足に結わえた短剣を手に空き家に潜り込む。
この一年近くで、暗闇も短剣の使い方にも随分と慣れたものだ。
あっちの夜はもっと暗かったわ
江華島でチェ・ヨンに怒鳴られ、つい言い返した時のことがふと頭に浮かんでくる。
『確かめろ、ですって?!
こんなに真っ暗で、雨がザーザー降ってて…
いったいどうやって確かめろって?
わかるように教えてよ!』
すると、はぁ〜というあからさまなため息が聞こえてきて…
『…兎に角、注意深く気配を聞きわけることです。そうすれば敵か味方かがわかるというもの』
『ムリよ…そんなこと。出来るわけ無いもの』
肩を落とすと、そこに大きな手が置かれ、「出来ます」という優しい声が返ってきた。
生きる意志を手放そうとしていた男(ひと)が、激しい雨の中何人もの追っ手を倒し、こうして自分達を守ってくれている。大きくてあたたかな手のぬくもりが嬉しくて、胸が熱くなった。
いつだってふたことめには、貴女は隙だらけだって…
チェ・ヨン
今、あなたに教えられたことが役にたってる
あるのはその男(ひと)から護身用にと渡された短剣ひとつだけ。
着の身着のままでこっちの世界に来てしまった。
考えることは山のようにある。
飛び虫の解毒をしなければならない。
そして、天門が再び開くまでの間、どうやって生きのびていけばいいのか…
台所に転がっていたマッチ箱を見つけ、火を灯す。
家具と呼べるものは何一つないが、鍋や釜などはそのままだ。
上出来よ
日が昇れば、まわりの状況も把握できるだろう。
床に座ると袖から湿った新聞を取りだして、破らないよう注意深く広げてみる。
日付けは1979年6月18日
…生まれて2か月の赤ん坊よわたし
アッパやオンマに “あなた達のひとり娘のウンスです。ちょっとした事情があってタイムワープしてきました” なんていったって信じてもらえないわね
…オンマは今のわたしよりずっと若いしさ
他に知り合いなんて一人も…
まって!
ハラボジとハルモニ
大母山の登山口から、確かそう遠くなかったはずだわ
ここからなら歩いて行ゆける距離よ
☆☆☆
いつの間にか、壁にもたれて眠ってしまった。
「チェ・ヨンっ!」
ウンスは夢にうなされて目が覚める。
悲鳴を上げて飛び起きるほど、それは苦しい夢だった。
★
『テマナ、このまま行くよ。叔母上にそう伝えてくれ』
チェ尚宮からの文は、おそらく良くない知らせだ。
顔色を失った男(ひと)に、「戻ろう」のひと言がどうしても言いだせず、旅は続いた。
夜中、チェ・ヨンが胡座を組み運気調息をするようになったのは、その日以降だ。
声をかけることを決して許さない…そんな背中を、ただ見つめることしか出来なかった。
その晩…珍しくチェ・ヨンが酒を口にした。天門のある村まであと僅かだから、と。
朝目覚めると、その男(ひと)の姿が消えていた。
嫌な予感がして、直ぐさま後を追った。
初めての道を、何度も転びそうになりながら、それでもウンスは走ることを止めなかった。
そうして辿り着いた部屋でウンスが目にしたのは…
★
夢を見ながら、泣いていた。
あなた、雷功が暴走し始めていたのに…黙って堪えて…
わたしの所為よ
あなたに、心から “都に戻ろう” って言えなかったわたしの…
どんなに悔やんでも、悔やみきれない。
しかし、今となっては前に進むしか道は残されていないのだ。
例え1%でも可能性がある限り…
だから、空が白みはじめるとすぐに行動を開始する。
目指すは大母山近くにある祖父母の暮らす家。
☆
ウンスの足なら小一時間程で到着できるはずだったが…もう二時間近く歩き通しだ。
やはり方向を間違えたのだろうか。
行ったり来たりを繰り返すが、見えてくるはずの家の門が、何処にも見当たらない。
記憶にある場所には、ちょうど見頃の路地バラが咲いている。
ここいら辺りのはずなのに、あるのはバラの生垣よ
右に行くと大母山の山道って看板はちゃんと立ってるのに
ヘンだわ…
「もし、お嬢さん? どうされました?」
品のいい老婦人が声をかけてきた。
グリーンのエプロンを掛け、手にはぶ厚いガーデングローブをはめている。
バラの世話をしていたのだろう。
「あの、知り合いの家を探していて…」
「間違ってたらごめんなさい。あなた、ユご夫婦のご親戚?
いえね、目元が奥さまの方に何となく似ていらっしゃるから…」
「ええ、まあ…」
やっぱり、と柔らかな笑顔が返ってくる。
「それなら、中でお茶でもどうかしら。パンも焼けた頃ですし、朝食が良いかしらね?
昨日から連れ合いが旅に出ちゃって…
一緒にゆきたかったんだけど、ほら、この子達の世話があるでしょう?
虫がつきやすいから、一日も休めなくて。
こんなおばあちゃんで申し訳ないけど、朝食を付き合ってもらえないかしら」