服の袷をきゅーっと会わせるように着込み、赤い髪はきつく結ばれている。
「今夜、秋夕でしょ? 月がすっごく大きく見えるんだから。
今度は、月の話しをしない?」
一寸の隙もない装いをしたその女人(ひと)が、笑いかけるようにさりげなく、チェ・ヨンを誘った。
何かあるな…
直感がそう告げてくる。
あの夜、目の前の女人(ひと)の唇にいきなり触れ、口移しで酔い覚ましを呑ませた。
それも、何も告げずに、いきなりだ。
酒は一滴も口にしていなかったから、酒神のいたずらで済むはずがない。
更に極めつけは、何事もなかったかのうようにその場から立ち去ったこと。
部屋を出たのは、それ以上留まれば箍が外れたに違いないから。
時折、その美しい顔に寂しげな笑みを浮かべ、一人で天を仰ぐ女人。
長く凍ったままの心を溶かし、己を見失うほどの悋気を覚えた、ただ一人の女人。
知られてはならない、そう思えば思うほどに膨らんでゆく想いが、ふとこぼれ落ちてしまった。
……だからあの時、ジレンマに陥りながらも、チェ・ヨンは立ち去るしか術が無かったのだ。
☆☆☆
月光を浴びながら、酒を酌み交わす。
松餅と、チェ・ヨンが器用に剥いた生栗、そして微かに聞こえてくる虫の音が、今宵の肴だ。
「大きくてまん丸…見ているだけで和んできそう」
貴女は、何故俺を誘った?
「お酒もおいしいし、栗もホクホクしてる」
そりゃあそうだ
酒も肴も選び抜いたんだ
「じゃあさ、そろそろ月に関連した連想ゲームを始めてみない?」
げいむ…
そうきましたか
月は地球のたったひとつの衛星なのだ、とその女人(ひと)が朗らかな声で言う。
“たったひとつ” と “えいせい” という語句が、ことのほかチェ・ヨンの気を引いた。
えいせいの意味を、どうしようもなく知りたいと思ったのだ。
どうやら、ウンスが言うところの連想ゲームに、すんなりと乗せられたようだ。
気がつけば、漢字でどう書くのかを知りたい、そう所望していた。
☆
そうよ、そうこなくっちゃ!
“えいせい” という漢字を記すため、二度も書雲観を訪れたのだ。
一度目
『星の周りを回るんです』
『渾象に記されていただろうか…』『えいせいという漢字、と言われてもな…』
『あのう…ほんさんって…』
『渾天説に基づいた天体観測器ですよ』
『見せてもらえません? それ』
ありゃ…天動説だわ
…そうか
14世紀ってまだ地球は丸くないんだ…
『…出直してきます』
二度目
『まわるっていう意味で、えいって読む漢字は?』
『まわる? なら徊か?』『えいとは読まぬぞ』『廻も…読まぬな』
『えい、と読む漢字は、己が知るだけでも五十は下らないが…』
しまった…国子監に行くべきだった?
でも、あそこは女人禁制だし…
『えい、と読む漢字なら衛なのでは?』
『それっ、書いてみてください!』
衛星…これよ!
これに賭けるしかないわね
そんな具合に、ウンスは多大な努力を払ったのだ。
☆
その女人(ひと)が予め用意した紙に書かれた “衛星” の “星” とは、地球を意味する。
そして、”衛” の解釈はふたつ。
ひとつは、「周りをまわる」という意味合い。
もう一つは、周りにいながら中心を「守る者」ということ。
見えてきたのは…大地を美しく染め上げ、地球という星に沈もうとしている月の姿だ。
「どう、わかっちゃった?」
「さしずめ、貴女が地球なら、月は俺です 」
自然と、そんな言葉がチェ・ヨンの口をついて出た。
☆
「ちょっとぉ! なんであなたが月なのよ?」
「理由を、知りたいですか?」
ウンウン、と頷いてしまった。
目の前の男(ひと)に訊ねたいことがあったはずだが、それすらも霞んでしまった。
これって、形勢逆転?
リベンジするはずだったのに
…なのに、 あなたがどうしてそう思っているのか…その理由を知っておきたくて
☆
微かに残った迷いを吹っ切るように、チェ・ヨンは語りはじめる。
「衛星の “衛” は護衛の衛と同じ文字です。
つまりは、俺達が生きる星…地球を守る唯一つの存在」
「守る…の?」
「貴女を」
だから、わたしが地球で、あなたが…月なの?
月は太陽に照らされて光り輝く。
陽の沈んだ後、その光が夜道を照らすのだ。
月光は、あくまでも控えめで儚い。
だが、暗い夜道に迷わぬよう、星明かりと共に天がもたらす、大切な明かりだ。
(…無理矢理)あなたに導かれてここに来た
ものすごいカルチャーショックを受けたわ
でも、ここで、こうして元気でいられるのはね…
チェ・ヨン、あなたのおかげよ
その男(ひと)を見上げれば、キラキラと数多の星が耀くような瞳にぶつかった。
お、落ち着こう
落ちつかなくちゃっ!
ウンスは盃を酒で満たすと、一気に飲み干していた。
☆☆☆
「あなたはさー、わたしが何かやらかすとぉ、一番に来てくれるしぃ…
黙ったまんまだけど、守ってくれてる」
しっかりと着込んでいたウンスの上衣が、盃を重ねる度に僅かずつ緩んでゆく。
「でもぉ、それだけじゃ…」(いつまでたってもあなたの気持ちがわからない)
「不満ですか?」
貴女が苦しいと感じた時、傍にいながら俺は…どうしてやることも出来ずにいる
「折角の秋夕の月よ。ほら、呑もう! ぐいっと…」
チェ・ヨンさん、知ってる?
…こうして、きれいな月を眺めながら、一緒に過ごしたいって願ってる
「呑みすぎだ」
「まらまら…呑み比べじゃあ、負けたことなんて…ヒック! ないんらから」
あなたに訊ねたいって思ってた
月は、地球にとって、唯一つの衛星なの
永遠に傍を離れない
ねえ、もし、もしもよ…(地球と月みたいに)あなたの傍にいたいって言ったら?
あなたはきっと返事に困るわね…
だから、そう訊ねることが、あの夜のリベンジ
☆
どのくらい呑んだのだろう。
ウンスが船をこぎ出している。
いくらもしないうちに、チェ・ヨンの肩に、その女人(ひと)の頭が寄りかかると、紅い唇が僅かに開き、呟くような声が聞こえてくる。
「一緒に、いてくれる?」…と。
返事をする代わりに、その身体をゆっくりと抱き寄せた。
「…月が、見えなくなるまで、ここに…て」
それは、寝言かもしれない。
だが、チェ・ヨンは、(今度こそ)朝までこうして共に過ごすつもりだ。
イムジャ、貴女から俺は、どうしたって逃れられない
何故なら…
その女人(ひと)を守り続ける月でありたいと心から願っているから。
秋夕の夜、その月が沈みきるまで、後どれくらいの時が残されているのか…
赤い髪を器用に解き、寝台にそっと横たえてやると、ウンスが甘くておいしいと言った酔い覚ましの茶を用意するため、チェ・ヨンはおもむろに立ち上がった。
終わり
ウンスにとって、家族で過ごす習わしがある秋夕の一日は何処か物寂しく、だからチェ・ヨンはウンスを一人にすることが出来ないのでは…と
そして、「衛」という文字が “守る” という意味を持つのだと、知ってしまいました!!!
書雲観のくだりは、根拠まったくナッシングではありますが、確か地動説がコペルニクス@16世紀で、ガリレオが木星の衛星を見つけたのは17世紀に入ってからだったかと。
ならば、惑星も衛星も、高麗では未知のものだわ、といさんで書き始めたところ…ひゃ〜遊びのお誘いがきちゃったという
((((((ノ゚⊿゚)ノヾ(▼ヘ▼;)