赤い天燈は、南大門から北のやや高台にある広場からも次々と上がっていた。
 
 
この場を仕切っているのはスリバンと油市場の男衆。
 
「ようよう!化粧市場の色男、オンジュ兄ィじゃないか!
相変わらずいい男っぷりだね。
アンタが声かけりゃあ、きれいどころの百や二百、軽いだろう?
なるべくたくさん集めたいんだ。手伝っとくれよ!」
「そうさね、慶事にきれいどころは欠かせないよ」
「人だろうが猫だろうが、手のあるもんは…ほらこうして火を灯して、ふわふわ浮いてきたら手を離すだけなんだ。簡単だろ?」
 
スリバン達の熱烈なラブコールがあがると、当のオンジュは満更でもない顔をしながら…
 
「けど、なんで今頃なんだ? ソルラル前に、それもいきなりだろう? 
きっとみんなわけを知りたがるぜ。けど、この俺が知らないんだから…」
 
至極最もな疑問を口にする。
チェ尚宮からの伝達で、準備担当として礼部とスリバンが必死で走り回り、やっと、何とか、間に合ったが、この儀礼ともつかない天燈飛ばしの理由を聞かされたのはつい先ほどのこと。
 
「なんでも、ワンビママの深〜い御心だって聞いてるよ。
こうして天燈を飛ばしながら御霊(みたま)を鎮め、民の平安を願って下さるそうだ。
何ともありがたいことだねぇ」
 
滔々と語るマンボ姉に、オンジュは頷いた。
 
「おや、化粧市場の若旦那。いったい何の騒ぎです?」
「なんでも、ワンピママからの恩恵だって。
みんなで天に向かって天燈を飛ばして平安を願い、商売繁盛はもとより、心願成就、諸災除、すべてに神恩感謝するんだよ」
「あらっ。なんだか楽しそうね。参加するわ」
「こっちにも頼む」
「あたしも」
「俺もだ」
 
赤い天燈に気付いた大勢の人々が、わらわらと通りに繰り出してくる。
それを待っていたように、今度はマンボが大声を張り上げた。
 
「おいっ!
赤い月だぜ!!
真っ赤な月が欠けてらぁ!!!」
 
「赤い月だって? 見えねえな」
「よお〜く目を懲らしてみろよ」
「おおっ あれか」
「なあ、不吉な事が起こる前兆だっていうぜ」
「そういやさ、前の前のそのまた前のチョナが赤月隊…」
 
狙い通りの展開になってきたぜ!
 
「おいっ!よせって!言霊は、生きてる俺らに返ってくるんだよ。
だからさ、滅多なことは言うもんじゃねぇ」
 
「お、おう」
「う、うん」
 
ようし。ここいら辺りで…
 
「天燈を飛ばしてワンビママが邪気をお祓い下さる」
 
「おおっ!」
「なるほど」
「ありがたいこった」
「なあ、だったらさ、一日も早くお世継ぎが授かるよう一緒に願おうぜ!」
 
未だお世継ぎが授からず王妃が辛い思いをされていることは、高麗に根付いた民草なら誰でも知っている。
 
「おうっ! そりゃあいいな」
「なあ、ワンビママにお子が授かるよう、それも願おうぜ」
「だな」
「良い考えだ」
 
〆をご覧じろってか
 
「おおい、見てみろよ!
月も天燈も、この世のものとは思えねえほど綺麗だぜっ!」
 
 
天に吸い込まれてゆくような赤い天燈に、それを迎えるように浮かぶ赤褐色の満月は、得も言われない美しさだ。
 
願いが叶うといい…
誰もがそう心に思った。
 
 
◆◆◆
 
同じ頃、チェ家の屋敷ではウンスが熱弁をふるっていた。
 

この灯りで悲しい記憶を書き替えて欲しい。

心を、ほんの少しでも癒やしてもらえたら…

 

癒やす…

 

とうの昔に閉じ込めた辛い記憶だ。


「ヨン、あなたは皆既月食の夜テジャンを亡くして、大切な仲間まで失った。

逝ってしまった人たちの魂が安らかであって欲しい。わたしにはそう祈ることしかできないけど…赤い月がそうしたわけじゃない。少なくてもそれだけは知っているつもりよ」

 

「月の所為ではない、と?」

 

被ったマントを揺すりながら、ウンスが頷いた。

 

「月が赤くなると悪いことが起こるっていうのは迷信だもの」

 

「迷信…」

 

「道理にあわない、だけど人々を納得させちゃう言い伝えや噂、とでも言うのかな。

赤月隊っていう名前も、不吉とされている名を名のることで、敵の恐怖心を煽ったって。

うまい心理作戦だわ。きっとムン・チフさんはかなりの策士だったのね」

 

当時、赤月隊は、敵に恐れを抱かせる作戦を多用した。少ない人数で敵を倒すには、そうする必要があったのだ。

 

「理解出来ないことを人は恐れるわ。それを人智を越えたものの所為にして、その恐怖を祈祷やら生け贄やら…そういうのに頼って静めようとするじゃない?

だけど本当に怖いのは、そんな正体不明の物事に流されちゃう集団心理だと思うの」

 

「しんり…確か心理学を学んだ、そう貴女は言ってましたね」

 

「ヨン、わたしはあなたとこうして一緒に過ごしてゆきたい。

そのためなら、いくらだって戦うつもりよ。わたしが妖魔だっていう噂ともね」

 

知っていらしたのか…

 

「まあ…剣を持たない(いくさ)だから、時間がかかっちゃうかも」

 

ウンスの言う戦とは、迷信がかった誹謗中傷に屈しない、強い心を持ち続けることだ。

 

「覚悟の上です。長い戦になろうと、貴女は今のままで…」

 

二人三脚で、共に歩めばいい

 

幾つもの赤い宝石が煌めいた瞳に見つめられ、チェ・ヨンはやさしく微笑むと、その女人(ひと)を抱きしめた。

 

「ちょっとお、あなたも一緒に空を見なくちゃ。

ほら、もの凄くキレイ…不吉になんてこれっぽっちも見えないわ」

 

「ならば、こうして…」

 

ウンスの背を胸に当てるように抱き直すと、おもむろに空を見上げる。

あまたの天燈を従えて赤褐色に染まった満月が、徐々に青い光りを取り戻してゆくさまは、何とも幻想的で美しい。

 

ねえ、チェ・ヨン

ここで、あなたと一緒に、今夜と同じような赤くて青い月がみられるのは、何年後のことかしら

部屋に戻ったら計算してみようかな…

 

イムジャ、貴女は赤い月への畏怖を一瞬で美しさに変え、忘れられぬ一夜にしてしまわれた

 

「光りの特性だって、頭の中では理解出来るのよ。でもさ、こうして見てると本当に不思議な気がして来ちゃった。なんだか、ロマンチックよね…」

 

こうやってあなたにも垂れかかると、気持ちよくて眠くなっちゃう…

 

「冷えてきました。そろそろ部屋に戻りましょう」

「…ん」

「イムジャ?」

 

目蓋が重くて仕方がない。

ここ数日、なんだかんだと睡眠を削ったツケがまわったのだろう。

…ウンスはあっという間に心地よい眠りに落ちていった。

 

力の抜けたその身体を横抱きにすると、チェ・ヨンは今一度空を見上げる。

赤く青き月の名残を惜しむように。

 

 

 

終わり

 

 

 

P.S.

その頃王宮では…

今宵の儀礼を労いに渡っていた王に、王妃が申し出ていた。

…側室を迎えて欲しいと。

 

王妃のひと言が引き起こしたその夜の一大騒動は、また別の話で近いうちに…

 

 

赤月隊という名前の意図ですが、眉に唾付いてます

ムン・チフって、ヨンの師匠だけあってやっぱ策士だったよね…なあんてね

だから余計に矛盾を感じるんですよね

なんで、あの王に謁見した際、メヒを連れていったのか…(☜ しつこい)