同作は検閲を避けるため、若松孝二アナトール・ドーマンのプロデュースという日仏合作で製作され、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、タイトルクレジットはフランス語で書かれていた[8]第29回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、ハードコア・ポルノとしての性描写が観客や批評家の間で話題となった。同作は国際的に評価され、シカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって大幅な修正を受けた。2000年のリバイバル上映の際には修正個所は大幅に減ったものの、依然としてボカシ修正が入り、日本では21世紀に入っても、映画館や国内DVDによる無修正完全版の視聴は不可能である。また、1979年(昭和53年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際にはわいせつ物頒布等の罪で起訴された。大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、1982年、猥褻物とは認められず無罪となった。同年、東映のヤクザ映画大作日本の黒幕』の監督に抜擢されたが、脚本の最終段階で降板した。


その後は日本国外資本での映画製作が中心となり、1978年(昭和53年)に再び日仏合作による『愛の亡霊』を発表。性的描写は前作よりは抑制されたが、不倫した妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという前作と似たストーリーの作品を発表。同作は第32回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞。1983年(昭和58年)にはビートたけし坂本龍一デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった国際的合作『戦場のメリークリスマス』を発表。第36回カンヌ国際映画祭に出品された際にはパルム・ドール最有力候補と目されたが、無冠に終わった[注 5]。同作で初めて映画音楽を担当した坂本龍一は英国アカデミー賞作曲賞を受賞した。1986年(昭和61年)の『マックス、モン・アムール』では人間とチンパンジーの愛を描いた。同作は主演にシャーロット・ランプリング、脚本にジャン=クロード・カリエール撮影監督ラウール・クタールを起用し、全編フランスで撮影された。

1990年代には早川雪洲ルドルフ・ヴァレンティノの関係を題材にした『ハリウッド・ゼン』の製作に着手。早川役には再び坂本龍一、ヴァレンティノ役にはアントニオ・バンデラスを起用したが、撮影開始直前に資金不足により製作中止となった。その後はBBCの依頼を受け、『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』(1991年)や『日本映画の百年』(1995年)といったテレビドキュメンタリーを製作した。


1980年代後半からは『朝まで生テレビ』のレギュラーパネリストとなり、テレビ番組のコメンテーターとしても活動した。大島は映画製作の資金捻出が目的ではなく、テレビに出演するのが生き甲斐であると語った。事実、死去までの30年間は依頼を受けた2本の映画を監督したのみ(それ以前には24年間で25本の映画を監督しており、その大部分が依頼作品ではなく資金負担をともなう自主企画であった)であり、病身もあって自己資金で映画を製作・監督するような活動は停止していた。その他にも1980年(昭和54年)には日本映画監督協会の理事長に就任し、1996年平成8年)まで歴任した。
 

『御法度』と闘病
1996年(平成8年)1月下旬、10年ぶりの作品となる『御法度』の製作を発表。しかし、同年2月下旬に渡航先のロンドン・ヒースロー空港脳出血に見舞われた[9]。その後、3年に及ぶリハビリを経て、1999年(平成11年)に『御法度』を完成させた。同作ではビートたけし崔洋一という二人の映画監督俳優として出演し、大島は二人に撮影現場でのサポート役を託したと言われている。同作は翌2000年(平成12年)の第53回カンヌ国際映画祭に出品され、第42回ブルーリボン賞では作品賞・監督賞を受賞した。また、1999年12月15日には同作の撮影現場を映したテレビドキュメンタリー『1999 大島渚 映画と生きる』がNHK-BS2にて放映された。


2000年、紫綬褒章を受章。褒章受章は、若き日の大島の思想や生き方とは矛盾していた。2001年(平成13年)6月にはフランス政府よりフランス芸術文化勲章オフィシエ章が授与された。その後、再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念した。2006年(平成18年)、映画の著作権問題を問う『映画監督って何だ!』に出演した。また、同年2月26日には同品の披露会見を兼ねた日本映画監督協会の創立70周年祝賀パーティーにも歴代理事長として壇上に上がった。公の場に姿を現すのは4年8ヶ月ぶりであった。2008年(平成20年)7月28日に放映された『テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの〜大島渚・小山明子の絆〜』や同年8月17日に放映された『田原総一朗ドキュメンタリースペシャル「忘れても、いっしょ…」』において神奈川県鎌倉市の聖テレジア病院で言語症右半身麻痺のリハビリに励む姿がオンエアされた。
 

死去
2013年(平成25年)1月15日午後3時25分、神奈川県藤沢市の病院で肺炎により死去[10]。80歳没。戒名は大喝無量居士(だいかつむりょうこじ)。墓所は神奈川県鎌倉市建長寺回春院[11]


訃報を受けて坂本龍一岩井俊二松尾貴史などが自らのTwitterで大島への追悼の辞を発した[12]。大島と同世代の映画監督であり、同じく松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた篠田正浩は「僕と大島は戦友だった」と哀惜の念を語り[13]田原総一朗は「(大島さんは)頼れる兄貴みたいな存在だった」と語った[14]。『戦場のメリークリスマス』に出演したビートたけしは大島との出会いを「夢のようだった」と語った[15]。また、大島と親交のあった映画監督の帯盛迪彦は大島の訃報にショックを受けたことが影響したのか体調が悪化し、3日後の1月18日敗血症で死去した[16]


2019年12月4日、「大島渚賞」の創設が発表された[17]。選考対象は「日本在住で活躍し、過去に3本程度の劇場公開作品がある映画監督」[17]

詳しいことは、「大島 渚ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B8%9A
(wikiより)

大島 渚

 

 

 

 

 

 

⇧⇩ 「 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない  大島 渚 」

 

 

 

千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年昭和30年)6月1日 - 2016年平成28年)7月31日)は、1970年代から1990年代初頭にかけて活躍した大相撲力士北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。昭和最後の大横綱。本名:秋元 貢(あきもと みつぐ)。血液型はA型

来歴
秋元少年の角界入り

秋元貢は1955年、北海道松前郡福島町で漁師を営む家に誕生。子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、運動神経が抜群だった。特に福島町立福島中学校陸上競技部では走り高跳び三段跳びの松前郡大会で優勝し[2]、「オリンピック選手もいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。中学1年生の時に盲腸炎の手術を受けたが、貢の腹の筋肉が厚いために手こずって、予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。それでも必死に耐え続ける体格の良い貢を見た病院長が千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎(当時、九重部屋北海道後援会世話人)に連絡した。九重(千代の山)と、貢の母の実家である大村家が遠縁であり[2]、北海道巡業の際に九重は直々に秋元家に勧誘に赴いたが、貢自身は気があまり乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断っていた。


それでも諦めない九重は貢に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機[補足 1]に乗っけてあげるよ」[3][4]「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、貢は飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。まだ現役であった北の富士も貢と会っているが、その時を後に北の富士は「小さかったよ。だけど、物おじしないで平気な顔で部屋に来たのを覚えている。『おれのこと知ってるか』と聞いたら、『知らない。大鵬なら知ってるけど』。それが初めての会話だった。」と振り返っている[5]。上京前夜には、父が巡業の接待役にあたっていた貴ノ花に会わされ、「坊や、相撲に行くんだって?」「(九重部屋は)親方もいい。横綱もいい。とっても明るくて、いい部屋だよ……坊や、目つきが違うぞ。頑張れよ」と声をかけられた[6]

五文字の関取誕生

中学3年生で[補足 2]本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1971年1月場所序二段に昇進すると「千代の冨士」(1975年1月場所より「千代の富士」[7])と名付けられた[4]四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られていて、九重からはそれだけの大器と見られていた[8]。上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した台東区立福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。ただ相撲には馴染めず、中学校を卒業後に帰郷しようと、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は故郷の後援会会員に世話を頼んで千代の冨士を明治大学付属中野高校定時制へ進学させた。そこで学業と相撲の両立を図ったが、これを妬んだ兄弟子からの折檻を受け、さらに同年7月場所を負け越しで終えると「学校と相撲は両立できない」と6か月で高校を中途退学し、相撲に専念した[3][9]。同年秋ごろに右足首の骨折でやる気が薄れたが、当時東京で上野の松坂屋に勤めていた姉に励まされて踏みとどまった[3]


小兵(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)ながら気性の激しさを見せる取り口[4]で順調に出世して、1974年11月場所で19歳5ヶ月にして十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚をさばいているところを見た九重が「みたいだな」と言ったことから名付けられた[3]。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。ワシは『マムシ』だった。狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。

肩脱臼との戦い

幕下時代は投げに頼った強引な相撲が目立ち、このことが肩の脱臼癖を招くこととなった[10]1973年3月場所13日目、白藤との取組で左腕をねじられた際に左肩を脱臼した。このときは医者に相手にされず湿布でしのいだが、翌5月場所3番相撲、立山との取組で二本差しになり左から投げを打ったところその左腕を抱えられた瞬間に再度脱臼し、休場に追い込まれた。三段目に下がった翌7月場所では場所前の稽古でまた左肩を脱臼したが、痛みに耐えて出場し6勝を挙げた。新十両の1974年11月場所でも11日目の隆ノ里との取組で土俵下に転落した際に左肩を脱臼している。


1975年9月場所で昭和30年代生まれの力士として第1号の新入幕を果たし、2日目に元大関大受からは幕内初白星を挙げる[補足 3]が、相撲の粗さ[補足 4]もあって5勝10敗と負け越した。その後も故障もあって1976年1月場所まで連続負け越しとなり、幕下まで番付を下げる。昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第1号は、当時「北の湖二世」と呼ばれ将来を嘱望された小沼が達成し先を越された。奮起し76年7月場所で帰り十両を果たすが、先天的に骨の形状から両肩の関節のかみ合わせが浅く、左肩を脱臼しやすいという弱点が顕在化し[補足 5]、最初の幕下からの5年間で公式には7回、部屋で半脱臼したものも含めれば10回を超える脱臼を繰り返した[12]。その頃の取り口は類い稀な運動神経を活かし、力任せの強引な投げ技で相手を振り回すのを得意としていたが、それは左肩へますます負担をかけ、度重なる脱臼に悩まされることとなった。けがの影響で2年間を十両で過ごすことになるが、元NHKアナウンサー向坂松彦はこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた[13]


1977年10月29日に九重が死去したため、部屋は北の富士が継承した。この頃から師匠(北の富士)の指導で脇を締めて左の下手を取って引き付ける相撲を身に付ける[14]。その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所には再入幕を果たした。同年5月場所13日目の対貴ノ花戦は、取組前の「両者とも足腰が良いからもつれるだろう」という実況・解説者の予想を覆して、頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、大関戦初勝利と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。この場所、9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞。同年7月場所では新小結に昇進し、貴ノ花・旭國の2大関を破る活躍も見せたが、5勝10敗と負け越す。西前頭8枚目で迎え、幕内への定着も見えてきた1979年3月場所の播竜山戦では右肩を脱臼する。全治1年、手術すれば2年という重大なけがで途中休場し入院。脱臼との戦いをまたも強いられることとなった。このときの診察で肩関節の臼が左右とも普通人の3分の2しかないことが発見された[15]。三重県四日市中央病院の院長には「手術すれば半年は稽古ができない」と言われる一方、「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい」とアドバイスされた[16][3][17]ことが、肩を鋼の筋肉で固めるというけが防止策を見出すこととなった。毎日500回の腕立て伏せウェイトトレーニングに励み、当時東京都江戸川区に構えていた自宅の8畳の自室を4か月に一度、畳替えをしなければならないほどすさまじいトレーニングだったという[補足 6][18]

三役昇進

1979年5月場所は休場明けで十両に下がり、取組中のケガだったことから公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずだった。しかし、手続きの不手際(書類を受け取った担当の親方が書類を鞄に入れたまま提出するのを忘れてしまった[19])で公傷と認められない[17]ことが場所の直前になって発覚したため、このまま休場し続ければ幕下陥落の危機もあったことから3日目より強行出場、9勝を挙げて同年7月場所に幕内へ復帰した。以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。


肩の脱臼を受けて、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ[補足 7]1980年3月場所から幕内上位に定着する。横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後の増位山に対しては6戦6勝負けなしと「増位山キラー」とされた。同年9月場所には小結で幕内初の二ケタ勝利となる10勝5敗の成績を挙げた(この場所以降引退まで、皆勤場所では全て二ケタ勝利)。同年11月場所に新関脇に昇進すると初日から8連勝した。連勝は九日目輪島に敗れて[補足 8]止まったが11勝4敗の成績を挙げ、大関を目前として1981年1月場所を迎えた。


1981年1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃を見せる。輪島を相手得意の左四つからの上手投げ、若乃花を外四つで寄り倒し、いずれも不利な体勢から2横綱を破るなど初日から14連勝を記録。そして迎えた千秋楽(1月25日)、1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えた。本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃し、北の湖に14勝1敗で並ばれたが、吊り出された時に北の湖の足の状態が不完全であることに気付いて立てた作戦が優勝決定戦で見事に決まり、北の湖を右からの上手出し投げで下し、幕内初優勝を果たした。場所後に千代の富士の大関昇進が決定。千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%[18]、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている(ビデオリサーチ調べ)[20]。九重は千代の富士の優勝で一番思い出に残る取組にこの優勝決定戦を挙げており、塩沢実信のインタビューでは「やっぱり、初優勝の時ですね。北の湖との本割で敗れて、そして優勝決定戦。あの二番は忘れられません。大関に昇進、横綱に昇進という時は、感激が大きすぎてピンと来ないもんなんです。初優勝した時は、千代の富士の姿を見て涙が出ましたから」と語っていた[4]

ウルフフィーバー

新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たして横綱を掴んだ。この千秋楽の取組では千代の富士が立合い、得意の左前ミツを取って頭をつけた。北の湖が左をのぞかせ、右からおっつけたが、千代の富士は土俵際、回り込んで右の前ミツも取ると、右上手出し投げで北の湖の体を泳がし、そのまま寄り切った[21]。非常に劇的な瞬間に、千秋楽審判委員として土俵下に控えていた当時の九重親方(北の富士)は勝負が決まった瞬間手で涙を拭った。この日のNHK大相撲中継の視聴率は2017年3月場所終了までの記録で夏場所としては第3位となる36.5%[22]と盛り上がった。横綱昇進の際「2代目・千代の山」の襲名を打診されたが「今の横綱2人分(千代の山+北の富士=『千代の富士』)の四股名の方が強そうだから」と述べ固辞。千代の富士の大関・横綱昇進伝達式の際には、北の富士と、北の富士の配慮で先代九重親方の未亡人が同席していた。横綱昇進伝達式では「横綱の名を汚さぬよう一生懸命頑張ります」と口上を述べた[23]横綱土俵入りは九重と同じ雲龍型を選択した[補足 9]


新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和以降では武蔵山吉葉山に次いで3人目)。新横綱の期待が一転し、一部に「不祥事」「短命か」などの批判もあった[24]。しかし、同年11月場所では12勝3敗の成績で朝汐との優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾ることで復活を見せた。なお、この場所も14日目に隆の里に敗れ、隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で千代の富士を長く苦しめた。対隆の里戦の通算成績は12勝16敗で、下位力士(関脇~大関時代の隆の里)相手に8連敗という不名誉な記録も作っている。


1981年は、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した[4]。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であった。一気に大関・横綱への昇進を決めた1年間は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得た。千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を数周してもまだ余る状態だった(大抵の場合3周以上していた)。スピード昇進だったことから、千代の富士が関脇や大関として登場した広告などの記録は、大関時代に『テレビマガジン』における永谷園「味ぶし」の宣伝に登場した例があるものの少ない。

怪我や不幸との戦いと「千代の富士時代」の到来

1982年は3~7月の3場所連続優勝を達成し、初の年間最多勝を記録した。しかし横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが頼りない部分も見受けられ、1982年7月場所後の『読売大相撲』では「ウルフV3はしたけれど……ひどい、低調しらけ場所」という総評が出されるなど周囲の崩れに助けられたという意見もあった。特に1984年は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。同年5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖敏満から一方的な寄りを受けて敗れるなど11勝4敗に終わった。同年7月場所は左肩の脱臼で全休。同年9月場所は入幕2場所目の小錦の突き押しにあっけなく敗れ、同年11月場所は1年ぶりに優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から「千代の富士限界説」が流れた[25][補足 10]


しかし、千代の富士にとっての本格的な黄金時代は30代に入ってからだった。両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所は全勝優勝を果たして幸先良いスタートを切る。5月場所から廻しの色を青から「黒」に変え、この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝き、「限界説」を一蹴して「千代の富士無敵時代」がやってきた[25]1986年1月場所に天敵・隆の里が引退し、同年3月場所から7月場所までの番付は千代の富士のみの一人横綱となり(7月場所後に北尾が横綱昇進し一人横綱は3場所で解消)、1986年5月場所から1987年1月場所までは5場所連続優勝を達成した(1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞)。


1987年前半は5月場所が10勝5敗に終わるなど崩れ、千代の富士時代は終わりに近づいたとの声も出て「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートも実施された[要出典]。しかし1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録して[18][26]そんな声を打ち消し、他を寄せ付けない強さで昭和末期から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。昭和最後の取組となった11月場所千秋楽で大乃国に破れ連勝を止められたが、53連勝は昭和以降の記録としては2020年7月場所現在、双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)に次いで歴代3位の記録となった。


1989年1月場所も優勝候補筆頭だったが、8日目に寺尾に敗れて以降は優勝争いから後退、11勝4敗に終わる。4年4ヶ月ぶりに西正横綱として登場した同年3月場所は初日から他を寄せ付けない強さで、14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を再び脱臼したことで千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左手首にテープを巻いて腹に固定して登場、右手のみで賜杯を手にした[補足 11]


さらに、1989年6月には、2月に生まれたばかりの三女・愛がSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後わずか4か月足らずで死去した[18][27]。自身や家族が受けた精神的ショックは計り知れず、師匠・九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われるほどだったという。しかし直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦にて同部屋の弟弟子・横綱北勝海を下して優勝を果たした[4][27]。この優勝決定戦では2人は仕切りでほとんど目を合わせなかった。立ち上がって北勝海が右ノド輪で攻めたが、千代の富士は左おっつけから差し手争いに持ち込み左四つがっぷりの体勢になった。千代の富士は北勝海が再三右上手を切りにくるのも構わず、出し投げ気味のタイミングのいい上手投げで、28回目の優勝を決めた。この優勝に際して千代の富士は「優勝できて、愛のためにいい供養ができた」とコメントした[28]。同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」授与が決定した。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。翌9月29日に首相官邸において、内閣総理大臣海部俊樹から賞が授与された[補足 12]。協会は一代年寄「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は九重とも相談した上で辞退している[補足 13]

1000勝到達〜現役引退

1990年1月場所に優勝回数を30の大台に乗せた。同年3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した[補足 14]。同年5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役にもなった。夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、35歳という年齢から引退を囁かれたが、同年11月場所に復帰して4横綱の中で14日目に31回目の優勝を決め、同時に北の湖と並び史上1位タイとなる幕内通算804勝目を上げて貫禄を見せ付けた。


1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(2020年7月場所終了後現在では史上3位)の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。復帰場所となった1991年5月場所は初日に新鋭・貴花田(のち貴乃花)と対戦。貴花田との対戦は5月場所に出場した目的でもあった[27]が、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた[29]。この時点では引退を否定、翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とはほど遠かった。「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑んだが、現役時代で唯一なったとったりを受けて完敗。その日の夜に九重部屋にて緊急記者会見し、現役引退を表明した[補足 15]。会見では冒頭に「体力の限界・・・、気力もなくなり、引退することになりました」と述べた。引退理由として「最後に貴花田と当たってね、若い、強い芽が出てきたな、と。そろそろ潮時だな、と」と貴花田戦の衝撃を挙げた。


日本相撲協会は理事会で功績顕著として全会一致で一代年寄を認めたが、将来的に九重部屋を継ぐことが決まっていたため、同じ九重部屋に所属していた16代・陣幕(元前頭1・嶋錦)と千代の富士自身が所有していた年寄・八角の名跡交換を行い、17代・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となった。

あと1回優勝すれば大鵬の優勝32回に並ぶところでの引退であり、巷では引退を惜しむ声が高かったが、九重は塩澤実信からのインタビューで「そりゃみんなそう言うし、本人もできればもう一度優勝して辞めたかったんだろうけど、しかし僕は『記録は31回も32回も一緒だ。記録にこだわっちゃいかん。辞める時が大事だ』と言ったんです。そういう意味じゃ、僕も納得したし、千代の富士本人も納得したいい辞め方だったと思います」と答えている。


千代の富士の引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。

引退後

1992年4月に師匠の九重(元横綱・北の富士)と名跡交換し九重部屋を継承。しかし、まもなく陣幕(先代九重)との考え方の違いなどもあり[補足 16]1993年弟弟子の八角(元横綱・北勝海)が10月に九重部屋から独立し八角部屋を創設する際、陣幕を含む部屋付の年寄全員が同部屋に移籍することになった[4]。さらに、施設も旧九重のものを継承し九重の方が部屋を出て行く形となった[補足 17][補足 18]。このため、九重は自宅を改装して部屋を新設した[補足 19]。現在の九重部屋は「大横綱・千代の富士が師匠の相撲部屋」という色を前面に打ち出した部屋になっている[補足 20]


引退後、2010年5月場所まで毎場所に渡って中日新聞に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載していた(系列紙の東京新聞には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した取組や力士に関する独自の解説、相撲界への提言、優勝力士の予想など幅広く執筆していた。優勝力士予想については千秋楽当日でも当たらない場合があった。しかし、親方業の傍ら執筆しているために自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞の相撲担当記者が書いた記事とは違った魅力がある。晩年には力士の稽古不足・下半身の強化不足を主張し続けた。


日本相撲協会では、1994年武蔵川と揃って役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身[補足 21]であるため、理事に立候補することが出来ずにいた。また、1998年に弟弟子の八角が格上の監事に就任したり[補足 22]、また、長く審判部副部長を務めているのにもかかわらず、理事が務める審判部長には二子山押尾川放駒と大関止まりの理事が3代続いて九重を超えて就任していて、「副部長を務めている」と言うより「部長に昇進できずにいる」という印象が強かった。

しかし、2007年半ばより始まる朝青龍のトラブルや時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事・高砂が朝青龍の師匠として責任を問われたことにより2008年2月からようやく理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めた。審判部の職から離れたことでNHKの大相撲中継の解説者として登場することが可能となり、2008年3月場所8日目には15年ぶりに正面解説席で幕内取組の解説を務めた。また、直後の5月場所から東京場所限定でファンサービスの一環として、親方衆による握手会を開催して先着100名に直筆サイン色紙をプレゼントした。その後は日替わりで玉ノ井高田川とともに日本相撲協会のキャラクターグッズを先着100名にプレゼントをした。


その直後の理事選挙には、高砂一門から立候補して当選を果たし、新弟子検査担当・ドーピング委員長を兼任する審判部長に就任した。理事長が放駒に代わった後の体制では巡業部長を務めている。2010年9月場所7日目に正面解説席で解説を務め、この日に自身の連勝記録(53連勝)を超えた白鵬を支度部屋で祝福した。


2012年の理事改選で再選されるが最下位当選。しかし、改選直後の理事会において、貴乃花とともに北の湖の理事長就任に尽力したことから、論功行賞により2月の職掌任命において、事実上のナンバー2である事業部長に就任した。9月に理事が辞任したことを受けて、総合企画部長と監察委員長も兼任。


北の湖が腸閉塞のため2014年1月場所・初日から7日目までを休場する中で理事長代行を務める運びとなり協会あいさつも担当[30]。あいさつとして「大関稀勢の里が休場致し遺憾に存じます」と述べる[31]


2014年の理事改選では最下位である5票しか獲得できず、11人の候補者中唯一の落選となった。現職の事業部長の落選は史上初であったが、理事・九重への悪評は「豪傑すぎる言動」として常時指摘されており[4]、件の理事選で高砂一門が八角を第1候補に擁立していたことからも、驚きをもって迎えられることはなかった[32]。同年4月の職務分担では委員に降格。友綱(元関脇・魁輝)のように前期に理事を務めた年寄が次の職務分担で委員に降格する例が過去にも存在するが、前期の年寄序列と現役時代の実績を考えれば左遷や冷遇と呼べるものがあった[33]。育成面では前述の千代大海の他に千代天山千代鳳千代丸千代大龍千代の国千代翔馬らを育てている[34]。大鵬以降の一代年寄で弟子が大関に昇進した親方は2016年時点では九重ただ一人である[補足 23]。(ただし前述の通り、一代年寄は辞退している。)

詳しいことは、『千代の富士ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%B2%A2
(wikiより)

 

⇧ 千代の富士

 

 

 

 

 

 

 

塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本戦国時代剣士兵法家。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。

 

⇧ 武蔵塚原試合図(月岡芳年画)

 

生涯
鹿島神宮の神官で大掾氏の一族・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢、よしかわあきかた)の次男として常陸国鹿島(現・鹿嶋市宮中)に生まれる[1]幼名は朝孝(ともたか)[1]。時期は不明だが後に、覚賢の剣友塚原安幹(塚原新右衛門安幹、しんうえもんやすもと)の養子となる。同時に高幹(たかもと)とし、新右衛門高幹と改めた[1]塚原氏本姓平氏で、鹿島氏の分家である。のちに、土佐守(とさのかみ)、または土佐入道とも称した[1]。卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)を由来とする[1]


実父・覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ[1]。『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」も養父の安幹から伝授されたという(松本から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したとする説[1]もある)。やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。卜伝の弟子である加藤信俊の孫の手による『卜伝遺訓抄』[注釈 1]の後書によると、その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられている。よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。卜伝は、諸国を武者修行したが、その行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせて、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったと伝えられる[1]


弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽[1]真壁氏幹(道無)[1]斎藤伝鬼房(勝秀)[1]ら一派を編み出した剣豪がいる。また、将軍にもなった足利義輝[1]足利義昭[1]や伊勢国司北畠具教[1]、武田家軍師山本勘助[1]にも剣術を指南したという。また、足利義輝、北畠具教の両者には奥義である「一之太刀」を伝授したとされている。


上記の通り「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により後世に剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。著名な逸話のひとつで勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、『甲陽軍鑑』に伝わる[要出典]「無手勝流」がある。この中で、卜伝は琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑んでくる。彼はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って彼を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、剣士と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せるのだが、水深が足の立つ程になるやいなや、剣士は船を飛び降り島へ急ごうとする。しかし卜伝はそのままなにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ[2]、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまったという。


若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋をにして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが(右上記の月岡芳年錦絵などで知られる)、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は全くの作り話である。


晩年は郷里で過ごし、『鹿島史』によれば卜伝は元亀2年(1571年)2月11日に死去したとされる。83歳没。『天真正伝新当流兵法伝脉』では鹿島沼尾郷田野(現鹿嶋市沼尾)の松岡則方の家で死去としている。墓は豊郷村須賀塚原(須賀村、現・鹿嶋市須賀)の梅香寺にあったされるが同寺は焼失し、墓のみが現存している[1]。法号を宝険高珍居士(ほうけんこうちんこじ)[1]位牌は墓地近くの真言宗長吉寺にある[1]

門下
伝承上弟子とされる人物も含む

雲林院松軒

諸岡一羽

真壁氏幹

成田長泰

斎藤伝鬼房

松岡則方(兵庫助)[1]

足利義輝

北畠具教

細川幽斎[1]

今川氏真

林崎甚助

上泉信綱

山本勘助


登場作品

書籍
池波正太郎『卜伝最後の旅』角川グループパブリッシング、1980年

津本陽塚原卜伝十二番勝負』講談社、1983年

中山義秀『塚原卜伝』徳間書店、1989年

峰隆一郎『日本剣鬼伝 塚原卜伝』祥伝社、1993年

石ノ森章太郎『塚原卜伝』小学館、1996年

矢作幸雄『無敗の剣聖 塚原卜伝』講談社、2011年

テレビドラマ
・『塚原卜伝』(2011年10月2日-11月13日、NHK BSプレミアム 演:堺雅人。原作は上述の「十二番勝負」)

脚注
注釈
1. 卜伝自身が詠んだとされる「卜伝百首」の他、沢庵宗彭による序、加藤信俊の孫(本名不詳)による後書によって構成される伝書。正確な成立年代は不明だが、寛永年代後半以降と推測される。

出典
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t

保立謙三 『茨城県大百科事典』 茨城新聞社編、茨城新聞社、1981年、706-707頁。「塚原卜伝」
2. 『孫子』謀攻篇第三に曰く、凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。

関連項目
兵法三大源流

卜伝の郷運動公園

卜伝流

(wikiより)

 

⇧ 塚原卜伝像

 

 

 

 

宇野 千代(うの ちよ、1897年明治30年)11月28日 - 1996年平成8年)6月10日)は、大正昭和・平成にかけて活躍した日本小説家随筆家。多才で知られ、編集者着物デザイナー実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎梶井基次郎、画家の東郷青児北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。

来歴

山口県玖珂郡横山村(現・岩国市)出身。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。千代が幼いころに母親がなくなり、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。この継母が「おはん」のモデルとされる。[2]


岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)卒。14歳で義母の姉の子(従兄)藤村亮一と結婚するが10日ほどで実家へ帰る。小学校の代用教員となるが退職。その後朝鮮京城へ行くがとんぼ返りで舞い戻り、元夫の弟・藤村忠と結婚。京都に住んだあと上京。本郷三丁目の西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトを18日間している間に久米正雄芥川龍之介と知り合い、今東光とは親交を結んだ[3]。その後北海道へ行くが、1921年(大正10年)『時事新報』の懸賞短編小説に『脂粉の顔』が一等で当選し作家としてデビュー。


文章がこんなに金になるのかと驚き、執筆活動に専念。『墓を暴く』を中央公論に送ったが、いっこうに返事がないので上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料をもらう。あまりの大金であったため、その足で岩国の実家に戻り、母親に原稿料の一部を渡す。北海道に戻る途中、今後の打ち合わせとお礼を兼ねて中央公論に立ち寄った際に尾崎士郎を紹介され、ひと目惚れし、そのまま東京で暮らし始める[4]


1936年にはファッション雑誌『スタイル』を創刊。表紙絵は藤田嗣治、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めた。戦時中にいったん廃刊するものの、1946年に再び刊行し、成功を収めた[5]着物のデザインも始め、スタイル誌で紹介、販売もした。


作家としては寡作で、戦後10年近く沈黙していた。1960年代からまた書き始め、1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く書いた。小説は10年かけて書かれた『おはん』、『色ざんげ』(東郷青児との関係を描いたもの)、『或る一人の女の話』などがある。1970年(昭和45年)に『幸福』で女流文学賞、1972年(昭和47年)に日本芸術院賞受賞[6]、同年日本芸術院会員。1974年(昭和49年)には『雨の音』を発表、1982年(昭和57年)に菊池寛賞受賞。その翌年発表された『生きて行く私』は自伝的小説として以後宇野の代名詞となる。1990年(平成2年)文化功労者

晩年に到るまで旺盛な活動を続けた女性実業家の先駆者としても知られる。結婚離婚を繰り返すたびに家を建て替え、「数えて見ると、十一軒建てた勘定になるから」と、それを『私が建てた家』という随筆にしてしまったり、長寿で、それを『私何だか死なないような気がするんですよ』という書名のエッセイにまとめてしまったりする愛嬌があった。


1996年6月10日、急性肺炎のため東京都港区虎の門病院において98歳の生涯を閉じた[1]。戒名は謙恕院釈尼千瑛。忌日は「薄桜忌」と名付けられた[7]


岐阜県本巣市(旧本巣郡根尾村)にある樹齢1500年以上の彼岸桜の古木である「淡墨桜」の保護を訴え活動した。同市のさくら資料館には淡墨桜に関する千代の作品が展示してある。

年譜
・1911年(明治44年) - 義母の姉の子藤村亮一に嫁入りするが十日ほどで帰宅する。


・1913年(大正2年) - 父・俊次が57歳で没。


・1914年(大正3年) - 岩国高等女学校卒、川上村小学校代用教員となる。


・1915年(大正4年) - 鑓田研一らと回覧雑誌を作る。同僚教師との恋愛で退職、大池房代を頼って朝鮮京城に渡る。


・1916年(大正5年) - 帰国し、亮一の弟忠が第三高等学校学生だったので頼って京都へ行き同棲生活をする。


・1917年(大正6年) - 忠が東京帝国大学に入学、ともに上京。各種職業を転々とし、燕楽軒に働く。


・1919年(大正8年) - 忠と正式に結婚し藤村姓となる。


・1920年(大正9年) - 忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務、北海道に暮す。


・1921年(大正10年) - 「脂粉の顔」で『時事新報』懸賞で一等となる。2等に尾崎士郎、選外佳作に横光利一


貧しく若い一人の女給が、ひいき客から競馬に誘われ、きおい立って勢一杯の期待で出かけたところ、その客は一人の美しい自信ありげな女性を連れていて、女主人公は自分にだけ分っている自分の気持で切なく苦しむという短編[8]


・1922年(大正11年) - 滝田樗陰に送った原稿の返事がないので上京、「墓を暴く」が『中央公論』に掲載されたことを知り、郷里岩国へ帰り、上京、尾崎士郎と同棲を始める。


・1923年(大正12年) - 尾崎とともに馬込に住み小説を発表す。短編集『脂粉の顔』を上梓。


・1924年(大正13年) - 忠と協議離婚、筆名を宇野千代に改める。吉屋信子と親しくなる。


・1926年(大正15年) - 尾崎と正式に結婚。


・1928年(昭和3年) - 梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居。


・1930年(昭和5年) - 東郷青児と知り合い同棲、尾崎と正式に離婚。


・1933年(昭和8年) - 『色ざんげ』を発表。


・1934年(昭和9年) - 青児と別れる。


・1936年(昭和11年) - 『スタイル』誌を創刊。


・1939年(昭和14年) - 北原武夫と結婚。媒酌人は、吉屋信子藤田嗣治


・1947年(昭和22年) - スタイル社の『文体』誌に『おはん』の連載を始める。


・1949年(昭和24年) - 井上友一郎の『絶壁』が宇野夫妻をモデルとしたものと言われ紛糾す。


・1951年(昭和26年) - フランス旅行。


・1957年(昭和32年) - 『おはん』を上梓、野間文芸賞を受賞。


・1959年(昭和34年) - スタイル社が倒産。


・1964年(昭和39年) - 北原と離婚。


・1966年(昭和41年) - 『刺す』を上梓。


・1971年(昭和46年) - 女流文学賞を受賞。


・1972年(昭和47年) - 芸術院賞受賞、芸術院会員。


・1974年(昭和49年) - 勲三等瑞宝章受章。


・1977年(昭和52年) - 『宇野千代全集』の刊行始まる。


・1982年(昭和57年) - 菊池寛賞受賞。


・1983年(昭和58年) - 『生きて行く私』刊行。


・1990年(平成2年) - 文化功労者
 

著作
・『幸福』(金星堂、1924年)

・『白い家と罪』(新潮社、1925年)

・『晩唱』(現代短篇小説選集』(文芸日本社、1925年)

・『罌粟はなぜ紅い』(中央公論社、1930年)

・『オペラ館サクラ座』(改造社、1934年)

・『色ざんげ』(中央公論社、1935年、のち新潮文庫・岩波文庫など)

・『あひびき』(新陽社、1936年)

・『別れも愉し』(第一書房、1936年、のち集英社文庫)

・『ひとの男』(版画荘、1937年)

・『月夜』(中央公論社、1938年)

・『恋の手紙』(中央公論社、1939年)

・『女の愛情』(鱒書房、1939年)

・『ある客間での物語』(スタイル社出版部、1941年)・め『日露の戦聞書』(文体社、1943年)

・『人形師天狗屋久吉』(文体社、1947年、のち集英社文庫)

・『わたしの青春物語』(酣灯社、1947年)

・『ピイピイ三吉』(國民圖書刊行會、1947年)

・『私のお化粧人生史』(中央公論社、1955年、のち中公文庫)

・『おはん』(中央公論社、1957年、のち中公文庫新潮文庫など)

・『きもの読本』(長嶋書房、1957年)

・『女の日記』(講談社、1960年、のち文芸文庫)

・『刺す』(新潮社、1966年、のち集英社文庫)

・『風の音』(中央公論社、1969年、のち中公文庫)

・『親しい仲』(随筆集』(講談社、1970年)

・『貞潔』(短編小説集』(講談社、1970年)

・『私の文学的回想記』(中央公論社、1972年、のち中公文庫、改題『思いのままに生きて』、集英社文庫)

・『或る一人の女の話』(文藝春秋、1972年)

・『雨の音』(文藝春秋、1974年、のち講談社文芸文庫)

・『恋は愉しいか』(大和書房、1974年)

・『八重山の雪』(文藝春秋、1975年)

・『薄墨の桜』(新潮社、1975年、のち集英社文庫)

・『ママの話』(中央公論社、1976年)

・『往復書簡』(中里恒子共著、文藝春秋、1976年)

・『水西書院の娘』(中央公論社、1977年、のち中公文庫)

・『宇野千代全集』全12巻 (中央公論社、1977–78年)

・『或る日記』(集英社、1978年)

・『大人の絵本』(成瀬書房、1978年)

・『残ってゐる話』(集英社、1980年)

・『幸福人生まっしぐら』(大和書房、1980年)

・『青山二郎の話』(中央公論社、1980年、のち中公文庫)

・『悪徳もまた』(新潮社、1981年、のち新潮文庫)

・『或るとき突然』(中央公論社、1981年、のち中公文庫)

・『幸福を知る才能』(正・続、海竜社、1982 – 1984年、のち集英社文庫)

・『自伝的恋愛論』(大和書房、1983年)

・『生きて行く私』(毎日新聞社、1983年、のち中公文庫、角川文庫)

・『生きて行く私  人生相談篇』(毎日新聞社、1984年)

・『或る男の断面』(講談社、1984年、のち中公文庫)

・『幸せのつくり方』(小学館、1984年)

・『私はいつでも忙しい』(中央公論社、1984年、のち中公文庫)

・『私のおとぎ話』(中央公論社、1985年、のち文芸社)

・『私は幸福昔もいまもこれからも』(海竜社、1985年)

・『私の作ったお惣菜』(海竜社、1986年、のち集英社文庫)

・『幸福は幸福を呼ぶ』(海竜社、1986年、のち広済堂文庫、集英社文庫)

・『普段着の「生きて行く私」』(毎日新聞社、1986年、のち集英社文庫)

・『しあはせな話』(中央公論社、1987年、のち中公文庫)

・『倖せを求めて生きる』(海竜社、1987年、のち集英社文庫)

・『行動することが生きることである』(海竜社、1988年、のち集英社文庫)

・『一ぺんに春風が吹いて来た』(中央公論社、1989年、のち中公文庫)

・『私のしあわせ人生』(毎日新聞社、1990年、のち集英社文庫)

・『恋愛作法』(海竜社、1991年、のち集英社文庫)

・『生きる幸福老いる幸福』(海竜社、1992年、のち集英社文庫)

・『私は夢を見るのが上手』(中央公論社、1992年、のち中公文庫)

・『私の幸福論』(海竜社、1993年、のち集英社文庫)

・『幸福に生きる知恵』(講談社、1993年、のち中公文庫)

・『私の長生き料理』(海竜社、1993年、のち集英社文庫)

・『人生学校』(海竜社、1994年)

・『私の作ったきもの』(海竜社、1994年)

・『私何だか死なないような気がするんですよ』(海竜社、1995年、のち集英社文庫)

・『幸福人生まっしぐら』(大和書房、1996年)

・『不思議な事があるものだ』(中央公論社、1996年、のち中公文庫)

・『百歳ゆきゆきて』(世界文化社、2002年)

・『老女マノン・脂粉の顔 他四篇』(岩波文庫、2019年)、新編

・『青山二郎の話・小林秀雄の話』(中公文庫、2019年)、新編

詳しいことは、「宇野千代ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8D%83%E4%BB%A3
(wikiより)

 

 

宇野千代

 

 

 

 

※ 北原家の墓域に、肺結核で 20歳にも足らぬ若さで亡くなった「北原美保子」 ( 北原の初期の作品『妻』の主人公の名前 ) の墓も有るそうですが確認できませんでした。
 

北原 武夫(きたはら たけお、1907年2月28日 - 1973年9月29日)は神奈川県出身の小説家


神奈川県小田原市の医家に生まれる。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、家業を継ぐべく新潟高等学校 (旧制)理科に入学するが父に反抗して中退し、慶應義塾大学予科に入学。慶應義塾大学文学部仏文科に進むが国文科に転じ、1932年に卒業。在学中に、井上友一郎田村泰次郎らの同人誌『桜』に参加。


都新聞社に入社。横浜支局に勤務。1934年、都新聞社本社に転勤。この間、1933年宇野千代と知り合う。1936年、宇野千代と共に日本最初のファッション雑誌『スタイル』を創刊。1938年、『妻』を発表して芥川賞候補となり文壇にデビュー。1939年吉屋信子および藤田嗣治の媒酌により宇野千代と結婚1964年離婚。翌年の1965年、女優の公卿敬子と再婚[1]。1973年9月29日、糖尿病による腎不全のため慶應義塾大学病院で死去。戒名は光芸院武誉碩文居士[2]


通俗的な心理小説で人気を博した。門人に佐藤愛子川上宗薫がいる。

著書

・『妻』春陽堂 1939

・『粧へる街』三和書房 1939

・『文学と倫理』中央公論社 1940

・『門』甲鳥書林 1941

・『桜ホテル』スタイル社出版部 1941 のち新潮文庫

・『創造する意志』中央公論社 1942

・『ジヤワ従軍記 雨期来る』文体社 1943

・『文学の宿命』実業之日本社 1947

・『聖家族』中央公論社 1948

・『青春の季節』文体社 1948

・『炎断ち難し』酣灯社 1948

・『天使』スタイル社出版部 1949

・『燃える思春期』鱒書房(コバルト新書) 1956

・『魔に憑かれて』宝文館 1957

・『愛は抵抗する』東方社 1957

・『告白的女性論』講談社 1958 のち旺文社文庫

・『午後7時の慾望』清和書院 1958

・『文学と映画と女性と』光書房 1959

・『火の祈り』講談社 1959

・『体当り女性論』正続 中央公論社 1959-1960

・『マリヤ』講談社 1959

・『おんな十二カ月』講談社 1961

・『告白的男性論 男の裏側を語る』講談社 1961 のち旺文社文庫、レグルス文庫

・『真昼の天使』講談社 1961

・『誘惑者の手記』講談社 1963

・『愛の檻』河出書房新社 1964

・『薔薇色の門』講談社(ロマン・ブックス)1964

・『わが悪女物語』サンケイ新聞出版局 1964

・『処女無価値論』桃源社(ポピュラー・ブックス) 1965

・『魔唇』日本文華社(文華新書)1965

・『危険な日記』講談社 1965

・『残酷な男』実業之日本社(ホリデー新書) 1966

・『愛のもだえ』日本文華社(文華新書) 1966

・『北原武夫現代シリーズ』全5 講談社 1966

・『体験的女性論 誘惑的な女の愛と性の秘奥』日本文華社(文華新書) 1967

・『ミモザ夫人』講談社 1967

・『魔女の誘惑 わが告白的女性遍歴』日本文華社(文華新書) 1967

・『恍惚への誘い』青春出版社(プレイブックス) 1967

・『女・色見本帖』講談社 1967

・『プレイ・ボーイ日記』講談社 1967

・『砂に濡れた女』講談社(ロマン・ブックス) 1967

・『悪女』講談社(ロマン・ブックス) 1967

・『禁断の肌』光文社(カッパ・ノベルス) 1967

・『情熱の階段』日本文華社(文華新書) 1968

・『色事師』講談社 1968

・『カンバスの中の女』講談社(ロマン・ブックス) 1968

・『女ごころ』講談社(ロマン・ブックス) 1968

・『幻の美女』講談社 1968

・『悦楽の禁書 わが秘密を告白する』ベストセラーズ 1968

・『悪女たちの饗宴 女の誘惑シリーズ』光文社(カッパ・ノベルス) 1969

・『魔女日記』講談社 1969

・『憂愁夫人』講談社 1969

・『紫陽花の女』講談社 1969

・『向日葵の女』講談社 1969

・『花川戸助六』講談社 1970

・『紋之丞色ざんげ ある歌舞伎役者の性的遍歴』講談社 1970

・『ドンファン日誌』講談社 1970

・『霧雨』講談社 1971

・『黒水仙の夫人』講談社 1971

・『パリは今日も雨降る』講談社 1972

・『文学論集』正続 冬樹社 1972-1973

・『情人』講談社 1972 のち文芸文庫

・『美しい獣』講談社(ロマン・ブックス) 1973

・『ティヴォリの情炎』講談社(ロマン・ブックス) 1973

・『北原武夫文学全集』全5巻 講談社 1974-1975

脚注
1. 宇野千代の人生と文学 北原との別れ”. NPO宇野千代生家. 2018年7月28日閲覧。
2. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)117頁
(wikiより)

 

 

北原武夫

 

 

・2014年 5月 24日再訪
「生きて行く私」のなかで宇野千代は北原武夫の墓参りにいきます。

 

「私は急に、北原の墓詰りに行く気になり、那須から、その田舎の寺へ廻った。

 

もう、七回忌だ、と思ったのかも知れない。

 

北原の墓ほ、栃木県壬生町の興光寺にある。

 

…興光寺はじきに分かった。

 

…真ん中に、北原家代々の墓と書いた、大きな墓があった。

 

…そこの左側の片隅に、ほんの三寸(約九センチ)角ほどの小さな墓があって、法名ではなく、北原美保子の墓、とあるのも、三十何年か前と同じである。

 

…美保子と言うのは、北原の最初の妻の名前である。

 

肺結核で、二十にも足らぬ若さで死んだ人で、北原の初期の作品に『妻』と言うのがあるが、その作品の主人公の名前であった。」とあります。

 

それで ( 向かい合って ) 左側の隅に有った墓石を撮影して来ました。

 

⇩ だけどお名前が違うんだよなぁ・・・

 

 

 

 

 墓石の裏側には、河島英五さんの手帳に書かれていた 
奥様へのメッセージが刻されています。
 


ふりかえると いくつもの幸せ


ふりかえると いくつかの哀しみ


いそがしさを いいわけにして


あなたとゆっくり話すこともなかったが


あなたがいてくれたから


がんばってこれたんだ


あなたを支えにして


あなたに ほめられたくて・・・・


                    英五


英五 1952.4.23 〜 2001.4.16


〇 河島 英五
河島 英五(かわしま えいご、1952年(昭和27年)4月23日 - 2001年(平成13年)4月16日)は、日本シンガーソングライター俳優大阪府東大阪市出身。長女・河島あみるはタレント、長男・翔馬は歌手。次女・河島亜奈睦は音楽ユニット「アナム&マキ」メンバー。公称身長184cm[1]

人物
大阪府立花園高等学校卒。晩年は大阪府四條畷市に在住していた。


男の強さや哀しさ、優しさ、父親としての心情を唱いあげた数々の曲は、時代を越えて男性の共感を呼び、歌い継がれている。若いころにギターを持って世界を放浪し、庶民の暮らしに触れ、音楽を通して共に喜怒哀楽を共有し合った経験が、河島英五の音楽の礎を築いている。


内外のミュージシャンが驚くほどパワフルな音量と大声で唱いあげる姿、「男らしさ」にこだわった歌詞が特徴。

コンサート活動は、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置いた。

来歴
・1969年、高校在学中にフォークソングを始める[1]。高校卒業後「ホモ・サピエンス」というグループで活動[1]。京都の自主レーベル京都レコードからデビュー。支離滅裂派フォークとしてあのねのねらと活動を共にした[1]。デビュー当時は、その風貌とボーカルスタイルから"吉田拓郎の再来"などと騒がれた[1][2]


・1973年、グループ解散後ソロ活動開始。


・1975年4月、メジャーデビュー[1]


・代表曲は「酒と泪と男と女」(作詞・作曲:河島英五、編曲:宮本光雄)。この歌は河島が19歳のとき、彼の叔父の姿を見て作曲したものである。萩原健一がカバーし、テレビの歌番組などで歌っていたが、同じ頃、河島の歌唱版が京都伏見清酒メーカー・黄桜酒造(現:黄桜)のCMソングとして使われるようになると全国的なヒットとなり、河島の名も全国的に知られるようになった。


  ・1981年3月に西城秀樹がカバー(アルバム『HIDEKI SONG BOOK』)。

  ・1988年10月にBOROがカバー(アルバム『LOVE & TEARS-BORO BEST SELECTION』)。

  ・2007年7月に柏原芳恵がカバー(アルバム『アンコール』)。

  ・2008年5月に大友康平がカバー(アルバム『J-STANDARD 70’S』)。

  ・2008年9月に藤田恵美がカバー(アルバム『ココロの食卓 〜おかえり愛しき詩たち〜』)。


・その他の代表曲は「野風増」(橋幸夫らとの競作)、「時代おくれ」、「生きてりゃいいさ」(加藤登紀子に書き下ろした楽曲で、のちに河島もシングル発売)など。「時代おくれ」は、現在も多くのおやじ世代にカラオケで歌われており、松本人志朝青龍山本浩二久保竜彦らも愛唱歌としている。また、“ランバダ”がダンスナンバーとして日本で流行する以前に『花の種』というアンデスを舞台にした哀調の日本語ナンバーに仕上げてレパートリーとしていた。


・1980年代、ケニアの首都ナイロビにある「グリーンバー」という酒場のジュークボックスには「酒と泪と男と女」のレコードがあり、日本人客が来ると現地の娼婦などがよくかけてくれた。当時、旅行者の間では、河島がグリーンバーに立ち寄った際、「俺は日本の歌手だ」と言っても誰も信じてくれなかったために自分のレコードを置いていった、という逸話がある。


・1980年代、NHKの番組「北陸東海」(中部7県で放送)の「英五のろまんちすと紀行」に旅人として出演、中部7県(愛知県岐阜県三重県静岡県富山県石川県福井県)各地を訪れた。なお、河島はこの番組のオリジナルテーマソングも歌っている。


・「時代おくれ」で、『第42回NHK紅白歌合戦』(1991年)の出場歌手として選出されるに至った。当日は第1部の白組トリで、ピアノを弾きながら歌われている。


阪神・淡路大震災の被災者を励ますために、友人の桂南光らと毎年神戸でチャリティコンサート「復興の詩」を開いていた。死去した年のコンサートでは、河島の3人の子供たちと桂南光が、遺作『旧友再会』を観客と共に歌った。


・長女・河島あみるの結婚式に参列後の2001年4月16日肝臓疾患のため急死した。48歳没。亡くなる2日前にライブに立ったのが最後の仕事だった。亡くなる前日に体調を悪くし、病院に運ばれるも既に手遅れの状態で家族に看取られ息を引き取った。


・告別式終了後の出棺の際、棺の上に遺影が置かれ、参列者から「英五」の連呼が起こった。自身のヒット曲「野風増」の歌詞には、息子が20歳になれば2人で酒を酌み交わしたいという内容があったが、河島本人は歌詞通りに息子・翔馬と杯を交わすことは叶わなかった。


・河島の墓は奈良市十輪院に建てられている。


・河島の忌日となった4月16日は『桜風忌』と呼ばれている。


 

河島英五とホモ・サピエンス
メンバー

・河島英五

・新井基浩

・木下景弘

・河島哲


1976年9月に解散

ディスコグラフィ
アルバム
・人類(1975年)

・運命(1976年)ここまで「河島英五とホモ・サピエンス」名義で発表

・信望(1977年)

・ライブてんびんばかり(1977年)(ホモ・サピエンスのメンバーが参加)

・仁醒(1978年)

・河島英五作品集(1979年)

・EIGO SPECIAL(1979年)

・ホモサピエンス門外不出(1979年)

・文明 I(1980年)

・文明 II(1980年)

・文明 III(1980年)

・トップシングルコレクション(1983年)

・河島英五 の世界(1984年)

・発汗(1985年)

・時代おくれ(1986年)

・ベスト・セレクション(1986年)

・ろまんちすと(1987年)

・河島英五1975-1986(1987年)

・「文明」ベスト&名作集(1987年)

・季節(1988年)

・河島英五 SCENE OF38(1989年)

・いくつかの場面(1991年)

・河島英五 アコースティックベストセレクション(1992年)

・ほろ酔いで(1993年)

・自選集(1993年)

・ボーカル&カラオケ・ベスト5(1994年)

・自選集II〜カヌーにのって(1995年)

・大全集Vol.1〜ホモサピエンス(1997年)

・大全集Vol.2〜酒と泪と男と女(1997年)

・全曲集’98(1997年)

・ベスト・コレクション(1997年)

・大全集Vol.3〜心から心へ(1998年)

・コレクション 酒と泪と男と女(キングCD文庫)(1999年)

・河島英五 ベスト撰集(2000年)

・河島英五 LASTLIVE〜今日は本当にありがとう(2001年)

・DREAM PRICE 1000 河島英五(2001年)

・酒と泪と男と女 メモリアル(2002年)

GOLDEN☆BEST 河島英五 SINGLES(2002年)

・河島英五 History 〜天夢〜(2003年)

・GOLDEN☆BEST 河島英五 ヒット全曲集(2009年)

・旧友再会〜ベスト オブ 河島英五〜(2011年)


詳しいことは、「河島英五ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%B3%B6%E8%8B%B1%E4%BA%94
(wikiより)

 

 

河島英五

 

 

 

 

 

前野 曜子(まえの ようこ、1948年昭和23年〉1月25日 - 1988年〈昭和63年〉7月31日)は、日本の歌手[1][2][3][4]ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカル。宝塚歌劇団在籍中の芸名は弓 千晶(ゆみ ちあき)、その後の初期芸名は西丘 有理(にしおか あり)。1980年前後の時期、俳優として劇場用映画テレビ映画に出演した[1][2][3][4]

人物・来歴

初めてのリサイタル(ヤクルトホール 1980年5月 )

1948年(昭和23年)1月25日、東京都中央区銀座に生まれる。

1963年(昭和38年)4月、川村高等学校に進学するも、満17歳になった1965年(昭和40年)、同校を中途退学し、宝塚音楽学校に進む。1967年(昭和42年)、第53期生として宝塚歌劇団へ入団、同年の星組公演『世界はひとつ』が初舞台公演の演目であった。同期は54名、室町あかね小松美保がおり、前野の当時の芸名は弓 千晶。1968年(昭和43年)10月30日付で同劇団を退団した。

宝塚時代に知り合った亀渕友香ディスコ赤坂ムゲン」で再会して上野義美がプロデュースしていたリッキー&960ポンドに参加、翌1969年(昭和44年)、「ワッハッハ」(CBSソニー)がヒットを記録する。この頃は西丘 有里と名乗る。1971年(昭和46年)、同グループと同じ事務所(小学館プロダクション)に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加、同年10月発売の「別れの朝」が大ヒットを記録する。同作の原曲はウド・ユルゲンスの「夕映えのふたり」(ドイツ語Was ich dir sagen will, 1967年)である。

1972年(昭和47年)9月、「ペドロの前野曜子が倒れた」と報道される[5]。1973年(昭和48年)、ペドロ&カプリシャスを脱退し渡米、半年弱の滞在後帰国し、本村俊雄をリーダーとするバンド”マスカレード"にて歌手活動を再開後、1976年(昭和51年)に古巣のリッキー&960ポンドに復帰する。1977年(昭和52年)9月、リッキー&960ポンドとアルバム『ABRAZAME』を録音。「別れの朝」は3ヴァージョンが存在するが、このアルバムに収録されたものが最高の出来との評価もある[誰によって?]。同グループに3年間所属した後、再び脱退する。

1979年(昭和54年)に映画『蘇える金狼』の主題歌『蘇える金狼のテーマ』をリリース。このとき「あの前野曜子が6年ぶりにカムバック!!」と報道されたが[6]、カプリシャス脱退以降の経歴が考慮されていない。1980年(昭和55年)、映画『野獣死すべし』に出演。1980年代初期には自己のバンド"ASANTE-SANA"を組みリサイタルも行った。1982年(昭和57年)から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌う。同時期、都内の病院に入院し闘病を開始したとされる[7]

次第にアルコール依存症等が深刻化し、1988年(昭和63年)7月31日、心不全で死去した[7]。満40歳没。訃報についてはリアルタイムに報道されることなく、3年後に『女性自身』1991年4月23日号が初めて報じた[7]

2015年(平成27年)4月18日 第1回のファンの集いが開かれた。

ディスコグラフィ

リッキー&960ポンド

シングル

アルバム

  • 『ABRAZAME(抱きしめて)』(1977年12月)- 2011年CD化。

ソロ

シングル

発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
ユニオンレコード
1970年9月5日 EP US-696 A 朝を待たずに[8] 山上路夫 鈴木邦彦 馬飼野俊一
B なくてもともと[8] 山上路夫 鈴木邦彦 馬飼野俊一
ワーナー・パイオニア/ATLANTIC
1973年9月25日 EP L-1155A A 夜はひとりぼっち 安井かずみ 都倉俊一 前田憲男
B センチメンタル・ヨーコ 水野礼子 森岡賢一郎
1974年4月25日 EP L-1906A A ゆうなぎ 山上路夫 都倉俊一 東海林修
B 誘惑
キャニオンレコード
1979年7月25日 EP C-146 A 蘇える金狼のテーマ[9] 浅野裕子 ケーシー・ランキン トッシュ
B 唇に微笑み心に拳銃[10] ケーシー・ランキン
日本コロムビア
1980年5月26日 EP AK62-AX A ユー・アー・ラヴ[11] なかにし礼 Teo Macero Edison Watanabe
B テイク・ア・チャンス 岡田冨美子 萩田光雄
1980年11月25日 EP AK727-AX A こんな時は[12] 岩谷時子 Krystyna Pronko 渡辺エジソン
B モーニング・ダンシング 庄野真代 庄野真代 渡辺エジソン
1981年4月20日 EP AH-50AA A ラブ・イズ・ミステリアス[13] Dweight Waldrom 林 哲司
B イフ・アイ・ハヴ・ゴー・アウェイ Marci Sutin 林 哲司
1981年7月20日 EP AH133-A A 星ふる夏 A.プガチェヴァ

訳)麻生ひろし

I.レスニック 山下正
B ジャスト・ライク・ユーアンドミー 竜真知子 渡辺敬之
1982年10月21日 EP AH148-A A コブラ[14] 冬杜花代子 大野雄二
B シークレット・デザイアー[15]

アルバム

  • 蘇える金狼・前野曜子』(1979年8月)- 2011年CD化。
  • 『HALF TIME』(1980年8月)- 2012年CD化。
  • 『一人で(アローン) 』(1981年12月、日本コロムビア、AF-7096-N)- 2012年CD化。
  • 『TWILIGHT』(1982年9月)- 2012年CD化。
  • 『YOKO MAENO memorial collection “BEST” -30th Anniversary-』(2018年7月)

フィルモグラフィ

特筆以外はいずれも「出演」である[1][2][3][4]

脚注

  1. a b c 前野曜子文化庁、2015年8月3日閲覧。
  2. a b c 前野曜子KINENOTE, 2015年8月3日閲覧。
  3. a b c 前野曜子日本映画データベース、2015年8月3日閲覧。
  4. a b c 前野曜子テレビドラマデータベース、2015年8月3日閲覧。
  5. ^ 週刊明星[1972], p.52-54.
  6. ^ 週刊平凡[1979], p.159.
  7. a b c 女性自身1991年4月23日号「「別れの朝」のペドロ&カプリシャス 前野曜子さん3年前に淋しき死! 」
  8. a b 西丘有里名義。
  9. ^ 映画『蘇える金狼』主題歌。
  10. ^ 映画『蘇える金狼』挿入歌。
  11. ^ 映画『復活の日』主題歌日本語版。
  12. ^ 第20回国際歌祭ソポト大衆賞。
  13. ^ 映画『スフィンクス』イメージソング。
  14. ^ TVアニメ『スペースコブラ』のオープニングテーマ。
  15. ^ TVアニメ『スペースコブラ』のエンディングテーマ。

参考文献

関連項目

外部リンク

 
⇧ 前野曜子
 
 

hide(ヒデ、本名:松本 秀人〈まつもと ひでと〉[1]1964年〈昭和39年〉12月13日[2][3] - 1998年〈平成10年〉5月2日)は、日本ミュージシャンギタリスト歌手プロデューサー[3]神奈川県横須賀市出身[2]。1987年から1997年までX JAPAN(旧名:X)のギタリストとしてHIDE名義で活動[2][3]。2007年のX JAPAN活動再開以降も正式メンバーとして在籍。1989年にアルバム『BLUE BLOOD』でXのメンバーとしてメジャーデビュー[2]。 愛称は「ヒデくん」、「ヒデちゃん」。身長170cm。体重54kg。血液型AB型


1993年より、hide名義でソロ活動も開始し[2]、1996年にはレコードレーベル「LEMONed」(レモネード)を設立[4]。1997年のX JAPAN解散後はhide with Spread Beaver及びzilchでの活動を開始するも、1998年5月2日に急逝[2][3][4]

人物

少年時代は肥満から来るコンプレックスのため、内気で大人しい子供であった。小学生のころ、太っている生徒は休み時間校庭を走らされるという罰があり、その中にhideも入っていた。この頃、深夜ラジオでロックに出会い、「ロックミュージシャンは痩せてなくては」と、ダイエットしたという。学習塾や習いごとに忙しく通っていた。祖父の「松本家から医者を出せ」という命令もあり、卒業文集では「医者になって見離された患者さんを助けてあげたい」と綴った。アメリカへの集団でのホームステイも経験している。そこにはホンジャマカ恵俊彰も参加していた。UNITEDの横山明裕とは幼馴染であり、互いにプロになって以降も交流があった。


中学時代、友人がきっかけでロックに興味を持ち、祖母ギブソンエレキギターを買ってもらいバンドを組むも、活動はしておらず、そのまま県内屈指の進学校の高校へと進学した。高校が「エレキ禁止」であったためにバンドを組めずにいたが、横須賀のどぶ板通りに通うようになり、そこで出会った友人らとX加入以前に活動していた唯一のバンド、「サーベルタイガー」を組んで活動する。


また、「おばあちゃん子」であったhideは美容院を営んでいた祖母からの影響を少なからず受けている。Xデビュー当初は祖母のサリーを借りてステージ衣装として使用したりしていた。若作りでお洒落な人物であったために、後のファッションなどの基盤となった。高校卒業後に、ハリウッドビューティ専門学校へと進み、卒業して実際に美容院で働いてもいた。「サーベルタイガー」を解散した時には、全ての音楽活動からは足を洗って美容師として生きていこうと決心し、いくつかのバンドから誘いがあったのをすべて断っていたが、結局はYOSHIKIの誘いでXに加入することになる。


インディーズバンドの発掘に力を入れ、エクスタシーレコードではバンドリサーチ担当としてLUNA SEAGLAYZI:KILL、DEEPを発掘し、また、自身でもレモネードレーベルを立ち上げZEPPET STOREVINYL、trees of lifeなどのバンドを発掘した。


テレビやゲームが好きであり好んで視聴したり遊んだりしていた。またコンピュータに強い興味を示しており、90年代前半には、すでにライブでパソコンを使ったギミックを披露していた。1995年には自身で製作したホームページを開設している。テレビ番組の中では特にお笑い番組が好きで、当時人気を誇っていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」などがお気に入りであり、ダウンタウン(特に松本人志)のファンでもあった。また、スーパーファミコンソフト『スターフォックス』にはまっていて、デビュー・シングルの『EYES LOVE YOU』のミュージック・ビデオは、そこから得たアイディアを取り入れている。


また、子供好きでも有名で、弟でマネージャーを務めた裕士に子供が生まれたときには、とても喜んでおり、大きなぬいぐるみを買ってあげたりもしていた。また、1994年のソロツアーでは アンコールで観客の子供をステージに連れてきて、一緒に歌ったこともある。しかし、自身に子供が欲しいかを聞かれると「もし自分に子供が生まれたら、ツアーや仕事で何日も留守にするなんて 絶対に無理だと思うし、全ての情熱を子供に注いで 音楽は蔑ろになってしまうかもしれないから要らない。」「裕士に子供が生まれたから、俺は子供は要らないし、結婚もしない」と語っていた。また「世界一の親バカになる自信がある」と語ったこともある。

音楽性と影響

中学生の頃、初めて聴いたキッスレコードに大きな衝撃を受け、ロックに目覚める。以後は様々なロックを聴き漁るようになり、その中でキッス(特にエース・フレーリー)、ザ・クラッシュアイアン・メイデンディープ・パープルヴァン・ヘイレンダムドレッド・ツェッペリンジミー・ペイジ)、ジャパンなどに影響を受けた。BOWWOW山本恭司ファンではあるが、hideの代名詞となる「モッキンバード」は、同じBOWWOWの斉藤光浩が使用していたのが気になった事がきっかけであると語っている[5]


Xの「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」というフレーズを考案した。これがヴィジュアル系という言葉を生み出したのはhideと言われる所以である。また、hideが音楽界に与えた視覚面や音楽面の影響は多大で、音楽ライターの市川哲史からヴィジュアル系はhideから始まってhideで終わったとも言われている。


のちに有名になるマリリン・マンソンだが、まだ無名時代からhideの大ファンだったという[6]

略歴

Xに加入しての初仕事は「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画で行われた「やしろ食堂」でのライブであった。1989年4月、Xのギタリストとしてアルバム『BLUE BLOOD』でメジャーデビュー。Xではギター以外にもバンドのビジュアル全般を担当し、メンバーの髪のセットなども行っていた[3]。主にYOSHIKIがXの作詞・作曲を行っていたが、HIDEも一部の曲で作詞・作曲を担当[3]


Xでの活動と並行して1993年1月21日にLUNA SEAJINORANと共にMxAxSxS名義でオムニバスアルバム『DANCE 2 NOISE 004』に参加し、同年8月5日に2枚のシングル「EYES LOVE YOU」、「50%&50%」を同時発売しソロデビュー[3]。9月29日にはZI:KILLのTUSKと、映像作品『Seth et Holth』を発表する[注 1]


1994年2月、初のソロアルバム『HIDE YOUR FACE』を発売。ジャケットの仮面のオブジェは、映画『エイリアン』などで知られるH・R・ギーガーによるデザイン。また、同年3月から4月にかけて初のソロツアーを開催した。

1996年、アマチュアバンドであったZEPPET STOREの楽曲や存在を世間に知らしめたいという動機からレーベル「LEMONed」(レモネード)を立ち上げる。5月22日に同名タイトルのオムニバスアルバムとビデオを発売することでレーベルの存在を公にした。また、6月よりソロアルバム制作を開始し、9月2日に2ndアルバム『PSYENCE』を発売。


1997年9月、TOSHIの脱退によりX JAPANは解散を発表し、同年12月31日の「THE LAST LIVE」をもってXは解散[注 2]。その翌日の1998年1月1日、hide with Spread Beaverとして朝日新聞紙上に全面広告を掲載。同年1月28日にシングル「ROCKET DIVE」を発売。


1998年5月2日の朝7時30分頃、自宅マンションの寝室にてドアノブに掛けたタオルで首を吊って呼吸停止した状態になっているのが同居していた婚約者によって発見され、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。33歳没。後にファンが後追い自殺をするなどの事態が発生したという。5月5日に関係者のみ300人を集め密葬が執り行われ、5月6日に通夜、5月7日に告別式が催され、両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。告別式にはTOSHI、TAIJIを含むX JAPANのメンバーをはじめ、親交のあった音楽仲間や業界関係者も参列した。告別式はテレビで生中継された。

hideの死
晩年

1998年5月1日、hideはSpread Beaverのメンバーと共にフジテレビ音楽番組「ロケットパンチ!」の収録を行う(その際に披露した曲は「ROCKET DIVEピンクスパイダーever freeDOUBT'97」)。これが生前最後に収録した番組となった。その打ち上げ後、日付をまたいで更に飲み、泥酔したhideはマネージャーの弟・裕士が運転する車で自宅マンションまで送られた。


5月2日朝7時30分頃、hideは自宅マンション寝室のドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態で発見された。その後、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。病院に着いた時は既に心肺停止状態だったという[7]。当日午後3時頃から、「元X JAPANのギタリストhideが死亡、警視庁は自殺と断定」と速報で報道された。


HURRY GO ROUND」の歌詞や、ラジオ番組「オールナイトニッポンR」での発言が意味深長で自殺に関連するのではないかという見方や、はたまた事故ではなく自殺だと断言している人間の存在までもあり、様々な見解がある。警察は雑誌取材などに「『牽引』にしては首の輪が小さく、むしろ死を意図するものであった。また、『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』と聞いており、突発的に死に踏み切ったのだと思われる」と答えている。「故意による自殺」か、「不慮の事故」かは不明であり、遺書や「死にたい」と自殺をほのめかす発言がない事や、ドアノブに柔らかいタオルで自殺する方法は珍しいことから、不慮の事故とする説がある。YOSHIKIは「彼は自殺するような人間ではない」と発言している。


1998年10月24日 hide不在の中行われた hide with Spread Beaver TOUR appear!! "1998 TRIBAL Ja,Zoo" 公演前に行われた記者会見で、マネージャーの裕士は「hideは生前、ひどい肩こりと偏頭痛に悩まされており、整骨医が行う首の牽引によるストレッチをしていた。いつものように牽引していたが、帰国直後の時差ボケと、泥酔状態であったために起こった事故であり自殺ではない」ことを改めて発表している[8]


2014年8月22日、「中居正広の金曜日のスマたちへ」に出演したToshlが、hideの死について、自分が洗脳されていなければと自責の念を述べた[9]


1998年9月に出版された「hide 真実のストーリー」にはコンサートで行われる予定であった首吊り自殺の演出の練習を酔っぱらったまま行ってしまい死んでしまったと書き記されている。

葬儀までの5日間

hideの遺体は5月3日に東京都中央区築地築地本願寺に安置された。夕方、YOSHIKIがロサンゼルスから帰国し成田空港から築地本願寺に直行。YOSHIKIは最初これを「悪い冗談じゃないか」とも思っていたが、飛行機の中での正式な報道を見た瞬間に現実であることを受け入れ号泣したという。


翌5月4日、週が明け本格的にワイドショーなどで大々的に取り上げられる。築地本願寺にファンが集まり始め、その数は5万人規模となる。夕方にYOSHIKIがの正面に姿を現し、報道陣を前にメッセージを発表した。


5月5日には、遺族・親族・X JAPANのメンバーを始めとする音楽関係者など300人を集め密葬がとり行われた。
その間もファンは絶え間無く押し寄せ、その数は数千人にもふくれ上がった。また、疲労と心労が重なったファンが次々と倒れ、救急車で病院に搬送された。さらに、「hideが自殺」と報道されていたためにファンの後追い自殺が築地本願寺境内をはじめ全国で相次いだ。そのため、翌日には警視庁の要請でX JAPANのメンバーが記者会見を開き、自殺を思いとどまるように訴えた。


5月6日の通夜、5月7日の告別式の両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。中には単なる通行人や野次馬もいたとされるが、通夜、告別式に5万人近くが集まったとされ、隅田川沿いに2 - 3kmのファンの列が出来たことも報道されていた。「ファンは列に並ぶ際、パニックになるようなこともなく、むしろ近隣住民の迷惑にならないようにゴミ拾いまで進んで行う素行の良さであった」と葬儀翌日の朝日新聞天声人語に掲載されている他、本社が築地にあるという場所柄、「銀座の花屋が空になった」「地下鉄の車内は花の香りでむせかえるほどだった」等の記者の証言が数多く残されている。また、本願寺の外では hideやX JAPANの楽曲が流れていた。


5月7日の告別式はテレビで生中継された。告別式には、脱退したTOSHI、TAIJIを含む元X JAPANメンバーをはじめ、親交のあった音楽仲間や業界関係者が列席した。築地本願寺開山以来初めてのグランドピアノ持ち込みによるYOSHIKIの伴奏で、TOSHIがX JAPANの「Forever Love」を歌った。hideの「GOOD BYE」が流される中、午後3時40分出棺。道路に交通規制が掛けられ一般車両を完全に止めた状態であったが、ファンが大挙して道路に広がり霊柩車を追いかける者まで現れる非常事態となり、築地本願寺周辺がパニック状態になった。


その後、hideは渋谷区代々幡斎場荼毘に付された。代々幡斎場周辺も築地本願寺同様ファンが大挙して道路に広がり霊柩車が斎場に到着するシーンも追いかける者まで現れる非常事態となり、これもパニック状態になった。法名秀徳院釋慈音(しゅうとくいん しゃくじおん)。遺骨四十九日法要をもって、神奈川県三浦市三浦霊園に納骨され、一部はロサンゼルスの海に当時のzilchのメンバーや弟・裕士によって散骨されている。 2013年3月に、何者かの手によってhideの墓石が刃物のような物で傷を付けられるという事態が発覚した。そのため、器物損壊罪で調査を行うこととなった[10]


十三回忌にあたる2010年5月2日には、築地本願寺で法要が行われた。法要には約35000人の関係者やファンが参列した[11]

死後

1998年5月13日にシングル「ピンクスパイダー」、5月27日にシングル「ever free」が生前に予定されていた通りに発売。7月23日、生前にレイ・マクヴェイとポール・レイヴンと共に結成されたプロジェクトzilchの1stアルバム『3・2・1』が発売。10月21日、未発表曲としてシングル「HURRY GO ROUND」が発売。これは生前に録っていた仮歌の音源を使用して、hideと共に最もレコーディング作業に深く関わっていたI.N.Aによって制作された。11月21日、アルバム『Ja,Zoo』が発売。このアルバムは生前には未完成であったが、Spread Beaverのメンバーや、サーベルタイガー時代からの仲間であるkyo菊地哲などの参加により完成された。


死去から丁度1年後の1999年5月1日、トリビュート・アルバムhide TRIBUTE SPIRITS』が発売。hideに縁のあるミュージシャンや、hideがBOØWY時代からファンであった布袋寅泰などが参加。


2000年7月20日、故郷である神奈川県横須賀市の海岸沿いにある京浜急行電鉄所有の土地を利用し、記念館「hide MUSEUM」が開館。衣裳や楽器などhideにゆかりのある品々を展示、併設の「Cafe Le PSYENCE」ではライブも行われた。オープン式典にはX JAPANファンを公言し、設立にも協力したという衆議院議員小泉純一郎も出席。横須賀市内を走る京浜急行バスでも、hide並びにhide MUSEUMをテーマにした路線バスを3台(衣笠営業所所属車2台と湘南京急バス堀内営業所所属車1台)製作・運行させている。七回忌に当たる2004年5月2日には「FILM GIG」などのイベントが開催された。2005年9月25日に記念館は閉館。当初は3年間の期間限定であったが、結果的に5年に延長された。閉館後も、展示品などは時期を見て公開する予定であるとされている。


2007年4月1日、裏原宿に移転しLEMONed shopがオープン。


2007年10月17日、X JAPANが再始動。新曲「I.V.」は、生前のhideの演奏をデジタル加工して使用されており、念願としていた世界デビューへhideも同行する形が取られた。10月22日のミュージックビデオの撮影にはhideの立ち位置に空席のマイクスタンドとhideモデルのエレキギターが設置され、YOSHIKIがhideの人形を持って登場するなど『hideも一緒である』ということが強調されていた。2008年3月28日に東京ドームで開催されたX JAPANの復活ライブでは、特殊映像などを駆使して再現されたhideの立体映像が登場。


2008年5月3日・5月4日、味の素スタジアムにてhideを追悼する為の十周忌追悼ライブ『hide memorial summit』が開催された。多数のバンドやミュージシャンが出演し、5月3日に出演したhide with Spread Beaverと5月4日に出演したX JAPANでは、ステージに設置された巨大モニターに生前のhideの映像を放映する形で共演。


2013年はソロ活動20周年、2014年は生誕50周年のメモリアルイヤーとなり、hide MUSEUMの8年ぶりの復活など、様々なプロジェクトが進められた。


2014年12月10日、生誕50周年アルバムとして、3rdアルバム『Ja,zoo』に収録される予定であった未発表曲を含むベストアルバム子ギャルが発売された。収録内容も、新曲の「子ギャル」に加え、2002年7月にリリースされたベストアルバム『hide SINGLES 〜Junk Story〜』に収録された15曲(16曲目に収録されたコメントは除く)を、Junk Storyから順番に歴史を遡るように収録している。なお、この15曲はボーナス・トラック扱いである。また、初回限定版には、「子ギャル」のデモ音源も収録され、怪人カードが初回限定版・通常版にも封入された。これにより、完全に幻の曲は「ZOMBIE'S ROCK」の1曲となった。この曲はタイトルしか判明しておらず、メロディー・歌詞ともに hideの頭の中にしか存在していないため、音源化は不可能である。


2015年5月24日、生誕50周年記念ドキュメンタリー映画「hide 50th anniversary FILM 〜JUNK STORY〜」が全国の映画館で公開され、また世界各国でも公開された。


2016年1月29日、日本人ロックアーティスト初として、約14万字に及ぶ膨大なヒストリー・未公開を含む、約100枚以上の貴重な写真、母子手帳、成績表、名刺、サイン色紙、イラスト、作品発売のポスター、ライブチケット、スケジュール表、日本レコード大賞 特別賞の賞状、hide MUSEUMオープンのポスター、hide MUSEUMのパンフレットなど、お宝アイテム約50点で構成された、豪華な大型本「hide Perfect Treasures」が発売された。


2016年7月18日、1996年に千葉マリンスタジアムで、翌年には都内5カ所のクラブを、インターネット配信で同時中継した伝説のイベント「hide MIX LEMONeD JELLY」が、舞浜アンフィシアターで開催された。


2016年10月14日から16日までの3日間に渡って、幕張メッセで開催されたVISUAL JAPAN SUMMITに、X JAPAN及びhide with Spread Beaverのメンバーとして出演。なお、hide with Spread Beaverは、2008年5月に味の素スタジアムで開催された「hide memorial summit」以来、約8年ぶりの再集結であった。


2016年10月15日、伝説の2nd ソロツアー最終公演を3D映画化した「hide solo tour 1996 -PSYENCE A GO GO-」が全国で公開された。


2017年3月3日、X JAPANのドキュメンタリー映画We Are Xが、全国で公開された。


2017年8月5日、「hide MIX LEMONeD JELLY」が、新木場STUDIO COASTCOASTで開催された。


2018年4月28日・29日、『hide 20th memorial SUPER LIVE「SPIRITS」』がお台場野外特設ステージで開催された。hideと交友関係のあるアーティストが多数出演。hide with Spread BeaverのメンバーはVISUAL JAPAN SUMMIT以来約一年半ぶりに集結。


2018年5月26日ドキュメンタリー映画「HURRY GO ROUND」が全国で公開された。


2019年5月2日CLUB CITTA'KAWASAKIにて『hide Memorial Day 2109~春に会いましょう~』献花式が開催された。


2019年12月8日CLUB CITTA'KAWASAKIにてhide Birthday Partyが開催された。


2020年8月30日裏原宿のLEMONedショップが新型コロナウイルスの影響で閉店。 なお、オンラインショップは続行中である。

詳しいことは、「hideウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/Hide
(wikiより)

 

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