杏林にはペクトゥ(白頭)という美しい虎がいる
その堂々とした体軀は山を思わせ
大きくて尖った牙は岩をも砕き
硬い爪は頑丈で鷹よりも鋭い
病が治って杏の苗を植えてゆく人
満開の花を愛でに訪れる人
たわわに実った果実と穀物を交換する人
魔が差して悪さを働いた者達を懲らしめ
杏林を守るのが役目である
パタパタと廊下を行き来する音がする。
患者が運ばれたのだろうか…
「止血を急ぎましょう」
「お願いしますっ」
男の医員と女人の付き添いの声がして、チェ・ヨンはふとした違和感に襲われる。
たった二言の会話が、妙に引っかかるのだ。
何故だ
幸いなことに、手足が動くようになっている。
わけを探ろうとして布団から起き上がると、肺の奥がチクチクと痛む。
…まだ本調子とはいえぬな
チェ・ヨンは結跏趺坐を組むと、仙骨を立て背筋を伸ばし、運気調息で滞った "気” を整え始めた。
☆
そうか…声だ
怪我人が運び込まれたなら、あの方が駆けつけぬわけがない
調息の終いに、最後の息を深く吐ききって閉じていた目をゆっくりと開けると、屋敷の気配を隅々まで探ってみる。
ところが、突然チェ・ヨンの目の前に現れたのは、山のように大きくて美しい一頭の虎だ。
赤月隊にいた頃、一度だけ虎に遭遇したことがあるが、その時の猛獣とはまったく違う。
獲物を求めて彷徨うのでは決して無く、堂々とした威厳さえ備わっている。
あの方が話されていた、ペクトゥなのか?
もしや、俺を運んでくれたのも…お主なのか
「ペクトゥ、か?」
声に出すと、そうだ、というように虎の目が細まった。
「某はチェ・ヨンと申す。本貫は江原道鉄原…」
昨夜までは己の名前すら言えなかったが…
すらすらと出自が口をつく。無くしていた記憶を取り戻したのだ。
「チェ・ヨンと申すのか。思いだしたのはすっかりと良くなった証しじゃ。
わたしの調薬は捨てたものではないぞ。
顔色が少々戻らぬようじゃが…肺が痛むか?」
一人の男が虎の背を撫でながら、声をかけてきた。
「この杏林は貴殿の…」
「気付けにな、杏仁を少々。ちと入れすぎたか…」
年の頃は不惑より幾分若く見える。
チャン・ビンに似ている気もするが、話し方や雰囲気などは、あの方によく…
それに、杏林に虎とは…よもや董奉か?
拙いな…気がついたか
しかしこの者…武官だろうに、女人よりも美しく、随分と書物に親しんでおるようじゃ
董奉は華佗、張仲景と並び立ち "建安の三神医” とも呼ばれている。
重い病人は五株、軽い病人は一株と、貧しい患者からは治療費の代わりに杏の苗を受け取ったという。
華佗を、その弟子でもいい。天界にゆき、王妃の命を繋ぐ医員を探し出し、必ずや連れて戻れ。
そう王名を賜り、躊躇うことなく天門に入った。
目を開けていられないほどの光の束と、息もつけないほどの落下に身を任せ…チェ・ヨンは、この杏林に辿り着いた、そういうことなのだろう。
ならば…この方をお連れせねばならぬのか
ここは、俺が目指すべき天界とやらなのだろうか
最終回へと続く
やっと虎も登場し、終わりが見えてきました!
ペクトゥ、どうやら人よりもズッと大きいらしい?!?!