目の前で天門が閉じてしまった。
息をするのも忘れたように唯々ぼんやりとしてうずくまったまま、ウンスは指一本動かすことが出来ずにいた。
夕暮れ時の茜色が紫紺へと変わり、今は闇の帳にすっぽりと包まれている。
月を覆った銀色の雲から、ぽつりぽつりと雫が落ちてきて…
抜け殻のようになった彼女の額にピチャリ、と音をたてて落ちた。
それが引き金となる。
ウンスを取り巻く時が、ようやっと動き出した。
降り始めた雨が、彼女の意識を覚睡へと導いたのだ。
大丈夫よ
あの男(ひと)は、チェ・ヨンはきっと生きてくれる
考えるのよ
どうやったら戻れるのか
とにかく、何とかしなくちゃ
月明かりも街頭の灯り一つさえ届かない暗闇に、ウンスの姿を隠すように銀色をした雨が降る。
動くなら今しかない
ここが何処で、何時なのか、それを確かめる
そうして彼女は、そこが1979年のソウルだということを知ったのだ。
☆☆☆
ウンスが暮らす大母山の家は、奉恩寺を見渡せる場所にある。
太陽黒点の観測数値に例年に無い動きが出始めている今、天門が開く可能性は高い。
テスからの情報もそれを裏付けている。
しばらくは家に詰めたきりになるだろう。
必要な備蓄は、既に整えてある。
天門が開きウンスが戻らない場合のことを、一日も早くテスに告げなくてはならない。
「食べてるときだけは大人しいわね」
「旨いですよ、これ」
その言い方が、ウンスの胸を締め付ける。
似ているのだ。チェ・ヨンに。
☆
初めてテスを見かけたとき、息が止まるかと思った。
髪型も年齢も異なるが、その瞳に宿る光はウンスのよく知った男(ひと)と同じだった。
だから彼が自分の後をつけていると知ると、わざと雑踏にまみれ不意を突いて声をかけた。
あなたは、誰なの?
コウ・テス
ソウルで生まれソウルで育った。両親を早くに亡くし祖父母に育てられた。
幼い頃から “重力” に興味を抱き、17歳で米国ニュージャージー州にあるプリンストン大学に留学を果たした。
そこでは念願だった物理を学んでいる。
趣味はマウンテンバイクとフェンシング。
祖父母と過ごすため、学業の合間には必ず帰国する19歳。
爽やかな笑顔を浮かべながら青年はそう名のった。
☆
「あら、こういう時だけタメ口を封印? 」
「ほら、俺育ちがいいから、つい出ちゃうんだって」
テスがきくタメ口は、ウンスに気を遣ってのことだ。
その女人(ひと)が、自分の年齢を意識しないよう精一杯大人ぶって、背伸びをしてみせる。
このところアメリカでは、パーソナルコンピュータのネットワークが急速に確立されつつある。
テスは片っ端からデータベースにアクセスし、必要な情報をかき集めた。
データベースの電子化に遅れをとるソウルでは、国会図書館に通い詰めた。
それでも、その女人(ひと)の持つ知識に追い付けない何かを感じた。
ユ・ウンス、そう呼びたいけど…ワケありなんでしょう?
あなたは、未来からやって来た人だ
あなたの世界で俺はいったい何歳になるのか…気になって仕方ない
そっちでも、俺は年下ですか?
ヌナ、そう呼んだら、何故だかあなたが困るような気がするんだ
「アジュンマ、さっき路地バラが咲いてた。もう、そんな季節なんだなってさ」
「そう…一年なんて早いものよね」
こっちに来てから、なにもかもがあっという間だった
コウ・テス、あなたはチェ・ヨンの生まれ変わりなのかもって、何度も頭を過ぎったわ
でもね…
ウンスにとってのチェ・ヨンはたった一人だ。
今までも、そしてこれからも。
忘れてしまおうと、自暴自棄にになったことも一度や二度では無い。
その度に、心が叫び声を上げた。
あの時、王宮に引き返す道を選んでいたら…今でも一緒にいられたのだろうか、と。
未練という名の糸が、断ち切れなかった。
今一度チェ・ヨン逢う道を探るため、ウンスはなりふり構わず前を向く。
彼は必ず生きていてくれている…そう信じて。
★★★
久しぶりに戻った屋敷は静まりかえり、人の気配すらない。
チェ・ヨンは鎧を脱ぐと、雨を被った縁側に寝転んだ。
庭に咲き乱れる花々が懐かしい香りを運んできて…時折頰を打つ雨粒が疲れた身体に心地よい。
一羽の鳥が羽音を立てながら飛び立った。
よほど大きな鳥なのだろう。松の枝を揺らしまるで針のような葉から雨粒が池に落ちる。
いつの間にか雨が止んだようだ。
長い夢を見ていた。
姿を消してしまった女人(ひと)の夢だ。
失いかけた命をこの地にとどめたのは、生涯ただ一人と決めた女人(ひと)。
あの日から今日までの、戦いに次ぐ戦いの日々、チェ・ヨンを生かしてきたのは、ただひとつの深い想いだ。
イムジャ、生き抜いてみせる
再び貴女に逢うまでは、何としても…
続く
ウンスを失っていた四年の間、チェ・ヨンはどんな夢を見たのかとても気になります
再び逢うことを諦めずに、強い想いで彼女を信じてきたドラマ本編のチェ・ヨンのように、この話しの中の彼もウンスを想い続けた(はず…)
一方、2012年より前のソウルに戻ってしまったウンスは、テスというチェ・ヨンによく似た青年の力を借り、再び天門が開く日に備えているという
この後思わぬ展開がウンスを待ち受けているのですが…果たして ♡
※コウ・テスの「ウ」が抜けてました
ヽ(*'0'*)ツヽ(*'0'*)ツヽ(*'0'*)ツ