水道の蛇口をギュッとひねり、ペットボトルに水を注ぐ。

 

四つん這いになって、服が汚れるのも指先が土まみれになるのも構わずに、手掛かりを探し続けるウンスのために、テスがしてやれるのは…

水汲むことかよ…

 

ちりぢりに乱れた感情と上手くまとまらない思考を整理するため、一人になる必要があった。

10年もの間運命の男(ひと)だけを想い、その男の元に戻るためだけに生きてきた。

ユ・ウンスという女人(ひと)は、チェ・ヨンという武士に、恋をし続けているのだと思う。

横恋慕もいいとこだ

 

想いを断ち切るように、蛇口をキュッキュと音をたてながら固くしめる。

「In the middle of difficulty lies opportunity.(困難の中に機会がある)」

それは天才アインシュタインの残した言葉で、テスの座右の銘でもある。

ちゃんとした、大人の男になるチャンスだって

しっかり考えろ、オレ

 

 

最初の疑問は、10人いたはずの調査隊全員が、機器共々姿を消しているということ。

無論、観測が空振りに終わった可能性もある。だが…

撤退するにしても、印ひとつ残さずに?

いくら何でも早すぎる

 

天門がどういう風であったのか、ウンスから何度も聞いている。

どういう光りで、どんな風が吹いたのか、二人でくぐった時と一人でくぐった時の違いも。

…天門に、のみ込まれた、とか

 

そして第二の疑問は、天門の氏素性だ。

万が一、吸い込まれた先が負のエネルギーで満たされていたとしたら?

粒子が無限に低い準位へと落ち続け、無限に光を放出し続けるという ”ディラックの海” 。

そう呼ばれる不安定な空間に落ちのだとすれば…消えてしまった調査隊は二度と戻らない。

そこは、虚無を意味する空間だからだ。

 

テスが戻る前に、支石墓に何らかの変化が起こっていたなら…

大変なことになる

急がないとっ!

 

 

☆☆☆

 

「離してっ!!! 離しなさいっ!」

 

ありったけの力を込めて、ウンスはテスの腕から逃れようとした。

その時…

 

パチンと音がして腕時計のバックルが外れ…

光の束はまるで生き物のように粒と化し…

ウンスがはめていたそれが、あっという間に吸い込まれていった。

 

 

「…今の、見たでしょっ?

繋がってるのよっ! ねっ? だから…」

「未来、かもしれない」

「えっ?」

 

もし、これがワームホールで人が通過可能な構造であれば…

理論上、光よりも速く時空を移動してはじめて過去へと遡ることが出来るはずだが…

果たしてこのクラスの天門で、タイムリバースは可能といえるのか?

 

「とにかく、わからないことだらけなんだ! 今くぐるのは危険すぎる!」

「…ゴメンね」

 

何処からそんな力が涌いてきたのか…

テスは強い衝撃を受け、握っていた腕を離してしまった。

 

「ウンスっ! ユ・ウンス!!!」

 

ウンスをのみ込んだ天門が、あっという間に閉じてゆく。

誰一人、その女人(ひと)の後を追うことは許さない。

…そんなふうに。

 

 

☆☆☆

 

チェ・ヨンがその場所に着いたちょうどその時、積まれた石の間から、光りの粒がフワフワと飛び出して宙を舞い始める。

間違いない

 

その光りは、かつてほんの一瞬目にした、ウンスをのみ込んでいったものとよく似ていた。

 

「イムジャ…」

次の瞬間、何一つ躊躇うことなく、チェ・ヨンは光りの中へとその身を躍らせた。


 

チェ・ヨン…

光りの粒の中を、もの凄い勢いで身体が落ちてゆく。

息が苦しくてギュッと目をつむる。

 

あなたに、逢いたい

溢れるように浮かんでくるのは、その男(ひと)との記憶だ。

 

はじめて出逢った時の、心を射貫いてくるような強い眼差し。

キ・チョルの屋敷に単身で乗り込んできた時に見せた、ホッとした顔。

お慕いしている、という咄嗟についた嘘を、面白おかしくからかった時の慌てた表情。

慶昌君媽媽に向けられた、慈愛に満ちたどこまでも優しい笑い顔。

キ・チョルから逃げ、滑り落ちそうになった時に支えてくれた大きな手の温もり。

パートナーとなって交わした握手に、体面を気にし慌てふためいていた様子。

毒に差された後を見つけ、もの凄い勢いで怒鳴ったときの声。

 

チェ・ヨンとの想い出の最中、落下する速度が一段と増し…

ウンスは意識を失った。

 


イムジャ!

急降下してゆくチェ・ヨンの身体が、何か柔らかいものに包まれてふわりと浮く。

落下が止まった。

幾筋もの閃光が、その何かに弾き返されてゆく。

そこは、夜空を覆う瞬く星が、昼の空で数多な光を放つような、そんな奇妙な空間、とでも言えばいいのか…

 

これは、どういうことだ…

ウンスの持ち物とおぼしき物を握りしめた瞬間、光りが拡散し、その女人(ひと)が見えた。

両膝を抱えるようにしてうずくまっているのは、紛れもなくユ・ウンスその女人(ひと)。

イムジャっ 聞こえますか?

 

 

…ムジャ

イムジャ!

 

微かながら声が聞こえ、つむっていた目をゆっくりと開けた。

強烈な光りが差し込んできて、視界を奪われる。

チェ・ヨン、なの

声のした方を探りながら…もう一度チェ・ヨン、と名を呼んだ。

 

お怪我は?

 

間違いない。チェ・ヨンなのだ。

無事でいてくれた。

そのことが何よりもウンスの胸を熱くする。

 

平気よっ あなたは?

以前と少しも変わらないチェ・ヨンの眼差しが、はっきりと見えてくる。

 

相変わらず、髪を結ってないのね

…まだひとりなんだ

 

うれしくて、思わず伸ばした指先が遮られた。

なに、これ?

 

透明な球体だ。

ふたりは、フワフワと浮いている別々の球体に覆われているのだ。

うそっ! 

 

ふたりを隔てている壁を、雷功で打ち破ろうとしたチェ・ヨンの手が止まる。

この不安定な空間で内功をつかったら、はたしてどうなるのか…

貴女を傷つけるわけにわゆかない

 

手にした腕時計を高く掲げ、できる限りウンスに近づける。

貴女の物だ

違いますか?

 

支石墓から放たれる光りに、のみ込まれていったウンスの腕時計だ。

わたし、戻ろうとして…

 

知っております

 

…元気だった?

雷功の暴走は起こってない?

どこか悪いところがあれば…

 

球体に阻まれてはいるが、チェ・ヨンの目が笑っている。

瞬き一つ惜しむように、ただ見つめ合い…

ふたりを隔てていた10年という月日が、泡となって消えていった。

 

互いの魂が寄り添うことを節に願い、天門がそれを聞き入れたのだろうか…

不思議なことが起きた。

二つの球体が動き始め、ゆっくりとその距離が縮まっていった。

 

 

大きな手の平に、小さなそれが重なり合う。

見えない壁に遮られているが…

大きくて、相変わらずゴツゴツしてる…チェ・ヨン、あなたの手だわ

 

イムジャ…

貴女は、何一つ変わらず…

 

すごく逢いたかった

逢いたくて…たまらなかった

多くの言葉より先に、強い想いが伝わってくる。

触れあうことが叶わなくとも、目と目が多くを語り合う。

こうして逢えてどんなにうれしいか、どれほど夢に思い描いてきたことか…

 

 

辺りに集まっていた閃光が拡散する光りに変わり始めた頃、再会の時が終わりを告げる。

光の束が細くなるにつれ、一度は寄り添った球体が離れてゆく。

 

イムジャ!

 

チェ・ヨン

必ず戻るわ…

 

想いはしっかりと繋がっている。今までも、この先も。

だから、チェ・ヨンは生きなくてはならない。

生きて、貴女を、必ずこの腕に取り戻す

 

 

☆☆☆

 

人だかりがの中に、テスの姿が見える。

ウンスが支石墓から這いだしたことにも気づかないようだ。

 

あれってきっと調査隊の人達だわ

聞き取った片言から察すると、彼等も天門にのみ込まれていたらしい。

 

「凄いスピードで落下して、もう生きて帰れないかって。

で、落ちた先から顔を出したら、日本人観光客が悲鳴をあげながら逃げていって…」

「つまりそれは昨日の出来事だって事ですか? 時間を遡ったって、そういうことですか?」

「信じられないよな。僕達も夢見てたみたいで…もう何が何だかさ」

「ああ、アメリカで乗ったジェットコースターよりもダントツ恐かった」

 

ウンスはそっとその場を離れると、テスがその人達から離れるのを待つことにする。

チェ・ヨンと逢えたのは、腕時計のおかげだ。

時空を超えて届いたそれが、彼を天門に呼び寄せてくれた。

 

ありがとう、テス

あなたがいたからあの人に逢えた

 

天門が開くまで、計算上あと一年。

ここは江華島。

ウンスにとって、大切な想い出の地。

 

慶昌君さま、わたし、チェ・ヨンに逢えたんです…

 

 

☆☆☆

 

ウンスの腕時計を手に、チェ・ヨンは支石墓の脇に立っていた。

間もなく開京に戻らなくてはならない。

 

『見張りの一番目に書いといたからよ、安心しな』

 

マンボが、任せときな、とぶ厚い胸を叩きながら約束をしてくれた。

何か動きがあればすぐに知らせてくれるだろう。

 

「テホグン、そろそろお戻りを」

チュンソクの呼びかけに、チェ・ヨンは今一度だけ支石墓を振り返る。

 

ヨン…天女殿に逢えたのだな

 

爽やかな風に乗って、媽媽の声が聞こえた気がした。

 

 

 

終わり

 

 

 

間が空いてしまいました。

暑かったり寒かったりで、隊長(体調)はいかがでしょうか?

 

光瀬 龍作の「百億の昼と千億の夜」から…

昔、読み終わってうわ〜と叫んだ記憶を頼りに透明の球体と天門の中を メモ 

" 夜魔天空間” ならぬ ”昼魔空間” のイメージで ❤︎

 

もう一度読みたい一冊なのに、どこに仕舞い込んじゃったんだろう…

 

 

 

 

 

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