古代奈良時代)、聖武天皇第45代、しょうむてんのう)、701年(大宝元年)~756年(天平勝宝8年)と光明皇后(こうみょうこうごう)、701年(大宝元年)~760年(天平宝字4年)は仏教を深く信じ、天平期の疫病(天然痘など)の流行と政治の乱れ(長屋王の変など)を契機に仏教(法華宗)の鎮護国家功徳に対する依存が強まりました。

 

 そこで、全国に国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)、奈良に総国分寺として東大寺(華厳宗、奈良)を建て、大仏(盧舎那仏、るしゃなぶつ、金銅仏)を安置するなど、大規模な仏教興隆策が相次いで進められました。

 

 

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聖武天皇

 

聖武天皇ウィキペディア):  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

 

 

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東大寺大仏盧舎那仏奈良、google画像

 

(解説) 東大寺大仏は、745年(天平17年)、造仏長官、造東大寺司次官を勤めた国中公麻呂(くになかのきみまろ、仏師、技術系官人、渡来百済人子孫)、生年?~774年(宝亀5年)による平城宮(大和、奈良)での大仏造立計画、747年(天平19年)、大仏の鋳造(8回に分け行われ、2年余りの歳月を要した)と大仏殿の造営が進められ、743年(天平15年)大仏造立の詔(みことのり)が出されて9年後の752年(天平勝宝4年)聖武天皇の臨席のもと、大仏開眼供養が行われました。

 

 現在大仏は、江戸時代、1691年(元禄4年)に再鋳されたもので、造立当初のものが台座などの一部に残存しています。

 

 東大寺大仏殿は、751年(天平勝宝3年)完成しました。その後、1180年(治承4年)平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちにより堂塔の過半を失うと、1181年(養和元年)、大勧進職の重源(ちょうげん)上人、61才、1121年(保安2年)~1206年(建永元年)は、大仏の補修を命じられ、平安末期から鎌倉初期にかけて復興に力を尽くし、1184年(元暦元年)、勧進所との活動により大仏の補修を終えました。 また、1195年(建久6年)、大仏殿完成の式があげられました。 

 

 ところが、戦国時代、1567年(永禄10年)松永久秀(まつながひさひで)、1510年(永正7年)?~1577年(天正5年)、三好三人衆(阿波、徳島)との戦闘で寺内は再び焼亡しました。

 

 現在大仏殿は、江戸時代、1709年(宝永6年)、公慶(こうけい)、37才、1648年(慶安元年)~1705年(宝永2年)によって再建されたもので、1910年(明治43年)明治大修理、1980年(昭和55年)昭和大修理を経て、今日にその威容を伝えています。

 

 

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東大寺大仏殿華厳宗雑司町、奈良、google画像

 

 奈良東大寺大仏大仏殿建立には、塾銅(純度の高い銅)739560斤(きん、1斤は16両、670g、496トン)と共に、メッキ用に錬金(精錬した黄金)10446両(437kg)、水銀58620両(2.5トン)、さらに水銀気化用に木炭1万6656石(こく、1石は10斗、とう)が調達されています また、大仏造立の仕事に携わった人々は、知識人(寄進者)42万余人、役夫(やくぶ、作業者)約218万人とその労力は膨大なものでした。(東大寺要録、大仏殿碑文より)

 

 また、行基(ぎょうき、百済系渡来人の子孫)76才、668年(天智天皇7年)~749年(天平21年)は、この大仏造立の事業に多くの弟子と民衆を率いて参加、745年(天平17年)大僧正(だいそうじょう)に任じられています。

 

 東大寺大仏建造には、 は、長登銅山(ながのぼりどうざん、長門、山口県)から奈良の大仏の製作に積み出されたと言われています。長登銅山は、秋吉台の東の端に位置しています。付近にある石灰岩の山、榧ヶ葉山(かやがはやま)に、地下のマグマの噴出により花崗岩の花の山が誕生、このとき、石灰岩と接触部に熱変化が生じて、銅(孔雀石)、銀、鉄、鉛、コバルトなどの鉱物が形成されたと言う。

 

 は、749年(天平21年)、陸奥守、敬福( きょうふく、朝鮮、百済王族子孫)、697年(朱鳥元年)~766年(天平神護2年)により、日本で初めて陸奥国(涌谷町、わくやちょう、遠田、宮城)で砂金が発見され、東大寺大仏の建立に金900両(37.7kg)献上されました。また、この産金により年号が天平から天平感宝に改められたと言う。

 

 水銀は、丹生鉱山(にうこうざん、多気、三重)など、伊勢産の水銀が大仏の鍍金に使われまた、戦乱による損壊大仏の再建にも用いられたと言われています。

 

 大仏全身鍍金作業は、金4187両(当時一般に用いられていた1両は40,5g)を水銀に溶かした25134両の金アマルガム(金1に対して水銀5の割合)を用い、5年を要する大事業でした。金アマルガムを塗った後、表面は白色ですが、350℃の高温で焼き、ヘラ状のもので磨くと黄金色になります。すでに完成間近の大仏殿の中での作業、水銀の有毒ガスが発生し、金夫役(ぶやく)514902人の中には多くの人が中毒の病気になり、また死亡したと考えられますが、記録には見られないと言う。(香取忠彦: 文化、日本めっき事始め、2006年(平成18年)2月9日(木)、北陸中日新聞、朝刊より)

 

 古代(飛鳥、奈良時代)以前、田上山(たなかみやま、大津、滋賀)の田上から大石にかけて広がる一帯は、檜(ひのき)、杉、樫、椎などが鬱蒼(うっそう)と茂る美林であったと言われています。主峰は不動寺の建つ太神山(たなかみやま)で標高は約600mです。古来、743年(天平15年)東大寺建立、比叡山延暦寺、石山寺、三井寺など、巨大寺院建築製材は、田上山の古木が伐採されていました。

 

 万葉集には、694年(朱鳥元年)持統天皇の藤原宮造営のため、田上山を瀬田川、宇治川を経由して木津へ運んだという記述が残されています。また、大仏の焼成、鋳造、鍍金の加熱に木炭の火を使うため、森林の乱伐が繰り返され、さらに戦火で山火事も発生、雨で土砂が流失、花崗岩の地質に草も生えず、江戸時代には全山荒れ果て山肌が露出する無残な禿山(はげやま)の姿になっていました。明治時代、国の直轄事業として植林、砂防工事が行われ、またハイキングコースとして整備され、現在に至っています。

 

 

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お水取り修二月会東大寺二月堂のお水取り、google画像

 

(解説)  修二会は、3月1日から2週間行われる修二月会のことで、若狭神宮寺(わかさじんぐうじ)に渡ってきた、奈良東大寺二月堂の開祖、実忠和尚(じっちゅうおしょう、生没年未詳、東大寺の僧、渡来インド僧)によって752年(天平勝宝4年)、大仏開眼の2ヶ月前から、天下世界の安穏(あんのん)を願って始められ、期間中僧侶達は厳しい戒律を守って、連夜種々の行法を行います。

 

 お水取り(おみずとり)は、東大寺二月堂で3月11日~14日(旧暦2月1日~14日)まで行われる修二会(しゅにえ)中の行事の一つで、12日の深夜にお松明(たいまつ)の行法と共に行われ、呪師以下練行衆が堂前の若狭井(わかさい)の閼伽井(あかい)の聖水(功徳水、くどくすい)を汲んで加持香水とし、仏前に供えます。この水をいただけば病難を免れると信じられています。

 

 特に、12日のお水取りが名高く、いつしかこれが修二会全体呼称のようになっています。奈良ではお水取りがすめば春が来ると言われています。 

 

(参考文献) 小林剛: 日本の彫刻、至文堂(1963); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、第四版、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 歴史探訪研究会編: 歴史地図本、古代日本を訪ねる奈良 飛鳥、大和書房(2006); 桶谷繁雄: 金属と日本人の歴史、講談社(2006); 詳説日本史図録編集委員会編: 山川 詳説日本史図録(第2版)、山川出版社(2009); 梅原猛: 日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009) .

 

(参考資料) 

東大寺(華厳宗大本山、公式ホームページ): http://www.todaiji.or.jp

 

東大寺大仏(奈良、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

 

長登銅山(長門、山口): http://www.ysn21.jp/~eipos/data//01_IM/04_chiiki/IM43_001_akiyoshi/data/IM43_001_077.html

 

田上山(大津、滋賀、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%94%B0%E4%B8%8A%E5%B1%B1&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

 

お水取り(奈良、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%81%8A%E6%B0%B4%E5%8F%96%E3%82%8A&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;

 

○ 大仏開眼とは、大仏の目に筆で瞳(ひとみ)を書き入れる儀式です。その大役を務めたのは、菩提僊那(ぼだいせんな、インド人僧侶)で、筆には縷(長いひも)がついていて、そのもう一方の端を、聖武天皇や光明皇后をはじめ、参会の僧俗が大仏の下で握り締め、大仏との結縁(けちえん)を願いました。その筆と縷は、現在も正倉院に伝わっています。長屋王(ながやおう)の変、天然痘(てんねんとう)による藤原不比等4子の死去など、不安定な政情を安定させたい聖武天皇悲願が込められた大仏造立でした。菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁と共に東大寺「四聖」としてその功を称えられています。

 

○ お水取りの行の初日に、実忠和尚は、神名帳を読み上げられ、日本国中の神々に勧進されたのですが、若狭の遠敷(おにゅう)明神だけが漁に夢中になって遅れ、3月12日、修二会もあと二日で終わるという日の夜中に現れました。遠敷明神はお詫びとして、二月堂のご本尊にお供えする、閼伽水(あかすい、清浄霊水)を献ぜられる約束をされ、神通力を発揮されると地面をうがちわり、白と黒の鵜(う)が飛び出て穴から清水が湧き出しました。若狭の鵜の瀬より地下を潜って水を導かせたという。この水を若狭井と名付け、1250年の長きに渡って守り続けられているその井戸より閼伽水を汲み上げ本尊にお供えする儀式が、大和路に春を告げる神事、東大寺二月堂お水取りです。

 

○ お水送りは、動と静、火と水の華やぎの神事です。夕闇が迫る神宮寺の回廊から、大松明を振り回す達陀(だったん)の行に始まり、境内の大護摩(ごま)に火が焚かれると炎の祭典は最高潮に達します。やがて、大護摩から松明にもらい受けた火を手に、2キロ余り上流の鵜の瀬に向かいます。法螺貝(ほらがい)の音と共に、山伏姿の行者や、白装束の僧侶らを先頭に3000人もの松明行列が続きます。大護摩の火は、ここで靜かな流れに変わり、ひと筋の糸を引く光の帯となります。河原大護摩が焚かれ、住職が送水文と共にお香水を筒から遠敷川注ぎ込みます。若狭の自然と、火と水は一体となり10日間かけて大和の国至るという。

 

 若狭は朝鮮語ワカソ(行き来、ワツソ、来るとカツソ、行くとの合成語)が訛(なま)って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラ(国という意味で、またナラして開けた土地、即ち都という意味にもなる)が訛って宛字とされています。若狭神宮寺の地方は若狭の中心で白鳳以前から開け、遠敷川の谷間は、上陸した半島大陸の文化が大和(朝鮮語でナラともいう)へ運ばれた最も近い道でした。それは暖流の対馬海流に乗ってきて着岸した若狭浦の古津(古代朝鮮と大和ならを結ぶ海と陸の接点)から国府のある遠敷(おにふ、朝鮮語をウオンヌ、遠くにやるとか遠く来て敷く意味の語が訛った)や根来(ねごり、朝鮮語ネコール、我々の古里の意味の語が訛った、新羅系発音、和歌山の根来は高句麗系の発音のネコール)と京都や奈良が百キロほどの直線上にあることです。(参考文献、若狭神宮寺別当尊護記、寺誌第一集、お水送りとお水取り、若狭神宮寺から奈良東大寺へ(1980)、若狭から奈良へ お水送り、若狭おばま(小浜)観光案内所パンフレットより)

 

○ 水銀は当時、水ガネと呼ばれていました。そこで、お水取りは金アマルガムから水銀を抜くこと(水銀取り)が、お水取り、との説もあります。また、お水取り行事に達陀(だったん)の儀式がありますが、これは松明(たいまつ)の火による脱丹(水銀、丹生の汚れを抜く、焼き飛ばす)、すなわち、昔の大仏鍍金の時、大量に使用された水銀で汚染された土地をきれいな状態に戻すための儀式を意味するという。

 

 また、巨大な大松明を振りながら走る行法は、差し迫った大仏開眼供養に間に合わせるため、大仏の頭部だけを急いで鍍金した様子を表しているともいう。

 

○ 奈良東大寺の大仏盧舎那仏の金鍍金水銀残量の問題に関連して、その御身拭いのあと大仏殿のゴミの中から採取された金小片と、奈良三月堂不空羂索観音の肩の部分のゴミから拾われた金箔小片が放射化分析により比較研究されています。奈良東大寺盧舎那仏の鍍金は金アマルガム法で行われている史実があるので、その金小片の試料は通常の金箔に比較して水銀含有量において特長を持つ可能性があります。その結果、大仏殿試料には三月堂試料に対し約17倍の水銀が含まれていることが分かりました。

 

 また、大仏殿金試料における水銀残留の問題と関連して、人工的に金と水銀を重量比で1:5および1:100に混合して金アマルガムをつくり、それを215℃2時間半および320℃1日毎、断続3日間加熱して水銀を蒸発させる実験も行っています。その結果、金アマルガムからの水銀の加熱蒸発分離にはかなりの温度と時間を要することが分かりました。

 

 このことから、屋外作業で行われた大仏の金鍍金のさい、金アマルガムからの水銀の加熱分離が充分に行われたとは思われず、大仏殿のゴミの中から採取された金小片試料中に水銀量が多いこと、つまり大仏の鍍金がアマルガム法だったことが裏付けられたと考えられています。(参考文献) 阪上正信: 東大寺大仏の鍍金と金沢城石川門鉛瓦の放射化分析による検討、考古学と自然科学、第7号、9~17(1974).)

 

○ 東大寺には、二月堂(法要、節分豆まき、修二会お水取り、十七夜盆踊り)、三月堂(法要、毎月17日、法華堂とも)、四月堂(法要、毎年4月、法華三昧、三昧堂とも)があります。

 

〇 東大寺 再発見 

  奈良・東大寺の魅力は大仏だけではありません。ふだんは観光で訪れる人が少ないお堂や仏像、遺構があり、それらを見て歩く催しが10月初めに開かれました。 (朝日新聞:東大寺 再発見、2017.10.30)      

 

念仏堂: 大仏殿のすぐ東。鎌倉j時代に建てられ、もとは地蔵堂と呼ばれた。堂内には重源上人や仏師らを追悼するために作られたという地蔵菩薩坐像がある。

 

公慶道: 大仏殿の北東角から北へ、約140mの細い小道が延びる。「公慶道」と呼ばれる。大仏殿再建を胸に、公慶上人が日々、大喜院と大仏との間を行き来したと伝わる道である。大仏の修復は果たしたが、大仏殿完成の4年前、公慶上人は江戸で病没した。

 

指図堂: 大仏殿の西。華厳宗大本山の東大寺が浄土宗とも関係が深いことを示すお堂が立っている。浄土宗の開祖、法然上人(1133~1212)をまつった指図堂である。本尊は法然上人の画像で、手に念珠をかけて合掌する姿が描かれている。草履を履いており、各地を行脚している様子とみられる。

 

 鎌倉期に東大寺を復興した重源上人は、浄土信仰にもあつく、自らを「南無阿弥陀仏」と称して阿弥陀仏信仰を広めたとされる。念仏による浄土信仰を広めていた法然上人は、重源上人の招きに応じ、再建途上の東大寺で浄土三部経を講じたという。お堂はその後、大風で倒壊したが、江戸末期に浄土宗関係者の願いを受け、再建された。

 

阿弥陀堂: 大仏殿西側。江戸期の東大寺復興にあたり、公慶上人は勧進所を設けた。その中に、公慶上人が信仰のよりどころとした阿弥陀堂がある。