U2と共に終わり無き道を | 電磁波と環境ホルモンから家族を守る ハニーハウスのブログ

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『土岐、お前は将来なにがしたいんだ?』




16歳になった高校一年の二学期の初めのクラスの個人懇談で、高校の担任の先生がズバリと聴いてきた。




『あ....はい....。あの....ミュージシャンになりたくて....。』



当時の担任は音楽の先生。


趣味でオーケストラの指揮なども手掛けていた程の音楽通で、プロゴルファーのアーノルド・パーマーにソックリのダンディな先生だった。




普通こんな話、大人にしても


『お前何考えてるんだ!』



と諭されるのが関の山だろうと決め付けていた。





だがアーノルド・パーマー似のダンディな担任の先生は真面目な表情でこう話し始めた。




『....まず、プレーヤーの心構えとしては....。』




落ち着いた口調で目を見ながら大切な話しをしてくれたのだ。




え....?!




スッと力が抜けて自分の中で何かが確実に変わり始めた。











そして、1981年の秋の訪れと共に、中学の時から仲の良い友人I君が札幌の高校の同級生をウチに連れてきた。



『おーい、居るかー?!』



二階の部屋の窓から下を見ると、友人と一緒に訪れてきた彼はスマートないで立ちでギターを抱えていた。


名前をK君と言った。


I君は音楽性が自分とかなり似ていたと感じて、自分にK君を紹介するつもりで遠路電車に乗って田舎まで連れてきてくれたのだ。



K君はとても雰囲気があり、気さくな彼とたちまち意気投合したことは言うまでもないが、彼がアンプにナチュラルカラーのストラトキャスターを繋いで弾き始めると、聴いたことの無い凄い音を奏で始めた。


K君はハードロックとも違う、音の塊りがうねる様にドライブするようなニューウェーブっぽいリフを弾き始めたのだ。



速くて指の動きが見えない....。



(....す、すごい.....。)



彼のプレイを無理矢理例えるならば、ヴァン・ヘィレンがリフに徹したような感じ。

彼の佇まいはXTCのアンディ・パートリッジの横に並んでいると似合うと思った。


自分はB Bキングやキース・リチャーズを真似て弾いていたので全くタイプは違ってはいたのだが、K君の方が明らかに上手かった。




『ね、ねぇ?もう誰かとバンド組んでるの?』




彼はそろそろ誰かとバンドを始めようとしていた時に、それを知ったI君が自分を紹介しようと連れて来たのだった。



意気投合したK君と自分は次の日から毎日のように電話で音楽の話しを始めた。




最初に彼がウチに訪れた際に、好みのバンドの入ったカセットテープを1本置いていった。


出てきた音は珠玉のサウンド。


U2、XTC、Depesh Mode、Kinks、Roxy Music、The Clash.....etc.






『コレ、良いでしょ?冷たい感じがイイんだよね。』


その中でもU2は繊細で新しい音を奏でていた。



アイルランドのダブリン出身。


高校生のLarry Mullen jr.がバンドメンバー募集の為に張り紙をして集まったことから始まったバンド。

Paul  David Hewson (Bono Vox)
David Howell Evans (The Edge)
Dick Howell Evans (The  Edgeの兄)
Adam Charles Clayton (Adam Clayton)


1908年のドイツの潜水艦、U2からバンド名を付けた。

You too 【君もまた】に掛けたとも言われるが本人達は特に意味は無いと言うが...。


パンクムーブメントからニューウェーブ全盛期の始まりに、U2は登場した。



新しくカッコいい音にたちまち魅了されてしまった。


17歳のK君と自分は時を忘れて音楽の話しに没頭し、勉強を忘れた自分の学力は上から5番目くらいから真っ逆さまに急落した。


同じクラスにもU2のファンがいた。


彼の名前はK君。(KH君とする)


物静かで真面目、笑上戸な彼は空気のような存在だったが、何かと気が合い徐々に仲良くなって、The  edgeのギターの弾き方も彼に教えたり、レコードを一緒に聴いて論評したり。


バンドには入らなかったが、気が付いたらKH君は自分の傍に居る存在だった。



やがてK君と組んだバンドは解散し、自分は工学部の建築学科に入学、近藤君は半導体の会社に入社していた。(当時、日本の半導体技術は世界一であった。)



移動手段が車になり、KH君の住む千歳市の寮まで良く通ったものだ。








【今年こそは遊びに行こうと思う。】






7年が経過し、31歳になった時に送られてきた年賀状にはそんな一言が書いてあった。



そうだ、しばらく行ってないな....。







彼の寮の部屋の窓を叩いた。

部屋には人影が感じられない。



引越したのかな....。





当時は携帯電話など無く、自分の電話を持たない彼への連絡手段は3つ。

手紙を書く、寮の電話に電話する、直接訪れる。





後日もう一度訪れて、今度は管理人さんにも聞いてみると



『ああ、KHさんなら寮を出たよ。何処にいったのかは知らないけど。』



(何処にいったのだろう....。)










『土岐君、こんにちは。広明の兄です。』



33歳の冬、KH君の歳の離れたお兄さんから電話があった。









『広明ねぇ....亡くなったんですよ。』






『....え...?』







KH君は31歳を過ぎた頃、職場で無意識にボーッと立ち竦み、それが断続的に続いた事で退職を余儀なくされ、北陸地方に住んでいたお兄さんが引き取ったものの、徐々に身体全体の筋力が落ちて車椅子の生活になった。

最後の半年は意識もなく植物状態。






亡くなる3日ほど前に、ただ目を瞑り呼吸をするだけの弟にこう聴いたそうだ。



『広明、友達に逢いたいか?土岐君に逢いたいのか?』




(!!)




すると聴こえるはずもないKH君の目から大粒の涙がポロリと....。



担当のドクターは、『そんなことあり得ない....。聴こえるはずが無いのに....。』









『土岐君に広明の写真を送るね。』





電話を切った後、いても経っても居られずに車に乗って外出をした。




寒々とした田舎道を通り抜けて、札幌大橋を越える時に止め処なく涙が溢れてきて堪らずに車を停めてしまった。





大切な存在は亡くなって初めてその大きさに気がつくものだ。








埼玉スーパーアリーナ





今、目の前で17歳の自分が憧れたボーノが力強く歌っている。


必死になってギターをコピーしたエッヂが目の前で変わらぬ音を奏でる。






Where the streets have no name が始まりKH君の事を思い出した。


【今、エッヂが目の前で弾いているよ。】




U2が大好きで笑上戸だったKH君はきっと羨ましいと思うに違いない。

いや、傍で一緒に聴いているのかも。




そしてバンド仲間だったK君との日々が、脳裏に刻まれたサウンドと共に浮かんできた。



K君に教えてもらったU2。


そして、KH君とU2を聴いて過ごした10代後半から20代。


隣には都内でモデルをしている25歳になる娘。



そんな彼女は優しく自分の昔話しを聞いてくれる。






リアルな瞬間で得たものは、次の道筋になり、爆発的なアイディアと創造性を生む。



U2のサウンドは独創性と革命だ。