あの東日本大震災から5年。
 
 テレビでも新聞の記事などでも、連日取り上げられる震災の話に眼をそらしたくない。

 復興に立ち向かい続ける人。悲しみと格闘しながら時を刻み続けてる。自宅を再建した方。避難所、プレハブでの生活を余儀なくされるご家族もまだいるのが現実だ。
 
 僕らは忘れない。
自らの足で現地に赴き、全身で感じた震災直後の被災地。そしてそこで暮らす皆さんの声。歌を、音楽を、何気ない言葉のやり取りを通して、決意したから。僕らの歌は、心の中は、いつも東北へ向ってる。
 今日という日に限らず、ずっと復興と共にありたいと思ってる。

 すでにご存知の方もいるかもしれませんが、去年の冬から、僕らは2人だけで全国を回るストリートLIVEの旅をスタートさせました。『Road to you』とつけた旅のタイトル。
 僕らにはもっと届けたい歌があって、ずっと待ってくれている人もいて、僕らが諦めない限りこの道はどこまでも続いているから、そんな想いを込めた。

 そして『Road to you』で、まず初めに目指した地は、僕らふたり何の迷いもなく東北でした。東京を出発し、福島のいわき市や宮城の仙台を中心に回った。
 
 今日は皆さんの意識も復興に向けてまた高まる日だと思う。そこで僕らがこの旅で体験した話を少ししたいと思います。
 
 それは東北ストリートLIVEを終えて、仙台から東京への帰り道での出来事でした。
その日は雪予報が出ていて、地元の方の情報で、天候が荒れない海沿いの常磐自動車道で南下するのが良いだろうという話しになり、深夜に仙台を出発した。
 街を抜けると辺りはほとんど車もなく、東京ではおよそ見ることのできないひたすらに綺麗な満天の星空の下、車を走らせた。予定していた常磐自動車道に乗れていない事に気付かずに。。。
 常磐自動車道が全線開通したのは去年3月。疲労も溜まっていたのもあり、深く考えずに情報の古いナビの言いなりになっていたのだ。

 そして福島県の浜通り沿いを行き南相馬市、さらには原発事故付近の浪江町の方まで車を走らせる事になる。僕らが走ってきた一本道は、突如巨大なバリケードによって塞がれた。そこに書かれた痛烈な心の叫びは、今にも暴れだしそうな文字で、思い出すだけで胸の奥がギュッとなる。
自分達の認識の甘さに恥ずかしさを覚えた。そして引き返す道のりの中、ヘッドライトで浮き上がったのは全く人の気配のない街の姿。道路脇には四角く黒い物体がいたるところに山積みにされていた。
放射性廃棄物は処分する事も持ち運ぶことも出来ずに放置するしかないのが現実。漆黒の闇の中で、ただただ寂しさと恐怖が増していった。

 その後、南相馬ICから常磐道に入ることができた。数km間隔で放射能測定の掲示板。その数値は原発に近づくにつれどんどん高くなる。そんな中、常磐道が一部工事中で、20kmほど下道を走る事になる。
通ることだけ許された警戒区域周辺の道路で、夜通しパトロールをし外で警備する警官の方。高速道路の料金所のおじさん。一軒だけあったコンビニ。もう、、、色んな感情が込み上げてきて、僕らは暫く無言で何も話せなかった。
国のため復興のために誰かが身を犠牲にして、やらなければいけない現状を知った。生活の再建、産業の復興の姿が見えてくる一方で、遅々と進まない問題はまだまだたくさんある。
 
あの時だってそうだった。できる事は少なくても、とにかく知ること、感じること、同苦する姿勢を崩さずに語って伝えていくことが、本当に大切なんだと思う。
 
 仮設住宅に暮らす人は、岩手、宮城、福島の被災3県で5万8948人を数えるそうだ。(本年1月末現在、各県発表の合計)震災当初の耐用年数である2年を大きく超えた仮設住宅に住み続けなければいけない現実もある。
 
たくさんの今ある現状を知ることで、これまで以上に、普通に生活し生きていられる事に感謝するし、歌を歌い続けていられる事、誰かを勇気づけたり、気持ちを豊かに出来たりする事をずっと続けていきたいと強く思う。
 
この日を大切にしようね。
 
 5年前、福島市で出会った吾妻中学と西信中学のみんなも元気かな?
高校卒業目前だったり、もう成人を迎える子達もいるよね。
石巻の女子高(市女)の生徒の皆んなも悩みながらも夢に向かって今この瞬間も一歩踏み出してるに違いない。

 そう願ってます。
 
未来は明るい。そう決めて、今日という日を噛みしめて。

止めどない希望を胸に。明日へ。


Honey L Days
KYOHEI
MITSUAKI