(少し長い記事です)


「いいですか?結んで下さい」

病室で、そう医師から促され

手と手をしっかり握り合う

夫と妻。


医師の名前は、

日野原  重明さん(享年105歳)

日本の終末期医療の確立に

力を注ぎ、

命と向き合い続けた方だ。



医師   日野原  重明さん


「科学が破れて、どうしようも

ないような時に、命を大切に

する。それを、私たちは

Cure(治療)ではなく、

Care(介護)という言葉で

表現する。

その、Care(介護)を、

人間の心にタッチをする。」



100歳を越えてなお、一人の

医師として最前線の医療現場に

立ち、生涯現役を貫いた。




明治44年、牧師だった父親の

次男として生まれた。医師を

志したのは、日野原さんが

10歳の時、倒れた母を救って

くれた医師の熱意に、感動した

事がきっかけだったそうだ。


医師になって間もなく

太平洋戦争が始まり、多くの

人々の死を目の当たりにした

という。

終戦後、米国へ留学、

世界に遅れをとっていた日本の

医療改革に、情熱を持っていた

日野原さん。


そんなある日、 

昭和45年3月31日、よど号ハイ

ジャック事件が起きた。

58歳の時、偶然乗り合わせて

いた日野原さんも、人質として

4日間、拘束された。

その後、解放されたが、この時

の経験が日野原さんのその後の

人生を一変させたという。


「今までは、人の為に働くと

言っても、自分の地位、名声、

学会活動を考えていた。

これからは、与えられた人生

だから、誰かに私の能力で

出来ることをお返しをする 。

その、私の第二の人生が

始まるんじゃないか、と。」



自分は使命を与えられたと

強く感じた日野原さんは、

末期の癌患者などの為の

終末期医療に取り組んだ。


平成5年、81歳の時、日本で

初めてのホスピス専門病院

『独立型ホスピス 日野原記念 

ピースハウス病院』を設立。


「苦しい延命治療を続けるの

ではなく、薬で痛みを取り除き

心穏やかに過ごせるよう

支えていく。」


日野原さんが人生の終末に

こだわったのは、新米医師の頃の

苦い経験からだったという。


医学部卒業間もない頃、担当

した不治の病の少女を、穏やか

に看取る事ができなかった。

母親への感謝の言葉を伝えよう

とする少女を、日野原さんは

叱咤激励し、無理な延命措置を

施してしまった、と後悔した

という。


「明らかに死んでいく患者さん

に、処置をするよりも、彼女の

手を握りしめて、心をサポート

できなかったという事が

本当に心の痛手になっている。」


「医師は、命を延命させる事が

義務だと多くの人が思い込んで

いた。そうではなくて、今

許されている命の深さ、質を

濃くする事こそ必要、という事

に気がついた。

命は、長さではなく

深さであると。 」



子ども達に命の大切さを教える

《いのちの授業》忙しい仕事の

合間をぬって、年間100日を越

えるボランティア活動も行って

いた。




「命を守るということは

意地悪をなくすこと、

イジメをなくす、みんな仲良く

する事、戦争をしないこと。

命を大切にする事を

やりましょう。」

(いのちの授業より)




医師  日野原 重明さん104歳
美術家  篠田 桃紅さん103歳
(2016年)


「命というものはどういうもの

かな…と考えてみるとね、自分

で作ったものではない。 

命とは、与えられたもの

なんですね私は、その大切な

命を、子どもたちに伝えたい

んですよ。子どもたちにね。」

(篠田  桃紅さんとの対談より)




生涯現役の医師であり続けた

日野原  重明さん。


医師 日野原  重明さん



「限りある命をどう使うのか

命ほど尊いものはない。」



そして、大切な命について

次のようにも

お話しされました。


「与えられている自分の

《時間》をどう使うかが大切。

それにも、エンドがある。

そのエンドの時に、長寿を

神様に感謝する。

感謝の言葉を捧げられるように

それが私の最大の希望、

祈りでもある。」



(画像はお借りしました)





介護現場では

入居者さんのお看取りを

させて頂く事があります。


人は、人生という旅を終え、

旅立ちの時を迎えます。


《大切な命》に

向き合うための

とても静かな最期の時間を

感謝と共に、過ごします。



(最後までお読み頂き、

ありがとうございました)






美術館のある公園で