「適応」
ということをよく考える。

私は、
私の流儀に
この世の全ての人間を
従わせたいとは
思わない。

或る意味
「征服」
ということだと
思うが、

ないな。

男としては、
「征服」ってことが
必要なのかな?
と思ってみたりもする。

だが、
ないな。

「征服」。

今まで生きてきて、
圧倒的に
「適応」
していく方が
重要課題だった。

私、
中国古典が好きで
春秋戦国や
秦、
漢なんかを
勉強しているけれど、

やはり
秦の始皇帝はないわ、
と思ってしまう。

自分の理想として。

できれば、
孔丘先生の
門人になりたい。

幼い頃に見た
『孔子傳』
というアニメを
久々に見直した。




孔子は
晩年まで
苦労している。

きらびやかな玉座や
豪傑譚というものとは無縁な、
誠実さと悲哀と、
人生の重みのようなものを
感じさせる生き様。

ただただ
誠実であろうと生きる。
それがいかに難しいことか
わかった上でなお
誠実に生きようとする。

顔回も子路も
孔子にならい、
自分の境遇の中で
もがき苦しみながらも
誠実に生きようとしたのだろうな、
と思う。

師は、
生涯において
父母兄弟を除いて
最も大切な人だと思う。

顔回や子路は
孔子に出会えたこと、
それだけでも
きっと誠実に生きてよかったと
最期に思えただろう。

世の中に
「適応」していかねば
生きてはいけない。
だが、
それは
自分にとって大切な何かをまもるために
変化することをおそれないのだ。
「適応」した結果、
何かが残る。

残った何かが
おのれの誠実さを
体現するものであるならば、
人生の重み、
おのれの境遇の厳しさ、
それら苦しみも
生きるための糧に
できるのではないだろうか。

孔丘先生の
門人になりたいという人は
たぶん多いと思う。

井上靖先生の『孔子』を思い出す。
最後まで読んではいないが、
先生が
孔子門下の末席にいる
弟子になったつもりで
お書きになった、
と聞いたことがある。


本当かどうかはわからないが、
孔丘先生から教えを賜りたい、
と思う人は
時代がさらにくだっても
尽きないと思う。

日々刻々と変わる世の中で
「適応」していくことに
溜め息が出ることもある。
「まだ変わらないといけないのか」
「もうこの辺でいいではないか」
「まだ利便性を追い求めるのか」
「こんなこと無意味なんじゃないか」
など、
変わることへのためらいや
恐怖は少なからずある。

ただ
変わらないと生きていけない。

肉体だって
変わり続けている。

10年前の自分と
今の自分では
肉体を構成する分子やらが違うらしいが、
体重なんかは
もっとわかりやすく違う!

音楽の好みも
食の好みも変わる。

変わらないものを探す方が難しい。

同じことを繰り返すのも
そのうち飽きてくる。

不思議だ。
変わりたくないと思っていても
その気持ちそのものが
次第に変わっていく。

ひとつ人間に
変わらないものがあるとすれば、
誠実さ、
誠実に生きようとする心、
なのかもしれない。

孔丘先生への魅力が
私の中で薄れない理由は
たぶんその誠実な生き様に
学びたいと欲するからだ。

たまにこうして思い出しながら、
世がいかにすさんでも
誠実に生きようとする生き様を
私は生きる!
と誓い続けよう。

「征服」よりも
「適応」を好む
意志の弱い私は
時々世情に迎合し過ぎて
自分を見失うから。