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私が小学生当時にあった「道徳」の授業って、今でもあるんでしょうね?
道徳の授業では、主に人に迷惑を掛けないとか、道に外れた行為を戒めるというような抑止的な教え方が多かったと記憶しています
徳という言葉ですが、私は、この一文字を明快に説明出来るひとにあまり遭ったことがありません
私としては、徳がある人とは、他人の「考えを明るくする」、「心を軽くする」「前向きにする」という定義をしています
道徳教育でも、子供に対して規制や抑止的教えではなく、廻りの人々の「考えを明るくする」、「心を軽くする」「前向きにする」ことの素晴らしさを中心に教えて貰えないものでしょうか?
道徳一つとっても指導の仕方でひとは全く違う育ちかたをします
注意すべきは、ひとは自分がされてきたことを相手や他人にしてしまうという点です
私は小学生からワルガキでしたが、反面、かなり嗅覚はいいほうでした
担任の先生によく差別を受けていた時期がありました
エコヒイキが好きな先生でした
でも、それでめげるような子ではなかったですから、授業中でも、思ったことは遠慮なく口に出していました
後に担任の先生は、謝恩会の席で、私の親に「何もかも見抜かれているようで怖かった」と漏らしました
立場を利用して、恐怖でコントロールしようとするのは、土台無理があります
時に厳しい指導は重要です
でも欠かせないのは、根底にある深い愛情の存在です
結果を追い求める方法論ありきで、後付けの愛を口にするのは、言わば安いメッキと同じですぐ剥がれるものです
ところで、アンドリューカーネギーは鉄鋼王として、その破格の事業成功を知らないひとはいないと思いますが、デール・カーネギーはどうでしょう?
その著書「人を動かす」の中で
・相手の間違いを指摘しない
・相手の自己重要感を満たしてあげる
など他、多くの人を活かした“大人の”交友術や方法論を書き残しています
地味ですが、私の好きな本のひとつです
※“大人の”と書いたのは当然ながら「明らかな間違いを犯している子供」や「学校や学ぶ場における生徒」という立場では適用できないからです
しかし、デール・カーネギーが期待した上記2点について、巷では真逆の使い方を多くの人がするのを目にします
私は、たまに呑み屋で相手の悪い点をズバリ指摘して鼻意気を荒くしている人を見かけます
大抵の場合、間違いを指摘されたほうは、指摘した相手に負けない反論を展開し泥仕合になります
職場で上司が部下のミスを責める場面も同じです
部下も最初は聞くかも知れませんが、二度目からは上司の期待した方向とは逆に部下は反抗心を高めます
自分の重要感を満足させて、自分の立場をフルに使い、代わりに相手や他人を傷つけているからです
重要感を相手に与えれば、輝くような成果や効果を生むにも関わらずです
やっている事が逆なのです
一方、学校教育は、はみ出し者を作りたくないというような、為政者や支配層が扱いやすいような教育方式が採られてきました
教育現場の先生たちは、教育委員会や文部省への報告書を書くのに追われ、肝心の子供たちの指導に力を割けないで苦しんでいるのはその証と言えなくもありません
もう一つの現実として、学校に苛めが発覚すると文部省や教育委員会からの評価が下がり、主に校長及び以下の教員か準じて苛めを認めないという仕組みが露わになっています
こちらも対応は逆であるべきです
私は、「苛め」問題を解決した教師や学校が高い評価を受けるべきだと考えます
苛めなど問題解決の成果に対する評価システムの仕組みは簡単な筈です
ものごとが負のスパイラルに陥っています
でも、長い目で見れば必ず少しずつ確実に良くなります
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