冷たい風が頰をかすめ、重たい雲が湿った雪を落し始める。
一人なら何とでもなるが、女人を連れての道中、風邪でもひかせたら、とチェ・ヨンは気ばかりが焦った。
「雪の中を走ったりしたら、せっかく頂いたこれとか、ダメになっちゃうわ」
手にした柳の枝と小さな籠を手に、頰をふくらませたウンスがのんきなことを口にする。
「しかし」
「せっかく色々と盛り上がってるんだから、もうちょっとだけ…ね?」
「イムジャ」
「春の雪よ。きっとすぐに止んでくれるわ。それに、ここなら屋根があるもの。
後もう少しだけ、話しを聞いてちゃいけない? 」
「寒いのでは…」
「大丈夫だって。あなたの隣は、結構温かいんだから」
向けられた笑顔は、四阿を吹き抜ける風の所為で、急速にその顔色を失いつつある。
「今からお戻りになるんじゃあ、旦那さまはよくっても、奥さまには…」
「暖かい場所に移動すりゃあいい」
「そうだ! 世話役の家は? 」
「遠すぎだ。着くまでに奥さまが凍っちまうって」
「寺にはオンドルがあるよ」
「あそこの住職は説法好きで話し始めたら止まんないって」
すると、一人が思いついたように…
「なら、キム先生のところはどうです? 俺らでオンドル床こしらえたよね」
「おお、その手があるな。先生んとこなら川挟んで眼と鼻の先だ」
「俺、ひとっ走りして知らせてくる」
「キム先生とは」
初めて聞く名にチェ・ヨンが気色ばむ。
「大雨の後、ふらっとやって見えたんですが…学があってね」
「これからの子達は字を覚えた方がいいってんで、村のみんなで書堂を建てたんです」
「ねえ、チェ・ヨン。ソダンって学校のことでしょ? 子供達にも会えるかしら?」
「昼までで終わりでしょう。それより…」
「オンドルよ!」
鼻声だ。確かに、少し暖まったほうがいい。
☆
「奥さま、お待たせしちゃって」
「キム先生が是非って」
「乗ってみえた馬は、こっちでお預かりしときますから」
「さあさ、行って暖まりましょう」
「おい、酒持ったか?」
「肴もだ」
村人達が次々と口を開き、トントン拍子で話が決まる。
チェ・ヨンはすっかり蚊帳の外に置かれたようだ。
「キムさんてどんな人かしら。
ね、もの凄いフィールドワークになってきた」
泣く子も黙るウダルチ テジャンの首を縦に振らせる唯一つの方法…
それは、ウンスの心からの笑顔だ。
キラキラと目を輝かせながら、後もう少しだけ。ね? と同意を求められ…
チェ・ヨンは、またもや頷いてしまった。
☆☆☆
河畔林として残すよう指示をした(当時は水没していた)数十本の柳が、対岸でしっかりと根を張っている。そこには数羽の水鳥が見え、漁場にもなっているようだ。
「ほう、随分と整いましたね」
長雨の所為で、河川敷にある田畑と家畜小屋が氾濫の危機に瀕した時のこと。
チェ・ヨンは素早く地形を把握すると、雷光を使い川を蛇行させることで鉄砲水を防ぎ、一応の事態が収まった後、田畑を高台に移す作業に着手した。
…そして迎えた秋、奇跡的に作物の収獲ができたのだという。
「柳は、我々のように川辺で生きる集落の民にとって、糧になります。
鳥や虫たちが花粉を受精させ、群生し、魚を呼び寄せる。
それに、柳の枝から作った楊枝は歯痛にもよく効きます」
そう語ったのは、出迎えてくれたキム先生と呼ばれる男だ。
年の頃は三十路半ばといったところか。
チェ・ヨンほどではないが、長身の部類に入る。
知的な顔をした、見栄えのするいい男だ。
「某チェ・ヨンと申すもの。こちらは…」
後ろからヒョイとウンスが顔を出す。
「ユ・ウンスっていいます」
キムはふたりを交互に見つめるとその顔に笑みを浮かべ…
「高麗の鬼神と呼ばれるウダルチ テジャンと、医仙さまですね。
気の効いた物は何もありませんが、オンドルになっているので暖まるかと。
おっと、酒ですか。これは嬉しいな」
さらに大きく笑うと目じりに皺がより、グッと親しみやすい顔になる。
なかなか魅力的な男を前にして、チェ・ヨンの口元が引き締まった。
☆
書堂の裏手に建つ離れはこぢんまりとしていて、棚には多くの書物が積まれ、暖かく、なんとも居心地がいい。
いっこうに降り止まぬ雪の所為で、すっかりと腰が落ち着いてしまう。
村人の年齢構成、子供達の興味の対象、農作物の種蒔きから収穫まで、様々な話しを聞きながら、ウンスはその度頷いて、熱心に筆を動かし、隣のチェ・ヨンに小声で話し掛けるなど、忙しかったが…
冷え切っていた身体が暖まるにつれ、筆を握る手が止まりがちになり、少しずつ寡黙になってゆく。目元が潤んできている様子に、その女人(ひと)は今、猛烈に眠いのだと知る。
チェ・ヨンはその華奢な肩を己の胸に引き寄せた。
素直に寄りかかってきた力の抜けた身体から、少々熱を感じる。
「すまないが、この女人(ひと)が横になる場所を用意してもらえないだろうか」
「ありゃ、お顔が赤くなって」
「キム先生、隣の部屋でいいよね?」
「頼みます」
「やはり、お疲れになったんじゃろうて」
☆
チェ・ヨンは長衣を脱ぎ、それでウンスを包みこむと、横抱きで隣まで運ぶ。
他所の男が使う寝台に、そのまま横たえるわけにはゆかないと思ったのだ。
「サイコ…喉、乾いた」
「冷えた身体に花冷え(※)などを呑むからです」
「…スッゴくぅ〜美味しいお酒でさ」
「黙って眠って下さい。大人しく…」
扉一つ隔てたふたりのやりとりに、村人達が聞き耳を立てている。
「ため息が出るくらいお似合いだよね」
「やっぱりご夫婦だよ」
「キム先生が医仙さまって呼んでたよ。だとしたらご夫婦じゃ無いだろう?」
「けど、奥さまって呼んでも否定しなかったよな?」
「まあ、どっちにしたって特別なお方に違いないね」
「シー…話しが聞こえないって」
いきなり戸が開いた。
「ひっ!」
「い、今、手洗と手拭いを」
「他に、た、足りないものとか…」
「白湯をもらえぬか」
「た、只今!」
蜂の子を散らすように村人達がいなくなると…
「こちらを」
大ぶりな碗がチェ・ヨンの前に差し出された。
「かたじけない」
キム先生と呼ばれる男からそれを受け取ると、チェ・ヨンは彼に目配せをし、部屋に戻った。
後半2/2 に続く
※花冷えって言葉、冷酒の呼び方にも使われるらしいのですが…
なんでも10°くらいに冷やした日本酒のことだとか何とか…
ちょっとだけチェ・ヨンに言わせたくて…
風邪引いちゃいました〜
ぼんやりと書いてたら、あれこれ盛り込みすぎて終わりませんでした
はたしてキム先生は、敵か味方か