ウンスが抱いたピンク色の疑問ふたつが解決すると、チェ・ヨンがグイと顔を近づけてくる。
目には力が宿り、口は一文字。久しぶりに目にする戦闘スイッチ・オンといった表情だ。
「話しがあります」
「…改まっちゃって、何かしら?」
「チョナにお目通りをして参るので、貴女は旅支度を」
今、この男(ひと)旅って云った
それって一体…
「どのくらいかかりそう? 着換えは何日分必要かしら?」
「謁見が叶うまで一時。お許しを頂くのに一刻ほど。荷物はできるだけ少なめに」
「わかったわ」
☆☆☆
ピンクの風呂敷に荷物をぎゅうぎゅうに詰め終えると、男物の衣に着換えを済ませ、ウンスはいつでも出発可能で、チェ・ヨンの戻りを待つばかりである。
なのに一時半が過ぎても待ち人来たらずで、さすがに心配が先に発つ。
「約束は守る男(ひと)なのに、なにかあったのかしら」
気をもんだところで出来ることはない。
いいわ、こういう時こそ予集中して、予習復習?
いきなり筆を手に取ると、“紅” という漢字を使う言葉を書き始める。
「え〜と…口紅、ほお紅…ほおって漢字がわからないからパスしとこう。他には、紅粉、紅茶、と。そうそう、確か紅花(コウカ=生薬名)も…」
メモ書きを並べてみると、かろうじて最後の紅花(※1)だけが生薬の名だ。
今ひとつかな
心にしみるような言葉、ソジュンさんの説話に出てきたような気もするんだけど…
☆☆☆ ソジュンの説話から ☆☆☆
「誰しもが魅了されるほどの美少年、賈(か)家の御曹司・宝玉は、美を愛する風流人。しかしながらこの若君、実は女媧氏(※1)に捨てられた石ころの化身だったのです。今日は、彼の怪が人間界においてある悟りに至るまでを綴った話しをいたしましょう」
ウットリするほど良い声が、耳に届く。
「清という時代に書かれた読み物に、叔父なりの解釈を施しているのだとか」
ソジュンはタイムトラベラーだ。もしかしたら、ソウルのどこかでウンスとすれ違っていたかもしれない。
「脚本もお手のものですもんね」
「華やかな貴族たちの栄華と衰退を背景にして “児女の情” を語るのだと、それは張りきって」
ワンビママったら、叔父様が大好きなんだわ
「医仙、始まるようです」
「黙って、ですね」
「天地の別れし時、恋情の虜は誰なるや
風月の情の濃き故に、やるせなき天
すべてはただ悲しき日、寂寞の時、思いをさらさんとて演じる物語」(「紅楼夢~愛の宴〜」※2オープニング曲字幕より抜粋)
ソジュンの朗々とした声が響き、皆一斉に説話の世界へと誘われていった。
☆☆☆
…登場人物のひとりが流した涙のことを、ソジュンさんコウルイっていってた
もしかして、紅の涙って書くとか?
紅の涙とは、どういう意味なのだろう?
情を絶たれた女が流す血の涙か…
それとも、美しい女の流す涙か…
「待たせました」
チェ・ヨンの声がして、ウンスの思考はそこでプッツリと途切れてしまった。
☆
「こっちはね、準備万端整い過ぎちゃったくらい」
「ならば、急ぎましょう」
ピンク色をした風呂敷をウンスに結んでやりながら、卓に散らばる覚書がチェ・ヨンの目に入る。一番上には “紅涙” という文字が書かれており…
何故、このような文字をご存じなのか
よもや、あの方の説話に出てきたと?
あれれ? なんで急に険しい顔つき?
「待っている間にね、”紅” のつく言葉を書き出してみたんだけど…」
こういう時は、心なし首を傾げながら上目遣いで、いつもより瞬きの回数を増やしながら…ハナ、トゥル、セッ
「あなたに意味を教えてもらおうか、なんて」
于達赤兵舎での手立てに比べると、今回は幾分仕草を盛っている。
「知りたいと?」
「知りたい」
「どうしても?」
「どうしてもよ」
「ならば、後ほど」
「いいわ。絶対よ」
片方の口の端をツイっと上げながら、チェ・ヨンはウンスに出立を促した。
☆☆☆
ふたりは今、手裏房が用意した船着き場近くの宿にいる。ここから礼成江の支流を下り、西江から三日間船に乗るのだ。
「三日間も…」
「チャン・ビンの酔い止め薬がある」
「そうだけど…」
何処へ、何をしに行くのか…未だチェ・ヨンからはひと言の説明もない。
この男(ひと)、三日のうちに話すつもりなんだわ
「ならチェ・ヨンさん、そろそろ教えてもらえない?」
「何をです」
「後ほど、のコウルイについて、よ」
☆
「血の涙、悲嘆の涙という意味から転じて、美しい女子が流す涙を意味するかと」
「ちなみに、こっちでは “おなご” って何歳くらいまでのことを…指すのかなって」
気になるのはそこか
「ソジュンさんの新しい説話なんだけど、登場人物に若い子が多くて、そのひとりがコウルイに沈んだっていう下りがあるの。それが心に響いちゃって…」
「何故…」
「そうなったかはね、大切な男(ひと)が自分から去って行ったから、かな。
彼女は正妻でも側室でもないから、屋敷で待つことも出来なくて…
そんな寄る辺のない立場を嘆く気持ちもあったのかも…」
その女人(ひと)の顔に、そこはかとない翳りが見てとれる。
医仙と呼ばれ、王や王妃に信頼を寄せられたところで、所詮この地が終の棲家とはなり得ない。
だから、もしも天門が開いていたなら、チェ・ヨン自らウンスを送り届ける覚悟でいる。但しそのことは、ギリギリまで黙っているべきなのだ。
過度な期待を抱かせることなく、その身も心も揺れぬよう、貴女を守りぬく所存
「チェ・ヨンさん聞いてる? ね、“おなご” の年齢制限て幾つくらいまでなのか…
一般論でも私見でも構わないから…」
☆
「ヨンの奴、逃げ回ってらあ」
「まったく、なんで云ってやらないんだろうねぇ。女に生まれたら死ぬまで “おなご” なんだってさ」
「ん? 聞いたことねぇけどな」
「なんだってぇ〜」
マンボ達はさておき、こうしてふたりだけの旅路が始まろうとしているのだが…
それはまだ別の話にて(J しつこいですから by 緋剣)
終わり
前の記事に頂いたコメントから、ウンスが小首を傾げて瞬き多めっていうくだりを頂いて…書き始めたら長くなっちゃいましたε=ε=ε=
※1女媧氏とは:古代中国神話に登場する人類を創造したとされる女神。五色の石をこねて天の亀裂を繕い、巨大な亀の足で天の四隅を支えたとされる伝説も。
※2紅花(コウカ)とは:キク科(Compositae)のベニバナ Carthamus tinctorius Linnéの管状花をそのまま又は黄色色素の大部分を除き、圧搾して板状としたもので、血液のうっ滞を除き、気血のうっ滞による痛みを治す。(kampo view 生薬事典より抜粋)
※3「紅楼夢~愛の宴〜」とは:原作は曹雪芹の「紅楼夢」。清代の長編小説で、中国四大名著のひとつとされており、愛の宴は2010年にドラマ化された作品。
このドラマ(おそらく原作でも)「紅涙」とは結びつかないかと(勝手に引用🙏)
私見ではありますが、映像はとてもキレイです。