どうも本間です。
しばらくぶりぶりのブログです。
最近はどうも忙しくだいぶクタクタ、ヨロヨロのクタヨロでした。
何年ぶりの再会も多く、忙しい中にも充実感があったようなないような。
ところで、昨日事務員のAさんから神妙な顔で
「私はこちらの会社で働かせて頂いているので社長である本間さんの指示に従っていきたいと考えているのですが・・・」とのこと。
内心ドキッとしながら心の準備をする私。
「・・・何かありましたか?」
と聞くと、
「あの例の熊手なんですけど、皆さんには不評なようで・・・」とAさん。
会話の熊手とは私の案でご契約いただいたお客様に商売繁盛を祈念してお送りしている開運御守護の熊手のお守りのことなのですが、ほかの社員には不評だというのです。
その理由として
・西新井大師ってどこ?っていう人が多いのではないかということ
・宗教じみていないかということ
の2点があげられるようなのですが・・・
ちなみに1の理由は我々が籍を置く代表的な神社であるという西新井大師を選ぶことは不自然ではないし、調達の移動コストを考えても妥当であると判断できると思います。
私が少し考えたのは2の理由で、たしかにお守りというのは宗教的なものであるので、場合によっては失礼になりえるのかということです。
↑ちなみにこれが熊手。
私は別にどこの宗教に肩入れしているわけではないし、どちらかというとバリバリの無神論者なのでありますが、日本から古く受け継がれている神道(しんとう・かんながらのみち)においての「神」というものの考え方、つまりり唯一神(たとえばキリストやアラーなど)とは違い、「神」とは万物に潜むという考え方であったり、山や川、滝などの自然に対し、畏れ、敬うというこの思想だけはスッと受け入れられます。
そして何より、我々が、先祖より受け継がれていた初詣や参拝などの行為は宗教的な行為に他ならないし、投げたお賽銭は神社の収入になっているに決まっていることは百も承知ではありますが、私は「二礼二拍手一礼」でお参りをするようにしています。
昔はそういうことをすごく恥ずかしく思っていましたが、なんか、この神社の向こうに神様がいてというよりも八百万の神が潜む自然の前では無力の私もできる限り精一杯頑張ろうと原点回帰する行為として永く受け継がれているという意味でひとつの文化ともいえると思います。
もう一つが、宗教の悪い印象の部分として、「カルト」的な部分というのがあると思うのですが、例えば妊娠している方がいて家族から安産のお守りをいただいたとします。
「私キリスト教なんで余計気を回さないでください。」という人がいたらどっちが失礼な人間なんでしょうか?
一つの事業を起こすことは新しい命が誕生するのに匹敵するくらい壮大で大変なことだと思います。
その会社によって雇用が生まれ、その収入により養われる家族もいるわけです。
熊手というのはもともと農作物に使われているの器具なので、農耕民族である我々の命の源を現していて、また、「幸運をかき寄せる」などのイメージで商談繁盛の縁起物として受け継がれてきました。
ということで、それを送ることが失礼にはなりえないと強く思い、Aさんからの神妙なお話がそんなことでよかったとキリストに感謝したわたしでした。
久しぶりに栄秀行きました。
おいしかったなぁ。
マー君と稲峰さんの動きも間違いなくよくなってたし。
最近読んだ本です。
博士って結構文章力ありますね。
あとは村上龍の「55歳からのハローワーク」、これも面白かったです。
結構感動しました。
ということで不定期で頑張って書きますのでこれからもよろしくお願いいたします。
そんな時の私のBGM
矢沢栄吉
背中越しのI LOVE YOU