雨を纏った路地バラが放つ微かに甘い香りと、グラスにたっぷりと入ったミントの爽やかな香りが、手にしたカクテルのように混ざり合い、夏の始まりを知らしめてくる。

昨夜記憶を頼りに辿り着いた廃屋とは比べものにならないほど、ここは、快適な場所だ。

マダムローズ。ウンスがそう呼ぶことに決めた女人(ひと)に出会ってから、まだ一日も経たない。しかし…

 

あなたは、ユ・ウンス、違いますか?

もしそうなら、あなたのチェ・ヨンは、どうしていますか?

ハラボジやハルモニをご存知なのは、どうして?

なぜ、わたしに親切に?

どうして…

どうして…

 

尋ねたいことが次々と頭を過って行く。

それなのに、ウンスは手にしたグラスを握りしめたまま、問いかけることが出来ない。

 

知るのが、恐いのだ。

知ってしまえば、その事実を認めたことになる。

 

なら、知らないままでいるつもり?

もっと恐ろしいことになるわ

向き合って、チャンとして

そうよ、あの男(ひと)に逢うためなら…何だって、どんなことだって乗り越えなくちゃ

 

「手、冷たくない? そんな風に握りしめてたら氷が溶けて薄くなっちゃうわ」

「あっ…」

 

まるで心を読まれたようなタイミングだ。

 

喉、カラッカラ

 

久し振りに口にした酒は、甘さを含んだいい香りがする。

「おいしい」

「ダークラムだからストレートで飲んでもいいんだけど…

ミントがたくさん採れちゃって、つい、ね」

 

片眼をつむって、貧乏性よね? と笑いかけてくる。

その顔には目立つ小皺もシミも目の下のたるみも無い。

老けて見えたのは、やはり髪が白い所為だ。

 

うちは白髪の家系じゃ無いのに…ストレスの所為?

…だとしたら、よほど強いショックを受けたとか?

 

「ああ、これ?

もうおばあちゃんだから、諦めの境地よ。染めるのは一時しのぎだし」

 

ウンスの頭に浮かぶことが、目の前の女人(ひと)にはわかるのかもしれない。

それなら…どう切り出すかを悩むより正面突破だ。

「キレイな銀髪です。ため息が出るくらい、ユ・ウンスさん」

 

すると、マダムローズがいたずらそうに目を大きく見開いて「あら」とひと言。

「バレちゃった? ちょっと濃いめのコンシーラーを駆使したんだけど…

さすがは腕のいい美容整形外科医ね」

 

二人のウンスは、顔を見合わせて笑い合った。

 

「色々と聞きたいことがあるんでしょう? 

生憎とチェ・ヨンは不在だけど、どうぞ、何でも訊いてちょうだい」

 

「1979年は、わたしが生まれた年だわ。

つまり、このパラレルワールドには、今現在、三人のウンスがいるってことになりますよね」

どこかで聞いたことがある。ひとつの時空に存在できるのは一人の自分だけなのだと。

 

「ひとつの時空にひとりのウンスっていうのが基本よね。

だからここでのわたしは、本来いるべき存在とは異なる、そうね、異分子的、とでも言えばいいのかしら。名前を変えて、歳を変えて…大切な男(ひと)から離れてしまったあなたを待ってた。もちろん、出来ることは限られてるんだけど…」

「…じゃあ、(わたしが)ここに来るのをご存じだったと?」

 

マダムローズはウンスの手にそっと自分の手を重ね、優しく握りしめる。

「あなたも気付いてるんでしょう? 

あの手帳に、どうして西暦1100年からの日付けが並んでたのか…不思議に思わなかった?」

 

確かにそうなのだ。

”은수” とハングルで記された手帳を書き写しながら、もし、この内容を書き記したのが自分ならば…その情報はソウルでしか得られない。だとしたら、いつそれを調べたのだろうか…と。

 

「ええ、高麗の記録を写したなら檀君紀元で書かれてるはずだし、MとかAとか、太陽フレアの規模を表す指標まであったから。

…あれ、もしかして、あなたなんですか?

 

…なら、チェ・ヨンと引き離されてソウルに戻って、で色々と調べて…

…そのあと、100年前の高麗に? 」

 

マダムローズの手を、今度はウンスがギュッと握りしめる。

爪の形までそっくり自分と同じ形をした暖かい手の持ち主は、気の遠くなるような長い月日をかけて、自身の誤った選択を正そうと力を注ぎ続けたのだ。

 

「あの男(ひと)から引き離されてしまったわたし、つまりあなたのこともだけど、もう一度彼に逢えるようにしなくちゃって…それが、わたしの役目、かな」

 

役目?

 

「あの時、わたしは間違いを犯したわ。

あの男(ひと)と、少しでも長く一緒にいたくて…」

 

気付けなかった…

チェ・ヨンがどれくらい重たい責任を背負って生きているのか…

わたし、これっぽっちも、理解出来きていなかったんです

 

内功が暴走するほどにチェ・ヨンを苦しめ追い詰めた自分が、どうしても許せない。

マダムローズは自分と同じように迷い、悩み、苦しみ、そして後悔し続けてきたのだ。

 

「あなたも…あの光りにのみ込まれたんですね」

「あの男(ひと)にもう一度逢うまで、長い長い時間がかかったわ。

すっかり歳をとって、髪も白くなって…それでも信じたの。いつか必ずって。

…で、やっと逢えた」

 

あなたも大丈夫よ…そう語りかけてくるようなマダムローズのいい笑顔だ。

 

「それで…あの男(ひと)は、あなたのチェ・ヨンは、いまどこにいるんです?」

確か、ご主人は旅行に行ってるって…」

 

すると、その優しい眼差しがチャシャネコのように細くなって…

「そうなの。チェ・ヨンは昨日から、ちょーっと高麗まで」

 

こ、高麗ですってぇえええ?!

 

 

 

続く

 

 

 

同じ時空にふたり以上のウンスが存在し得るのか?

出会った途端に消滅しちゃうっていう解釈もありますが…

 

この世界のウンスは生まれたばかりで…

ふたりのウンスはそれぞれ異なる多次元宇宙から来たもの同士。

なので消滅はしない、という前提で話を進めてゆこうかと思います。

 

ひとつ前の話に頂いたコメ、ありがとうございます。

鋭すぎ〜!!!

で、ネタバレしちゃいそうなので、次話を書き終えたら必ずぅううう〜〜〜〜